West area

プロローグ

 ひらり。
 桃色の花びらが、目の前をかすめた。視線を上に向ければ、満開の桜がそこにあった。それを見て、ぼくは、春だなぁ、としみじみと思った。
「なに、ボサっとしてんだよ、潤?」
 背後から声が聞こえた。ぼくが振り返ると、世田谷翔(せたがや かける)が軽薄そうな笑みを浮かべていた。
 ぼくは言った。
「いや、桜がきれいだなあ、って」
「はーん? 桜に対する感想を言うのも良いけどよ、他のことも考えようぜ?」
 そう言って、世田谷はぼくの隣に並んだ。ぼくはきょとんとした顔で「他のこと?」と言った。
「たとえば?」
 ぼくが訊くと、世田谷は呆れ顔になった。
「いろいろとあるだろうが。先輩にはどんな美人がいるのか、とか、クラスメートにはどんな美人がいるのか、とか、可愛い子とお近づきになるにはどうすれば良いのか、とかさ」
「それ、全部女の子のことばっかりじゃ……」
 ぼくがそう言うと、世田谷は胸を張って、悪いか、と笑った。
「あんたバカなんだから、少しは勉強のことも考えた方がいいんじゃない?」
「うぉわっ、びっくりした! あ、なんだ……羽住か。驚かすなよ」
 世田谷がそう言うと、羽住――羽住悠奈(はずみ ゆうな)はフンと鼻を鳴らした。いつの間にか、彼女はぼく等の後ろにいたらしく、悠奈はぼくと世田谷の会話に割って入ってきたのであった。
「あんたが勝手に驚いたんでしょ? 人のせいにしないでくれるかしら、このド変態」
 悠奈が目元を釣り上げて、世田谷にそう言った。
 強気そうな釣り目も、勝ち気そうな口元も含めて、正直なところ、悠奈の顔立ちは可愛いと思う。でも……悠奈の毒舌と減らず口は、完全にその可愛さを打ち消しているとも、ぼくは常日頃から思っていた。
 黙っていれば美人である悠奈は、男子達から、猛烈なアタックを受けたこともあった。しかし、悠奈はその男子達の誘いを見事に全て蹴っており、彼女は自発的に、彼氏いない歴と自分の年齢とのイコール関係の記録を更新し続けているのであった。さりとて、悠奈には、他に好きな男がいる、などという噂も、ぼくはついぞ聞いたことがない。
 世田谷などは、たまに悠奈のことを陰で「百合なんじゃねぇだろうな?」などと言っていたりもするが、それは違うだろう、とぼくは思う。ぼくと悠奈は幼馴染みであり、ぼくは悠奈のことをよく知っている。少なくとも、悠奈が同性愛者ではない、ということにぼくが確信を持てるくらいには、ぼくは悠奈のことを知っているという自負があった。
「ド変態って……人をなんだと思ってんだよ」
 世田谷はそう悪態を吐いた。
 悠奈は、こちらに顔を向ける。
「それにしても潤……あんた、相変わらずの童顔ねぇ……」
「へ?」
 いきなり、悠奈は何を言い出すのだろう?
「高校の制服を着れば、少しは大人っぽく見えるかと思ってたんだけど……これじゃ、まるで、女の子が男装してるみたいね」
 そう言って、悠奈はくすくすと笑う。耐えきれず、ぼくは悠奈の顔から目をそらした。
 人が気にしていることを……。胸中に呟き、ぼくは嘆息する。
 どちらかと言うと、ぼくは華奢な体格だったし、顔つきも幼いとよく言われる。これでも、ぼくは男としての誇りやプライドといったものに興味がある方なので、ムキムキなマッチョボディとは言わないまでも、頼りがいのありそうな体にはなりたいと思うし、精悍な顔立ちにも憧れがあった。
 それなのに……
「あ、むくれてる。その膨れっ面も可愛いわよ、潤」
「男に対して、可愛いとか言うな!」
 ぼくは悠奈に反論した。すると、今まで黙っていた世田谷が口を開いた。
「まーちょうどいいんじゃね? 潤は女の子みたいだし、羽住は色気がないから、男の方が向いてそうだし。おまえ等二人、自分の性別を交換したらどうだ?」
 にひひ、と笑う世田谷に対し、羽住はギロと世田谷を睨んだ。
「誰の色気がない、ですって…?」
 睨まれた世田谷は固まった。
「やべっ!」
 そう言い残して、世田谷は逃げ出した。
「待ちなさい、世田谷!」
 馬車馬のごとき勢いで、悠奈は世田谷の後を追った。その場に取り残されたぼくは慌てて、二人を追いかけた。
「あ、二人とも待ってよ!」
 まったく……。今日はまだ、高校の入学式だと言うのに……。高校生活の初日からこれじゃあ、これから先、どうなるのだろう?
