クソ暑い日々が懐かしい。
十二月の到来と同時にそんなことを考えるようになった。
空を見上げてみる。灰色の雲が広がっており、太陽が顔を出してくれれば、ちっとは暖かくなるだろうに、と俺は思う。夏場に、こっちがえらく嫌ってしまったもんだから、太陽さんもヘソを曲げてしまったのだろうかね、とかいったことを考えたりしつつ、俺は交差点へとやって来た。
横断歩道の向こうには、北高へと続いていく長い長い上り坂がある。俺は信号が青になるのを、今か今かと待ち遠しく思いつつ、びゅうと吹いた北風に首をすくめていた。少しでも動いている方が、いくらか体も温まることを思えば、あの無駄に長い上り坂にも、少しはありがたみの心が湧くってもんだ。逆に、足を止めることを余儀なくされる横断歩道の方が、今の俺にはどっちかと言えば辛い。
風にさらされている我が身が、なんだかみじめに思えてくる。だからこそ、俺は再度、考えた。
クソ暑い日々が懐かしい、と。
暑かったあの頃を思い出せば、少しは身も暖かくなるだろうか、などと思いはしたが、こんな時に限って、思い出すのは半袖のTシャツを来ていた頃の自分自身であり、そんな薄着の自分を想像して、余計に寒さが倍加してしまったので、俺はそれ以上、夏のことを思い出すのをやめることにした。思い出し笑い、ならぬ、思い出し寒い、になっても困るからな。
思い出して楽しいのは、せいぜい、体育祭や文化祭といった、行事だろう、と俺は考え直した。
つまるところ、夏休みにも色々なことがあったが、この二学期も色々なことがあった、ということだ。
まずは体育祭。去年と同じく、SOS団は今年もクラブ対抗リレーに出場し、ずば抜けた運動神経と脚力の持ち主であるハルヒや長門――意外なことに、ハルヒに負けず劣らず、キョン子も足が速かった――などのメンツの活躍により、やはり去年と同じくぶっちぎりの優勝を飾っていた。
続くは文化祭。即興でバンドを組んだ、というわけでもなく、かといって、去年と同じく映画を撮った、というわけでもなく、ハルヒにしては珍しく、えらくオーソドックスな「メイド喫茶」を企画し、そして実行に移した。「メイド」の質が良かったためか、SOS団主催の喫茶店は大いに繁盛していたし、そして俺自身、見ていて飽きなかったことからも、ハルヒにしてはマトモな案を打ち出した方だと言って良いだろう。キョン子のメイド姿が、朝比奈さんに負けず劣らず、とんでもなく似合っていたことは、まあ、ここだけの話にしておくが。
他にも、ハロウィーンイベントをやったり、期末試験に備えた勉強会があったりと、二学期もSOS団は、通常営業の三割増しの業績を上げていたと言っても過言ではないほどの活動をしていた。
ひっきりなしにハルヒに呼び出されて、ありとあらゆる行事を消化しなければならなかった、という意味では、確かに疲れた。しかし、その分、有意義だったことを思えば、ま、これも悪くないかな、と思える自分もいる。別に、世界崩壊の危機に立ち会わされるようなこともなく、俺としては、平穏無事な生活ができているのだから、何一つ不満は無かった。
高校生活も折り返しに入ったことで、ハルヒも少しは――具体的には、むやみやたらと閉鎖空間を発生させたりしないくらいには――落ち着くことを覚えたのかもしれない。それはそれで、良いことなのだろうな、と思っていると、目の前の信号が青に変わった。
俺は横断歩道を渡り始めた。スーツケースをガラガラと引き摺りつつ、そういや、こんなタイヤのついた重いもんを引っ張って坂道を登っていくのは、結構きついのではないだろうか、ということが頭の片隅にふと浮かんだ。
