クソ寒い日々が懐かしい。
九月に入ったというのに、ちっとも涼しくなってくれない。少しは太陽にも「日曜日」や「夏休み」があっても良いんじゃないか、とは思いつつも、かと言って本当に太陽が休業しちまえば、俺達、人間はとんでもなく困ってしまうのは目に見えているわけで、結局のところ、人間が我慢して堪えるしかない、という結論に至ったのと、俺が二年五組の教室に入ったのは同時だった。
今年の夏休みは無事に一度で終わってくれたらしく、何千何万とは繰り返したりしていないらしいことは、一応、長門や古泉達に確認済みだった。どうやら、今年のハルヒは夏休みにやり残しが無かったようであり、そのことにひとまず、俺は安堵していた。
窓際の後方から二番目の席に、俺は鞄を置き、椅子に座る。俺の後ろの席の住人である涼宮ハルヒはまだ登校してきていないようで、姿が見えなかった。俺は、俺の前の席に座っている少女――キョン子に声を掛ける。
「よっ、キョン子」
「ん? あ、キョン。おはよ」
艶やかな黒髪をポニーテールに束ねた彼女が、こちらに顔を向けた。
「珍しいじゃない?」
「何がだ?」
俺は訊き返した。すると、キョン子は言う。
「キョンがハルヒよりも先に学校に来るなんて」
「……それ、俺がいつもいつも、遅刻しかかってるやつみたいに聞こえるんだが」
俺の言葉に対し、キョン子は「そうとも言うかもね」と言って、くすりと笑った。
そんなキョン子の笑顔を眺めていた俺は、ふと違和感を覚えた。
何故、キョン子は俺の目の前にいる?
そんな疑問が、俺の心に湧いた。しかし、その問いに対する答えなど、キョン子が俺と同じく二年五組に所属する生徒であることを思えば、自明な話ではあった。
ところが、ここでまた、別の疑問が浮かび上がる。
キョン子は、俺の同級生だっただろうか?
そんなもん、俺自身の記憶が証明している通りだろうが、と自答し、俺は「キョン子が自分の同級生である」という結論を下した。
「ねぇ、キョン? どうかした?」
考え込んでいた俺に、キョン子が話しかけてきた。俺は我に返り「あ、いや、なんでもない」と返しておいた。
ここ最近の暑さで、いよいよ頭がイカれたか? 当たり前の話を当たり前だと思えない自分に、どことなくうそ寒いものを感じつつ、俺は窓の外に視線のやり場を求めた。
刹那。
「なーに青春してんのよ?」
背後から掛けられた声に、俺は振り返る。いつの間にか登校していたらしく、涼宮ハルヒがそこにいた。
窓の外をぼんやり眺めることを、俗に「青春する」と言うらしいが……窓の外を眺める行為の、いったいどこに、青春の要素があるのだろう?
「そんなの、あたしが知るわけないじゃない」
……まあ、確かに。分かるやつがいたら、是非とも教えてほしいもんである。
「おはよ、ハルヒ」
キョン子がハルヒに話しかけた。ハルヒはキョン子の方に顔を向けて「おっはよー、キョン子!」と快活な返事をした。
ハルヒは自分の机に鞄を投げ出すと、キョン子と言葉を交わし始めた。留まるところを知らない活発元気娘のハルヒと、ブレーキ役を自負している「だるぅ」が口癖のツッコミ担当娘のキョン子は、おおよそ、水と油のように相容れない関係であるはずなのだが、この二人は妙にウマが合えば、息も合う。どちらもが相手のことを「自分の親友」であると認識しており、そんな二人が話を始めれば、もはや俺には、彼女達二人の話に割って入ることなどできず、俺はハルヒとキョン子の横顔を眺めたり、窓の外を眺めたりしていた。
ま、美少女二人の神々しい笑顔を近くから拝める、というのは気分の悪いものではなかったが。
「この前、俺は『前菜』を『前戯』って読み間違えちまってよ」
「おさわりはオードブルかよ?」
身ぶり手ぶりを交えつつ、実にくだらない話をしながら教室に入って来たのは谷口と海音寺慶太(かいおんじ けいた)だった。この二人の姿を視界の端で捉えた俺は、ウマが合う、という意味では、こちらの二人も、ハルヒとキョン子のコンビと同等だろうな、と思った。
「いや、だから! そんな話は今、どうでも良いんだって、アサリ」
ちなみに、アサリ、とは海音寺のあだ名である。異世界人である海音寺は、不思議設定を持ったキャラクターであるが故に、今年の六月くらいにSOS団の一員となった。その時、ハルヒが海音寺にそんなあだ名をつけたのである。何故、そんなあだ名になったのかは、少なくとも俺は知らない。名付け親たるハルヒは知っているだろうが、まあ、深い理由があったわけではないだろうし、結局のところ、定着してしまえば、あだ名の由来なんていうものはどうでも良くなる、ということは俺自身が誰よりも良く分かっていた。
谷口は言葉を続ける。
「要はだ、俺が言いたいのは、そういう言葉の読み間違いってのは、良くあるよなぁ、っていう話だ。ほいでもって、見方が変われば、言葉の意味もガラリと変わっちまうもんだよな、てこったよ」
「お前にしちゃ、珍しくマトモなこと言ってないか、谷口?」
海音寺はそう言ったが、例に挙がった題材が、ちっともマトモじゃないのは俺の気のせいか?