 前途多難、とはこのことか。そんなことを考えつつ、ぼくは走った。
 ぼくらの新たなる学舎、白百合学園(しらゆり がくえん)を目指して。



 第七拠点都市・ヤマシロには、大きく分けて、五つの地区がある。
 ここ、白百合学園を含め、学生の日用品を取り扱う店舗や学生の遊び場などが軒を構えているのが、北地区である。北地区には白百合学園の学生寮もあり、白百合学園の生徒は北地区のみで生活が完結すると言っても、あながち間違いではない。
 北地区の反対側、南地区は大規模な工業地帯が広がっている。その大半が、大企業であるKAMUIグループの所有物であり、南地区にはKAMUIの城下町、という別名があった。
 北地区と南地区を結ぶ幹線道路と、東地区と西地区を結ぶ幹線道路。この東西南北をつなぐ道路は、ヤマシロの中央地区で交差しており、この超巨大交差点はセントラル・クロスと呼ばれている。セントラル・クロスを軸に、大規模なビル群が乱立している中央地区は、産業と商業の中心地だった。
 一方、政治の中心は中央地区ではなく、東地区に存在した。ヤマシロの庁舎を筆頭に、あらゆる役所は東地区にあったし、富豪の邸宅や、ヤマシロ市長の官舎なども東地区にあった。
 でも……。
 西園寺美咲(さいおんじ みさき)は西へと目を向ける。彼女は白百合学園の屋上から、西地区のある方角を見た。
 他の地区ではそうでもないのに、西地区だけは、そこに佇んでいる空気が澱んでいるように、美咲には思えた。その澱みの原因は、人々が吐き出した怨嗟によるものか、あるいは……。
 自分が考えても、仕方のないことではある。あるが、それでも、考えずにはいられない。あの惨状を引き起こしたのは、自分の父親なのだし、ましてや、十年前、自分は“当事者の生の声”を耳にしていた。だからこそ、知らんぷりはできなかった。
 目を閉じれば、あの日の光景は今でも鮮明に思い出すことができる。
 瓦礫の山と化した家屋。逃げ惑う人々。そこらじゅうに飛び散った血。そして……獣のように吠え、目には涙を浮かべていた、自分よりは幾ばくか年上の少年。その少年が右手に持っていた大ぶりのナイフは、まっすぐに私を――
「こんな所にいらしたんですか、先輩」
 不意に、後ろから声をかけられた。美咲はぎょっとして振り返る。生徒会で副会長をしている桐原綾華(きりはら あやか)が立っていた。
「ああ、綾華。なに? どうかした?」
「美咲先輩は生徒会長でしょう? 講堂で待機していてもらわなくては、困ります」
 綾華の言葉で、美咲は、ああそうか、と思い出した。今日は入学式だった。自分は生徒会長として、講堂で、新入生を前に演説をしなければならないのであった。
「わざわざ、私を呼びに来てくれたのね? ありがとう、綾華」
「礼には及びません。奔放な会長の首をつかんでおくのも、副会長の務めですから」
 そう言った綾華に対し、美咲はくすりと笑ってしまった。どうやら、綾華には、自分がえらく頼りない会長に見えているらしい。
 そうかもしれない、いや、きっとそうなのだろう。完全無欠にして才色兼備。成績も優秀であり、運動神経も抜群と、まさに非の打ち所がないのが、桐原綾華なのだ。そんな綾華と比べれば、自分など、随分と頼りないものである。
 美咲は、自分の後任には、綾華を推薦するつもりでいた。というより、許されるのであれば、今からでも生徒会長という職を綾華に譲ってもいいくらいである。
 しかし、そんなことを綾華に言えるはずがない。言えば、彼女はおそらく、呆れた顔をしながら「自分の職務くらい、まっとうしてください」とでも答えるのだろう。
 これ以上、できの良い後輩に怒られるのもつまらない。美咲は綾華に言った。
「わかったわ、綾華。すぐに講堂行くから、先に行っておいてくれる?」
「すぐに来てくださいよ?」
 では、と言い残して、綾華は屋上から去っていった。
 美咲はもう一度、屋上から西地区の方を見た。
 ここ最近は、西地区の情勢も落ち着いてきている。このまま、西地区が平和になってくれれば良いのに、と思いながら、美咲はきびすを返した。



「ご苦労」
 そう言って、西園寺厳蔵(さいおんじ げんぞう)は受話器を置いた。彼はふう、と息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

 自分がヤマシロ市長の椅子に座って、どれくらい経つだろう?