何故、俺がスーツケースを引き摺っているのかって? そんなもん……文化祭も体育祭もハロウィーンも期末試験も終わってしまえば、二学期で残っているイベントなんて、あと一つくらいしかないだろう。
すなわち、修学旅行くらいしか。
三泊四日で大阪に旅行に行くのだったが、修学旅行としては、京都の方がふさわしい気もするが、何故か、北高の修学旅行は大阪だそうである。
そして、その三日目は自由行動になっており、大阪を自由に歩き回ることができる、としおりには書いてあった。
つまり、SOS団がインフルエンザウィルスのごとく、猛威を振るうには格好の日であろうことは想像に難くは無く、案の定、ハルヒは期末試験終了直後のSOS団定例会議で、大阪で不思議探索パトロールをやると言い出したのであった。
期末試験が終わり、その解放感からくる心地よい気分を引っ提げて、教室の掃除を終えた俺は皆より一足遅れて、部室へとやって来た。試験の結果がまだ出たわけではないが、ハルヒの指導の賜物か、俺は幸いにも今回の期末試験にさほど不安を感じていないのであった。たまには勉学にも本腰を入れてみるもんだよな、と思いつつ、俺は部室の扉をノックした。
「どうぞー?」
扉の向こうからハルヒの声が聞こえてきた。俺は、おや、と思いつつ、扉を開ける。いつもなら朝比奈さんの声が聞こえるはずなんだがな、と思って部屋を見渡してみたが、朝比奈さんはいなかった。
そういえば、あの人は三年生なんだったっけな。愛くるしい顔立ちをしているために、ついうっかり上級生であることを忘れてしまいそうになるが、受験も近づいてきて、SOS団の活動に参加しづらくなってきているのだろうな、と俺が一人で納得していると、ハルヒが怒声を飛ばしてきた。
「なによ、キョン! ノックなんかするから、誰かお客さんが来たのかと思ったじゃない!」
何故、俺は怒られているんだろう、とは思うが、どうせ毎度のことだし、俺は「あー、はいはい、すまん」と適当に聞き流し、パイプ椅子に腰を落ち着けた。
窓際の席で長門がハードカバーを広げており、ハルヒは団長の席にどっかと座ってパソコンを触っている。俺の隣でキョン子は古泉と向かい合うようにして座っており、オセロに興じていた。そして俺の目の前の席に座っている海音寺は、どこぞのコンビニで買ってきたらしい週刊誌に目を落としていた。
朝比奈さんだけじゃなく、一姫もいなかった。一姫は俺達と同じく、二年生であるのだから、そこまで忙しいはずはないんだがな、と思った俺は、海音寺に尋ねてみた。
「なあ、海音寺」
ページを捲りながら、海音寺は「なんだ?」と言った。
「一姫、知らないか?」
「いや、俺は知らんが……古泉、お前の姉さんどこだ?」
海音寺は顔を横に向け、古泉に尋ねた。古泉は「多分、生徒会の活動でしょう」と答える。
俺は、なるほど、と納得した。そういや、一姫は、生徒会とSOS団のパイプ役を担うために、生徒会の役員になっていたんだった。彼女は確か副会長のはずであり、この時期、新しい生徒会役員との引き継ぎやら何やらで忙しいのだろう。
一姫本人は二年生なのだから、おそらく、彼女はこのまま生徒会役員に残るはずである。確か、現会長――あの二つの顔を持った男である――は、三年生なのだから、このまま引退してしまうのだろう。それはそれで、SOS団の敵役その1が来年には卒業してしまい、いなくなってしまう、ということでもあり、一抹の寂しさがよぎるような気もしなくはないような、そんなでもないこともないような……。はて、俺はいくつ、ない、を重ねたっけな?
