West area

家庭科部立ち上げ ‐ Scene 1

 神坂潤(かんざか じゅん)、羽住悠奈、世田谷翔。実に賑やかな顔ぶれだけれども、この三人が白百合学園に通うようになって、もうすぐ半年になるんだっけ。
そしてそれは、自分自身の高校生活というものが折り返し地点に差し掛かろうとしているということに他ならないわけで……いったい、自分は何をしているのだろう? と羽住悠里(はずみ ゆうり)は思う。危機感にも似た焦燥感はあるのに、具体的に何をどうすれば良いのかは、まるで分からない。
 別に、今の生活に不満があるわけではない。むしろ、賑やかな後輩や、愉快なクラスメートに囲まれている自分は、考えようによっては、相当に恵まれた存在なのかもしれない。
 でも、ただ漫然と毎日を過ごすだけで良いのだろうか? 白百合学園に自分が通うようになって、既に一年と半年近く。その間、自分はいったい、何をしてきただろう? その生活が楽しいものだった、とは記憶しているが、具体的にそれが何だったのか、となるとまるで要領を得ない。
 このままで良いのだろうか? そんな疑問が頭をもたげた時だった。背後から「悠里」と声をかけられた。
 下の名前で悠里を呼ぶ人間は、それほど多くない。どちらかと言えば、自分は内気な方で、お世辞にも社交的とは言えず、友人も数えるくらいしかいなかった。
 その数少ない友人の一人が、桐原綾華だった。彼女は悠里のクラスメートであると同時に、悠里の無二の親友だった。
 悠里は後ろを向いた。案の定、綾華が立っていた。
「綾華。何? どうかした?」
「放課後の校内巡回をしていたところよ」
 校内巡回。綾華が生徒会の役員をしていたことは、悠里も知っていたが、二学期が始まってから、綾華は生徒会長に就任していた。綾華の毅然とした態度、凛とした口調は、人を束ねるという職が実に似合うと、悠里は思う。
 会長職に就いて以来、綾華は今まで以上に、校内の巡回をするようになった。仕事熱心なのは、綾華が生真面目な性格をしているから、というよりはむしろ、綾華が自分の職務に誇りを持ち、今の生活を能動的に楽しんでいるからだろう。
 賑やかな後輩がいて、クラスメートとの会話を楽しんではいるが、それらが受動的であるということを薄々ながら感づいてしまった自分に比べ、綾華はなんと輝いて見えることか。
 綾華が妬ましい、とは思わないし、思えないのは自分がお人好しだからだろうか? 感じるのはせいぜい、劣等感くらいなものか、と悠里が考えていると、綾華は「ところで」と話題を換えた。
「悠里。あなたこそ、何をしているのよ?」
「え? あ、そ、それは……」
 不意を突かれた悠里は思わず、口を籠もらせた。そういえば、何をしようとしていたんだっけ?
 学校指定の通学用手提げ鞄の中で、カランと音がした。その音を耳にして、悠里は「あ、そうそう」と、目的を思い出した。
「妹のところに、ちょっと用事があって」
「妹? ああ、悠奈さんのことね?」
「うん。クッキーを作ったから、悠奈達にあげようと思って」
 悠里がそう言うと、綾華は目元を綻ばせた。
「悠里にそんな家庭的な趣味があったなんてね」
「あ、別に、趣味とかそんな大層なものじゃ……」
「謙遜しなくても良いわ。特技があるのは良いことよ」
 気が向いたら、私にも頂戴ね? そう言って、綾華は校内のパトロールに戻っていった。



「悠ねえがクッキーを焼いたって?」
 神坂潤はそう言った。ただでさえ童顔なのに、潤は驚くと目がまん丸になり、更に幼く見えてしまう。
「そうよ、潤。だから、心して食べなさい」
 潤の問いに答えたのは、悠里の妹である羽住悠奈だった。勝ち気で強気で、言いたいことを言いたいように言うのが悠奈の特徴だった。そんな芸当は、どれも悠里には到底できそうになく、ひょっとすると、姉の自分よりもこの妹は優秀なのではないかとも思う。
 今も、悠奈は潤に対して、つーんとしたことを言ってのけた。なぜ、そんな言葉を平然とした顔で言うことができるのだろう?
 嫌われるかもしれない、と思うと、怖さのあまり、踏みとどまるのが普通だと思うのだけれど……。
 しかし、悠里の考えなどどこ吹く風の悠奈はニヤリと笑い、潤に言った。
「お姉ちゃんのクッキーって、そりゃもう、おいしいんだからね!」
 褒められて、悪い気はしない。悠里は「お口に合うと嬉しいな」と言った。
 タッパーに入れてあるクッキーを一つ摘み、潤はそれを口に含む。潤の目が細くなり、悠里は胸を撫で下ろす。どうやら、味に問題は無かったらしい。
「へぇ? 悠ねえって、こんな特技があったんだ。おいしいよ、このクッキー」
「そう、ありがとう」
 悠里は微笑みを浮かべた。潤は「あ、もう一つ、もらっていい?」と言いつつ、指をタッパーに伸ばした。その途端、

 ぺちっ!