 ふと、そんな考えが頭に浮かび、厳蔵は机の上に置いてあるカレンダーを眺めた。
(そうか、そういえば、あれから十年だな)
 十年前、ヤマシロの西地区で、テロが発生した。テロリスト達は、元は新興宗教の関係者であり、逮捕された教祖の釈放を訴えていた。
 違法な薬物の不法所持と服用の罪に問われていた教祖を、そう簡単に釈放できるはずがなく、ヤマシロ都庁のお偉方はテロリストの要求を拒否した。
 教祖釈放をこちらが拒否すると、テロリスト達は西地区の最奥にあった、原子力発電所をジャックした。そして、彼らはこう言った。

「教祖様を釈放しなければ、原発を破壊する」

 放射能汚染による西地区の壊滅に加え、電力供給のほとんどを西地区の原発に依存しているヤマシロの機能停止、という脅迫を、彼らはこちらに押しつけてきた。
 事態を可及的速やかに解決する必要があったため、当局は軍特殊部隊の出動を要請した。
 合法的殺し屋集団こと、日本軍陸上部隊隷下特殊作戦大隊の面々は、突撃銃を名刺代わりに、原子力発電所へと乗り込んだ。
 それと同時に、万一の場合に備えて、西地区の住民の避難も始まった。突然のできごとに住民はパニックを起こした。
「原発がジャックされただって?」
「それも、あのイカれた宗教集団に?」
「連中、あそこを爆発するつもりか?」
「そんなことになったら……」
「西地区に核爆弾が落ちてくるようなもんだ!」
「逃げろ!」
 憶測が憶測を呼び、人々は逃げ惑い、混乱していた。
 特殊部隊は、テロリストを武装解除することに、『半分』は成功した。残り半分のテロリスト達は、密かに原発から脱出し、市街地へと向かっていた。
 当時、特殊部隊の司令官をしていた厳蔵は、隊員達に、どんな手を使ってでも、テロリストを狩り出せ、殺しても構わん、と吹き込んだ。
 それが……悲劇につながったのかもしれんな、と厳蔵は思う。
 テロリスト達と、自分の部下達とが激しい銃撃戦を繰り広げ、その結果、自分たちは勝利し、テロを鎮圧することに成功した。ただし、混乱して逃げ回っていた大多数の民間人を巻き添えにし、何の罪もない人々が犠牲になったということを除けば、だが。
 全て終わったあと、家屋は瓦礫の山と化していた。ライフルによって蜂の巣にされた父親もいれば、ねじくれた金属片によって体を引き裂かれた母親もいた。厳蔵にとって、何よりも痛ましかったのは……一度に二親を亡くし、呪詛の叫びを上げていた少年がいたことだった。歳はせいぜい、十歳より少し上くらいに見えたその少年は、右手にコンバットナイフを持っていた。おそらく、銃弾に倒れた部隊の誰かからくすねたのだろう。
 そしてそのナイフは……。

「旦那様?」
 はっ、と我に返った。厳蔵は目をこすり、机の前に屹立している男に目の焦点を合わせた。
「ああ、英二……」
 西園寺家の執事をしている白石英二(しらいし えいじ)だった。
「疲れていらっしゃるようですが……少し、仮眠を取られては?」
「いや、良い……。大丈夫だ」
「そうですか……。では、後で、コーヒーでもお持ちいたしましょう」
 若造のクセに、随分と気遣いのできる男だな、と厳蔵はちらと考えたが、そうではなくては執事など務まらん、か? と考え直した。
 厳蔵は英二に「そうしてくれ」と答えた。
「ところで、英二。ワシに何か、用事か?」
「はい。お嬢様から連絡がありまして」
「ほう? 美咲はなんと?」
「生徒会の活動で、帰りが少し遅くなるそうです」
「ふむ……」
 厳蔵は少し間を置いてから言った。
「英二。すまんが、美咲を迎えにいってやってくれ。日が暮れてからの、セントラル・クロスは危なっかしいからな」
「承知しました」
 一礼して、英二は部屋から出ようとした。その背中を厳蔵は呼び止めた。
「英二」
「はい、なんでしょうか、旦那様?」
「先ほど、陸部の内務監査室が動いてな」
 陸部、とは陸上部隊の略称のことであり、特に、日本軍陸上部隊を指す単語だった。旧陸軍に端を発する組織の通称を口にした厳蔵は「陸部の将校数名が逮捕された」と言った。
 英二は目を丸くして言う。
「なぜです?」
「平たく言えば、銃火器の横流し――」
「あ、いえ、そうではなくて……なぜ、そんなことをわざわざ、一介の執事に過ぎない、私に言うのですか、旦那様?」