谷口は言った。
「でっけぇお世話だよ。俺だってたまには、そんな話以外のことを話題に上げることもあるっての」
こりゃ、明日は雨だな。傘の用意をしておいた方が良さそうだ。
そんなことをうすらぼんやりと考えていた時だった。
「キョン」
名を呼ばれた俺は振り返る。国木田が俺の傍に立っていた。
「なんだ?」
「君にお客さんだよ」
そう言って、国木田は廊下を指差した。そちらを見やると、廊下に古泉一姫と古泉一樹の二人が立っていた。
古泉一姫と古泉一樹は、当人達が言うには、双子の関係だそうである。どことなく胡散臭い気もするが、深くは気にしないことにする。
そんな双子の片割れであり、姉を自称している一姫が、柔和な笑みと共に俺に話しかけてきた。
「無事に、夏休みも終わりましたね」
「そうらしいな」
「今年の夏休みも、色々とありましたけど、それでも、無限ループが無かったことは、良かったことだと解釈すべきでしょうね」
「まあ、そうなんだろうが……慌ただしい夏休みだったからな。少し、疲れたよ」
「結構なことじゃないですか」
古泉が口を開いた。俺は弟の方に顔を向ける。
「退屈でしょうがない夏休み、というのも、それはそれで苦痛ではないかと。特に……」
古泉はそこで言葉を切り、教室でキョン子と会話しているハルヒを一瞥してから言う。
「涼宮さんの場合は」
どこか含んだような古泉の物言いが気になった俺は「何が言いたい、古泉?」と尋ねた。
古泉は答える。
「率直に言いましょう。あなたは、今年の夏休みを振り返ることができますか?」
「は?」
思わず、頓狂な声を出しちまった。振り返るもなにも……色々あっただろう? ハルヒが提案した、ロクでもないことを含めたあれやこれやが。
「その、あれやこれや、とは具体的に、何でしたっけね?」
「そんなもん……夏祭りに、カラオケ、映画、花火大会、とか、他にも色々……」
つらつらと言い並べているうち、俺はふと首を捻りたい衝動に駆られた。
俺は……俺は本当に、そんなことをしていたのか? 本当に、今年の夏休みに、そんなことをやっていただろうか?
先ほど、キョン子の顔を眺めていた時に引き続いて、俺はまたもや違和感を覚えた。
確かに、そんなことがあったことを、俺は記憶している。してはいるが、どことなくその記憶が薄っぺらいような、何か、パズルのピースが欠けているかのような、そんな気がしたのだった。
いや、そもそも……ハルヒが提案したあれやこれや、というのも、どことなく怪しいような気がする。本当に、それらを提案したのはハルヒだったのか? ハルヒ以外の人間が、提案したりはしなかったか?
「キョン君にも、思い当たるフシがあるようですね」
一姫の言葉で、俺は我に返った。
俺は一姫に尋ねた。
「思い当たるフシ、って?」
「我々は確かに、慌ただしい夏休みを過ごしていたと記憶しています。ですが、その記憶が、全部が間違っている、というわけではなく、九割の正しい記憶に、一割の間違った記憶を混ぜられたような感覚が、あなたにもあるようですね?」
「言っていることが小難しいんだが……」
しかし、まあ、一姫の言いたいことはなんとなくわかる。九割の正しい記憶と、一割の間違った記憶。もし、それが俺達の記憶の正体だとすれば、俺が先ほどから感じている違和感も、ある意味では納得できる話ではあった。
さらに言えば、俺は人の記憶を書き換える、などという芸当を可能にしてしまう人間に心当たりがある。
すなわち……
「また、ハルヒか?」
俺は二人の古泉に尋ねた。
「かもしれませんし」
と一姫は良い、残りの言葉を引き取るように、
「違うかもしれません」
古泉は言った。
一姫が言葉を続ける。
「実を言いますと、私達が感じている、この違和感なんですけれど……何故、私達が違和感を覚えるのか。その原因は、まだ分かっていないんです」
「ハルヒが原因だ、と断言できないということか?」
俺の言葉に、一姫は首を縦に振った。
「ええ。涼宮さんが原因であれば、私達はもう少し的確に、違和感の原因を突き止めることができるはずですから」
一姫がそう言うと、古泉が「そして」と口を開く。
「わざわざ、僕達があなたに、こんなことを尋ねたのは、ひょっとすると、あなたは答えを知っているのではないか、と考えたからです」
「俺が?」
お前らに分からないものが、俺にどうして分かるんだ?
俺の苦言に対し、古泉が答える。
「いえいえ。たまにあなたは僕達や、長門さん、あるいは、涼宮さん以上に、鋭い時があるじゃないですか? だから、訊いてみたかったのですよ」
自分じゃ、そうは思えん。
一姫は言う。
「一応、違和感の原因を調査してはみます。しかし、今のところ、実害は特にありませんし……ひょっとすると、ただの取り越し苦労なのかもしれません」
「まあ、取り越し苦労なら、それに越したことはないが……」
俺がそう言うと、一姫はにっこりと微笑み、言う。
「そうであることを、祈りたいですね」
「それでなくても、二学期は忙しいですから」
一姫の言葉尻を引き取るように、古泉がそう言った。
こいつの言葉で、俺は少しばかり、暗澹たる気分になった。
体育祭や文化祭を筆頭に、ハルヒが目を付けそうな行事が目白押しなのが、この二学期なのだ。
夏休みが終わったからと言って、安穏としていられるわけではなさそうである。
俺は溜息を吐き、そして、つくづく、思ったもんだ。
俺や古泉達が抱いていた違和感や懸念が、取り越し苦労であってくれれば、どれほど良かっただろうか、ということを。
消えて、失われてしまう、という意味を表す単語が「消失」であるならば、これほど的確に、俺が抱いていた違和感の正体を指し示す言葉は無いだろうな、ということに俺が気付いたのは、寒い時期に差し掛かった頃だった。
そう、夏など、とうの昔に終わり、冬の到来を本格的に実感する頃になって、初めて……