いや、そんなことより……というと、現会長を軽視したようで、どことなく申し訳なくもあるが、その話は横に置いておくことにして、俺には一つ、気になることがあった。
だから、古泉に訊いてみた。
「古泉。一姫のことなんだが」
「なんでしょう?」
「いや、というよりは、生徒会なんだがな……」
「はい?」
「次の生徒会長は誰なんだ?」
俺の言葉に対し、古泉はオセロの駒を指先で弄びながら「そうですね……」と思案顔になった。
「今のところ、生徒会長に立候補している人はいないようです。そうなると、僕の姉さんが副会長をしているわけですから、そのまま繰り上がり、ということになるのでしょうか?」
古泉は駒を盤面に置いた。ぱちっ、という音が響く。
俺は言った。
「立候補がいない? 内申で良い思いができる、って聞いてたがな、生徒会長になると」
「しかし、会長の実務はなかなかにハードだそうで。内申点と実務をはかりにかけた場合、どちらを選ぶかは、人それぞれでしょう……あ」
「あーあ、またあたしの勝ちじゃない。弱いわねー、古泉?」
キョン子がそう言った。盤面を見やると、ほとんどが黒で埋まっていた。言うまでも無いが、古泉が白でキョン子が黒である。
落胆したような表情をしてみせた古泉は、肩をすくめてみせた。
「また、僕の負けのようですね。どうです、海音寺くん? 君も、オセロに興じてみては?」
「お、良いのか? じゃ、久しぶりにやってみるかな」
そう言って、海音寺は週刊誌をテーブルに置き、古泉と席を入れ替えた。そして古泉が俺の前に座った。
「話を戻しましょう、キョン君。つまり、生徒会長とは、見た目の華やかさに比べ、実際の仕事は大変なんです」
「そんなもんかね……」
俺はそう返し、海音寺が置いた週刊誌に手を伸ばす。そういや、今週号の、あの漫画、まだ読んでなかったっけな。
週刊誌に指を乗せた時だった。俺は古泉の「見た目の華やかさに比べ、実際の仕事は大変」という言葉が妙に引っかかった。
生徒会長の仕事は大変である。そうなのだろう。
そうであるからこそ、俺は……俺は……
俺は、どうだというのだ?
なんだろう、何か、すっきりしない。何かを思い出せそうなのに、思い出せない。生徒会長、というものにまつわる、大切な何かを、俺は見過ごしているような……。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
一姫が扉を開けて、部屋に入って来た。一姫の登場によって、俺の思考は中断させられてしまい、結局のところ、俺は「大切な何か」とやらを思い出せなかった。
「私が遅れたせいで、会議が始まらなかったのなら、謝ります」
相も変わらず、律義な女である。その淑やかさが原因なのか、ハルヒも一姫には毒気を抜かれてしまうらしく、「いいのよ、古泉さん」と一姫に微笑み返していた。
「じゃ、みんな揃ったことだし……」
ハルヒはパソコンの電源を落としながら、
「SOS団の定例会議を始めるわよ!」
と声高に仰ったのだった。
ハルヒは続ける。
「今日の議題は修学旅行の三日目に関してなんだけど、みんな、予定とか入れてないわよね?」
涼宮ハルヒ憲法第一条、予定があったとしてもなくすこと。第二条、守れない者は死刑。
実に無茶苦茶な条文だが、守るより他はないことくらい、俺は嫌と言うほど身に染みていた、のだったが、どちらにせよ、予定など元からあるはずがなく、畢竟、俺はハルヒ閣下作成の憲法の条文を遵守している人間の一人に数えられるのであった。誰か褒めてはくれんかね?
「あんたバカ? ルールは守るためにあるんでしょうが?」
都合が悪くなれば、平気な顔で「ルールは破るためにある」と宗旨替えするくせに、どの口が言うか、と思った俺はハルヒをちらと睨んでみた。しかし、その頃には、ハルヒは俺の顔から視線を逸らしており、俺の睨みもむなしく、ハルヒは溌剌とした声音で言葉を続けていく。
「ま、みんな、予定を入れてないみたいね。感心、感心。じゃ、話を進めるけど、あたし、大阪って行った事ないのよ。つまり、大阪には、あたしの知らない不思議なことが、きっと、たーくさん転がってると思うの」
俺だって、ハルヒと同じく、大阪に行った経験などなかったが、とりあえず、ハルヒが求めている不思議なことが、梅田や心斎橋や天王寺といった場所に転がっているとは到底思えないし、日本橋三丁目を、重箱の隅をつっつくかのように探したとしても、UFOが不時着した痕跡なんてありはしないだろうさ。
ま、ハルヒのことだ。例え、何も見つからなかったとしても、おそらくもう、文句など言いはすまい。結局のところ、こいつは大阪をぶらりと歩きまわって、結果として楽しければ、それで満足してしまえるくらいには成長したのだから。
だから、俺はある程度、安心していたんだ。随分と心穏やかに、俺はハルヒの考え出した、大阪ぶらり旅の案を聞くことができたくらいだったのだから、よっぽど俺は安心していたのだろう。油断というタグのついた、安心を、な。
つまり、後になって俺は、えげつない不意打ちを食らったのだったが……敢えて、言い訳をさせてくれ。
この時点では、俺はまだ、気付けなかった。