「まあ、最後まで黙って聞くが良い。西地区で、数々のゲリラグループが活動していることは、おまえも知っておるな?」
「はい、もちろん」
「貧困に喘ぐ者達が、生活の改善を求めて、暴力に訴えている。逆に言えば、彼らには活動資金がない。ゲリラに手を染めたは良いが、その活動が続かないグループも多いと聞く」
「私も、そのように聞いております」
「ある程度、まとまった活動資金を有しているゲリラグループは三つほどある。このうちの二つは、先日、仲間割れを起こしたらしく、グループ内での抗争がやがて、二つのグループを巻き込んだ争いへと発展した。よって、この二つのグループは事実上、壊滅、解散したと言って良い。問題は、最後の一つだ」
「レッドフェザー、ですね?」
 英二の言葉に、厳蔵は首を縦に振った。
「そうだ。レッドフェザーは、トップに立っているやつと、そいつの頭脳となっている参謀。この二つがなかなかに優秀らしくてな。そう簡単には、自然消滅してはくれなかった。そこで、武器の供給源を潰すことで、彼らのこれからの活動を封じた、というわけだ」
「武器の供給源を潰す、というのは、具体的には、先ほどの武器の横流しを摘発することによって、横流しをやめさせた、ということですか?」
「その通り」
「なるほど……。しかし、旦那様。わかりませんね」
「何がだ?」
「それを私にぺらぺらと仰る理由が、です」
 英二は厳蔵をじっと見据えて、言葉を続けた。
「先にも述べましたが、私は一介の執事に過ぎません。そんな私に、まだニュースですら報道されていない情報を寄越すのはなぜです?」
 嘘やごまかしを許さぬ口調と目で、英二は厳蔵を問うた。
 厳蔵は深呼吸を一つ吐き、潮時、いや、年貢の納め時、か? と思った。
 厳蔵は答える。
「……英二。ワシには罪の意識がある。お前の両親を殺してしまったのは、ワシなのではないか、という、な」
 英二は目を丸くし、絶句していた。驚きから立ち返ると、英二は反論した。
「旦那様! そのことを、旦那様が気になさる必要など――」
 言葉を続けようとした英二を手で制し、厳蔵は言う。
「十年前のワシには、テロ鎮圧ということしか見えていなかった。それによって、どんな犠牲が出ても、気にしなかったし、気にならなかった。その無差別な考えこそが、ご両親が死ぬ原因になってしまったことは事実だろう」
「やむを得ませんでした。あのテロリスト達を野放しにしておけば、被害はもっと広がっていた。おそらく、西地区だけではなく、北も南も、東も、全ての地区が。旦那様の判断は間違っていなかったと、私は思います」
 自分を弁護する言葉が、妙に辛かった。
 厳蔵は「ワシなりに……」と口を開いた。
「え?」
「ワシなりに、潰れてしまった西地区を元に戻そうとしてきた。元々、西地区は住宅街だった。人がまた住むことができる環境を取り戻そうとしてきた。しかし……」
「旦那様のご厚意を理解できぬ、分からず屋が多かった。だから、大多数のゲリラが生まれた。それだけのことです」
 だから、気にするな、と言いたげな目を英二はした。しかし、厳蔵はこう思う。平穏な生活を奪い取った張本人からの手向けなど必要ない、と。西地区に籠もり、なおも活動を続けるゲリラグループの主張はそれなのだろう。
 しかし、彼らは生活の改善を求めて、破壊を繰り返している。この矛盾をどう説明したものだろうか。いつしか、西地区の環境改善ではなく、西地区の沈静化が、厳蔵の仕事になっていた。
 だが、それも……ようやく終わる。西地区にて、しぶとくゲリラ活動を続けてきたレッドフェザーも、これでおとなしくなる。そうなれば、西地区の環境を改善し、また、民衆が安住することができる住宅地を形成することができるようになる。
 それが、平和な日々を取り戻すということであり、厳蔵にとっての、西地区の住人達に対する、せめてもの罪滅ぼしだった。
 自己満足に過ぎないことは、厳蔵だって重々承知している。してはいるが、何かをせずにはいられなかったのだ。ことに、すぐそばで、その『西地区の住人』だった白石英二が自分を見ているとなれば、特に。
 厳蔵は言う。
「何故、と訊いたな、英二。ワシがお前に、陸部の内情を教えた理由を。知りたいなら、教えよう。お前にはきちんと、説明しておきたかったのだよ。ワシがお前にしてしまった罪に対する、ワシなりの償い方というものを、な」
「旦那様は、気に病みすぎなんです」
 優しい声音だった。厳蔵は目をしばたたいた。
 英二は続ける。
「私の両親の命を奪ったのは、旦那様だったのかもしれません。しかし、私は旦那様のせいにするつもりなど、微塵もございません。不慮の事故か、あるいは……あれが、私の両親の寿命というものだったのでしょう。それどころか、旦那様は、行き場の無かった私を拾ってくださいました。そして、西地区のためを思って、旦那様は全力を尽くされてきました。それだけで、私は十分です」
 英二はそこで言葉を切り、こちらに背を向けた。
「十年前の争乱は、もうすでに終わったのです。それを理解せず、いまだに活動を続けるゲリラグループ、すなわち、レッドフェザーこそが西地区の治安を悪化させている。レッドフェザーを黙らせようと、尽力している旦那様は、立派だと私は思います」
 では、コーヒーの支度をして参ります、と言い残し、英二は部屋から去っていった。
「立派、か……」
 誰もいなくなった部屋で、厳蔵は呟いてみた。
 両親の死を誰かのせいにするのではなく、不慮の事故だと割り切る。そして、執事としての自分に誇りを持ち、従っている主に忠を尽くす。
 厳蔵には、そんな英二の振る舞いにこそ、立派という言葉は似合うような気がした。



 朽ち果てた雑居ビル。そこはそう表現するのがふさわしい。壁のところどころに亀裂が入っていたし、一部の壁など、大砲の弾でも炸裂したのだろうか、と思わされるほど、巨大な穴が穿たれていた。その穴は東側から南側へとかけて口を開けているため、春の陽光がさんさんと降り注いでいた。
 電気がストップして久しいこの建物だったが、日光を遮るものがないため、蛍光灯などなくても明るかった。これはこれで、一つのエコというやつなのだろうか。
 しかし、穴が開いているのは南側までであり、西側の壁には傷やひび割れこそあれ、採光できるような穴は開いていない。昼から夕方にかけては、元通りの薄暗さを取り戻すため、結局のところ、陰気くさい建造物であることに変わりはない。
 もっとも、ろくすっぽ人気のない西地区は、どこにいようとも陰気くさいが。そんなことを考えつつ、東条一機(とうじょう かずき)はボロいビルの廊下を歩いていた。廊下の端にたどり着き、一機は目の前の戸をノックする。
「どうぞ」
 扉の向こうで反応があり、一機は部屋に入った。元は何かの事務所だったのだろう。いくつものスチール製の机が島を作っており、その机の島の向こうには、ソファとテーブルがあった。簡素な応接セットというには、幾分か傷みの激しい品々だったが、原型を保っているだけまだマシというものだ。そして、その応接セットの脇に、事務所の上役が使っていたのだと想像できる、他のスチール製の机よりは少しばかり格上のデスクが置いてあった。
 その格上のデスクに、ゲリラグループ・レッドフェザーのリーダーである、赤羽真澄(あかば ますみ)が腰を落ち着けていた。蛍光灯の無い部屋だったが、この部屋は先程の廊下とは事情が違い、南側に面した窓があった。無論、ガラスが張られているわけではなく、以前の事務所の持ち主だった会社の社名がデカデカと書かれていたに違いない窓ガラスは、とうの昔に割れてしまって以来、姿を消して久しかった。
「わざわざすまないわねぇ、一機」
 いかつい顔をにやりと歪めて、赤羽は話しかけてきた。筋骨逞しい男で、図太い腕に刻まれた傷跡が、戦場を生き延びてきた猛者であることを証明していた。おそらく、服の下には銃創を筆頭に、古傷があちらこちらにあるに違いない。
 それにも関わらず、この男の顔には傷らしい傷、というものが無い。体中に傷があるのに、顔には一つたりとも傷がない、というのも奇妙な話ではあったが、顔を含め、頭部は急所の塊であることを考えれば、人間の中枢回路に傷を負っていないからこそ、戦場を生き延びてこれたのだ、というところなのかもしれない。
 その、傷の無い顔に、この男――それも大男が、である――は薄く、化粧をしていた。派手さはなく、メイクに手慣れているらしいことは、化粧の度合いを見れば一目瞭然だったが、だからといって、似合っているというわけではない。野太い声で、女言葉を使いこなす、という独特の口調に、一機も当初は戸惑っていたが、それがこの赤羽という男のアイデンティティなのだと分かった今となっては、一機は動揺すらしていなかった。

 そう、赤羽真澄は、平たく言ってしまえば、オカマなのである。

 ゲリラ活動という、後ろ暗い生活をしていれば、多少なりとも人は逞しくなるし、凄味も身につく。ところが、この赤羽は、それに加えて、オカマ独特の凄味も併せ持っていた。仲間達からの信頼は厚く、尊敬されている人物ではあるが、その尊敬には畏怖や恐怖が含まれていた。それは、そのオカマ独特の凄味が原因だろう、と一機は思う。
 一機は言った。
「それで、赤羽。俺を呼んだ理由はなんだ?」
「あらぁ、一機ちゃん? そんなの、色男の顔を眺めたいからに決まってるじゃないの。もっとその綺麗な顔、アタシに良く見せてちょうだいな」
 口元は笑えど、目は笑っていない。赤羽は、口ではそんな冗談を並べつつも、机の上に置いてあったリモコンを手に取った。それをテレビに向け、電源を入れる。
 赤羽は目で、一機にテレビを見ろと告げる。西地区に電気など通っていないはずだが……と一機はちらと考えたが、テレビ一台の電力供給くらいなら、必要な時だけスイッチをつけるという条件付きで、発電機を使えば事足りることに一機は思い至った。
 画面には、どこぞのレポーターがロケをしている姿が映し出されている。時間的に、午後のニュースだろう。
 その内容を要約すると、日本軍陸上部隊の幕僚数名が逮捕された、とのことだった。罪状は、日本軍に制式採用されている突撃銃、拳銃、ならびに弾薬の密売……それも、一丁や二丁、数発の銃弾、という程度ではなく、陸部一個中隊が作戦行動を行なうのに支障がないレベルのものであった。そんな武器を誰が買い取っていたのか、という疑問に対する答えなど、密売してもらった武器を実際に使っているのが自分たちであることを思えば、自明な話だった。
 赤羽は「見ての通りよ、一機」と言った。一機がそちらに顔を向けると、赤羽はもう真顔に戻っていた。
「軍の方で、強制的な査察があったらしいの。それで、向こうさんがヘマをしちゃったみたいで、捕まっちゃったワケ。幸いにして、アタシ達、レッドフェザーに被害は無かったんだけど、それでも、武器の供給路を失ったことは大きな痛手だし、まあ、被害と言えば、被害よね」
「武器の供給路を失った?」
 一機は驚いた。「待ってくれ、赤羽。捕まった幕僚は確かに、俺たちに武器を供給してくれていたが、俺たちからすれば、武器の供給源のうちの、六割ほどだったはずだ。残りの四割の供給源はどうした?」
 こういった事態に備えて、武器の供給路にもいくつかのルートはあった。そのルートのことを赤羽に尋ねたつもりだったが、赤羽は首を横に振った。
「ダメね、おそらく。ガルマンが調べてくれているけれど、その、残りの四割も、今回の逮捕騒ぎでビビっちゃって、うちとの契約を破棄するつもりらしいし」
 なんのためのバックアップだ。内心で悪態を吐きつつ、一機は「まずい、な……」と呟いた。
 その時、部屋の出入り口から、こんこん、という音が響いた。赤羽は「どうぞ」と扉に向かって声を張る。
 扉が開き、音もなく部屋に入ってきたのは、たった今、赤羽が話していたガルマンだった。
 ガルマンとは勿論、偽名であり、誰もガルマンの本名を知らなかった。一機の胸くらいの身長しかなかったが、仮面を被っているため素顔が分からず、子供かどうかは分からなかった。しゃべりはするが、仮面の裏側に付いているらしいマイクを通した上での機械音声なため、年齢はおろか、性別すら分からない。怪しくて異様、という意味では、赤羽以上の存在だった。
 しかし、実力主義のこの世界のこと。身元がはっきりしているかどうかより、仕事を確実にこなせるかどうかの方が重要視される。そういった点では、ガルマンは確かに優秀な参謀だったし、交渉術にも並外れた手腕を発揮していた。
 ガルマンは赤羽の傍にやってくると、赤羽に告げた。
「腰抜けばかりだった」
 一機はガルマンに尋ねた。
「ということは、いよいよ、武器の供給路が無くなったということか?」
 ガルマンは仮面をつけた顔をこちらに向ける。
「来ていたのか、一機。ということは、赤羽から話は聞いているのか?」
「ああ、ある程度は」
「お前が言うとおり、我々に武器を提供していた連中は全て手を引いた」
 赤羽は言う。
「うーん……武器の供給が止まっただけなら、しばらくは持つけれど……弾薬の方は、急を要するわね……」
「弾薬はどれくらい持つ?」
 一機の問いに対し、赤羽は応じる。
「こういう時に備えて、多少なりとも備蓄はあるんだけれど……それも、二週間から三週間かしら。持っても、せいぜい、一ヶ月が限界というところね」
 一ヶ月後には活動ができなくなり、俺たちは干上がってしまう、ということか。
「おい、赤羽。これを機に、ゲリラ活動をやめる、という選択肢はないのか?」
 一機は尋ねてみた。赤羽は一機をじろと睨み「笑えない冗談ね?」と答えた。
「あるわけないでしょ? どだい、今の市長、どんな男だか分かってる、一機? テロ鎮圧、という口実があれば、どんな犠牲も被害も厭わないような男なのよ。そんな理不尽な暴力に屈してしまえば、こっちは泣き寝入りするしかないし、それでは何も救われない」
 そう、何も救われない。救われるものなどない。
 確かに、自分たち、ゲリラグループというドラスティックな集団が西地区にはびこっているからこそ、西園寺厳蔵も、西地区の復興活動に手が出せず、西地区の再開発に取りかかることができないということも分かる。
 西園寺が、西地区の再開発に取り組めば、人がまた生活することができるようになるだろうし、貧困に喘ぐ人々に対する生活の保証もしてくれることだろう。一見して、それらは魅力的な話であり、それに身を任せたくなるところだったが、残念ながら、レッドフェザーは断固として、そんな話になびいたりはしない。
 レッドフェザーが戦う理由。ゲリラ活動を続ける理由。それは、端的に言ってしまえば“元に戻せないもの”のためであるからだった。
 家族を奪われた恨み。大切な人を殺された恨み。レッドフェザーが戦災復興という話に安易に流されたりしないのは、ひとえに、今のヤマシロ市長が“鬼畜の殺人者”であるからに他ならなかった。
 恨みを晴らすため、復讐のために、レッドフェザーは戦い続けていた。貧困からの脱却を謳い、ゲリラに手を染めた者達とは、根本的にレッドフェザーは違うのだった。
 ここで、戦いの矛を収めるわけにはいかないのだ。
 十年前、戦禍に巻き込まれた者達だけではなく、この十年間で散っていった同志達のためにも、彼らの死を無駄にしないためにも、なおさら……
「余計なことを訊いてしまったな……」
 一機は呟くように言った。すると、赤羽はにっと笑った。
「分かればいいのよ、一機。で、話を戻すけれど、弾薬をどうにかしないといけないんだけど……」
 渋面になり、頭を巡らせ始めた赤羽に、一機は言った。
「しかし、な。レッドフェザーに匹敵する規模を持つゲリラグループは二つほどあったが、先日の抗争でこの二つは壊滅した。これまでは、この二つのゲリラグループの横槍があったため、自衛という目的で、こちらも武器と弾薬を使っていたが、仮想敵がいなくなったということは、必然的に消費量は減る。弾薬はもう少し、持つのではないか?」
「使う量が減ったところで、手に入る量がゼロじゃ、むしろ前より悪化してるわよ。まったく、厄介な連中がいなくなって、動きやすくなったと思ったらこれなんだから……」
「無理に動く必要があるのか?」
 不意にガルマンが口を開いた。ガルマンの唐突な物言いに、赤羽も一機も虚を突かれた。
 ガルマンは続ける。
「赤羽。お前の最終的な目的は、ヤマシロ市長、西園寺厳蔵の殺害だな? それを実行しようと思えば、市長官舎を強襲するなり、ヤマシロの庁舎に攻め込むなりをしないといけない。そしてそれを実行に移そうと思えば……ちょっとやそっとの武装や弾薬では到底足りないし、相手はおそらく、軍の精鋭部隊だろうから、こちらには分が悪すぎる」
 参謀長らしい、冷静な分析だった。ガルマンの言葉に、赤羽はとりあえず納得したらしいものの、どことなく不満そうな顔で「じゃあ、どうするのよ?」と言った。
「だからこちらも使える武器は全て使う」
「使える武器と言っても、限られてるじゃないの?」
「敵対勢力を排除するために使う、その武器ではない。もっと広い意味での、戦術的、戦略的な“武器”だ」
「……あのね、ガルマン。アタシ、分かりにくい表現、苦手なのよね。もっと分かりやすく言ってくれるかしら?」
 結論を急く赤羽に、ガルマンは答えを述べる。
「時間だ」
「時間?」
「そう、時間だ。時間は、こちらにとっては準備を整えるために必要なものだし、敵対勢力側には、レッドフェザーがもう何もしてこない、という油断を植え付ける存在にもなる。その油断は、いくら相手が屈強な集団でも、こちらが付け入ることのできる隙となる。しばらくはおとなしくしておくのも、こちらが勝利を手にする上で必要なことだと、私は思う」
 ガルマンの言葉に、一機はなるほど、と思った。
 赤羽は言う。
「一理あるわね……。敵の本陣を攻めようにも、こっちが準備不足じゃ話にならないし。ただ、依然として残る問題が、武器やら装備やらの調達方法よね。まあ、それも、まったく無いってわけじゃあないんだけど……」
 赤羽の言葉に、一機はぴくりと眉を動かした。
「なんだ、赤羽? 武器と弾薬に関して、なにかしらアテがあったのか?」
「ええ、そうよ。ただねぇ……これ、確証が無いのよ」
「確証?」
 一機が訊き返すと、赤羽は答える。
「白百合学園って訊いたことある?」
「あの、北地区にある私立高校のことか? 名前くらいなら耳にしたことはあるが……」
 防犯、護身という名目で、生徒達に射撃訓練と拳銃の携帯を奨励している風変わりな学校、ということくらいは一機も知っていた。
「ん? まさか、その白百合学園に保管されている武器をアテにしているのか?」
 射撃訓練を行なうために、白百合学園には銃火器が保管されているのは理解できるとしても、それはあくまでも訓練のために置かれているのであって、有事の際に使うためのものではないはず。すなわち、必要以上の量が保管されているとは考えにくいということであり、武器も弾薬も、アテにはできない、と一機は考えた。
 しかし赤羽の考えは違うらしく、「違うわよ」と否定した。
「白百合学園に織宮麗(おりみや うらら)っていう教師がいるのよ。指導科目は射撃科」
 射撃科、とは、白百合学園にのみ存在する授業科目であり、要は学生に銃の扱い方を教えるために開かれる講義と実習のことを指す。
 その射撃科の教諭というのだから、どれほど精悍な男が教鞭を執っているのだろうな、と一機はちらと考えたが、赤羽に手渡された一枚の写真を見て一機は目を丸くした。
「え?」
 思わず、そんな声が漏れた。若い、というより、いっそ幼いと表現すべき面立ちに加えて、どう見ても女性にしか見えない顔つきに、これは何かの冗談か? と一機は疑った。
「驚いた? 子供みたいだけど、それでも一応、教員免許を持っている成人らしいわ。すなわち、大人のオ・ン・ナってヤツよ」
 年齢詐称じゃなかろうな……。教員免許を持っているという話ですら疑わしいと言うのに、ましてや、生徒に銃の扱いを教える射撃科の教員? あり得ない、という気持ちが半分、何をどう間違えてこうなった、という気持ちが半分、というのが今の一機の心境だった。
 いや、驚いてばかりもいられない。一機は赤羽に「で……この射撃科の先生が、どうかしたのか?」と尋ねた。
「その人、職業柄、と言うべきかしらね。なんでも、大層な銃火器の収集家らしいのよ。それも……ひょっとすると、アタシ等が今まで横流ししてもらった武器の量に匹敵するか、あるいは……」
 それ以上――。喉から手が出るとはこういうことかと思った一機はゴクリと喉を鳴らした。
 赤羽は言葉を続ける。
「でもね、それ、あくまでも噂なのよ。それに、その織宮っていう先生が、そんなにもたくさんの銃火器をいったいどこに保管しているのか、ということになると、まるで分からないの」
「確証がない、というのはそういうことか。不確定要素が多すぎる以上、安定した武器の供給路としては心許ないな」
 一機がそう言うと、ガルマンが口を開く。
「でも、調べてみる価値はある。織宮麗の身辺調査をすれば、何か分かるかもしれない」
 赤羽は言う。
「でも、簡単に調べると言ってもねぇ……その織宮先生に道端でコンタクトして、『あなたの収集物はどこにあるんですか?』と尋ねるわけにもいかないでしょう」
 こんな屈強なオカマにそんなことを訊かれて、素直に口を割るやつなどいないだろう。
「大丈夫だ。策はある」
 ガルマンはそう言って、仮面を一機の方に向けた。
「一機。必要な物は後で揃えておく。だから、お前には白百合学園に潜入して欲しい」
「潜入? おい、俺にかくれんぼの真似事をしろというのか?」
「隠れる必要などない。お前には“教師”をやってもらう」
 一瞬、ガルマンが何を言ったのか理解できず、一機は呆然としたまま仮面を見返していた。