 潤の手が叩かれた。
「あ、いたっ! なにすんの、悠奈?」
「心して、って言ったじゃない? 一人一つに決まってるでしょ?」
「そんなぁ……」
「当たり前でしょ? クッキー、四枚しか入ってないんだから」
 そう言う悠奈を見ていると、まるで子を叱る母親だな、と悠里は思う。そして、シュンと頭を垂れている潤を見ていて、どことなく哀れに思えた悠里は、クッキーを多めに持ってくるんだったな、と後悔した。
 なぜ、もう少し多く持ってこなかったんだろう? そこまで気が回らなかった、と言ってしまえばそれまでだったが、気の利かない、ドジな自分に嫌気がさすことが多々あった。
 潤は言った。
「そう言うならさぁ、悠奈、自分の分は自分で作ればいいんじゃない?」
「そっくりそのまま言葉を返すわよ、潤。あんたも自分の分くらい自分で作れば?」
 悠奈が応じた時だった。脇から伸びた手がタッパーの中のクッキーを一つ、持ってった。
 クッキーの行き先を振り返ると、口の中にクッキーを放り込んだ世田谷翔の顔があった。
 世田谷は一言、呟いた。
「うん、美味い」
 世田谷の存在に気づいた潤と悠奈がそちらに顔を向ける。
 潤と悠奈の目には殺気にも似た何かがメラメラと燃え上がっており――
「せぇたがやぁー!」
 訂正。殺気に似た何かではなく、殺気そのものだった。次の瞬間、潤と悠奈、二つ分のグーパンが世田谷の右頬と左頬に当たっていた。



「……だからって、殴るこたねぇだろ……」
 両の頬を両手で押さえつつ、世田谷はぼそりと言った。
 悠奈は答える。
「うるさい! 盗み食いするなんて! あんたに見直すもんなんて何一つ無いことは知ってるけど、見損なったわよ!」
 潤が続ける。
「そうだそうだ! 世田谷はバカで卑劣で不細工で傲慢でエロくてスケベで変態に加えて変人だけど、泥棒までやるなんて!」
「分かった。お前等二人が、本心ではいかに俺を見下しているか良く分かった。俺、泣いていいか?」
 ボロクソに言われた世田谷は随分としょんぼりして見えた。悠里は悠奈と潤の間に割って入り「まあまあ、二人とも」と声をかけた。
「またクッキー作ってくるから」
 悠里がそう言うと、潤と悠奈はちらと悠里を見る。二人は溜息を吐き、それぞれが世田谷に言った。
「まあ、お姉ちゃんがそう言うなら……」
「悠ねえがそこまで言うなら、許しても良いか……」
 二人は落ち着いてくれたらしく、悠里はほっと一息ついた。
 赤くなった頬から手を離し、世田谷は腕を組んだ。
「ところでよ、話変わるけど」
「なによ?」
 悠奈が続きを促すと、世田谷は言った。
「そもそも、俺はなんで殴られたんだ?」
「そんなもん、世田谷が盗み食いしたからだろ?」
 潤が怒気の残る声音でそう言った。
 世田谷は言葉を返す。
「その前だ。クッキーは全部で四枚あった。そして、ここには俺たち、四人いる」
 世田谷は指を四本立ててみせた。確かに、ここには悠里、悠奈、潤、世田谷の四人がいる。
 世田谷は続ける。
「一人、一枚ずつの勘定なら、恨みっこなしで分け合えたはず。それなのに、恨みっこありで、俺がドツかれた理由は何だよ?」
「そもそも、あんたが勝手に、そこに自分を加えていること自体に問題があるんじゃない?」
 悠奈の言葉に対し、世田谷は「細けぇこたぁ、良いんだよ。第一、仲間はずれは良くないぜ?」と言った。
「俺の導き出した結論はコレだ」
 そこで言葉を一度切り、世田谷はにっと笑って人差し指を立てた。
「みんな、もっと羽住先輩のクッキーを食べたいってこった」
「……そんな分かりきったこと、誰も聞きたかないわよ……」
 そう言って拳を組み、指の骨をポキポキと鳴らす悠奈。心なしか、トレードマークのツインテールも少し逆立っているように見える。
 世田谷は悠奈を指差して、「俺、なんか怒らせるようなこと言ったか?」と潤に尋ねた。潤は口元を引きつらせて「さ、さぁ?」と応じた。どうやら潤は悠奈の鬼のごとき形相に恐れをなしたらしい。
 悠里は悠奈に言った。
「もう、そのへんにしとこうよ、悠奈」
 再度クッキーを焼いて、持ってくればいいだけのこと。今から家に帰って、生地を作り、オーブンで焼けば、それで済むのだから。
 それだけのことのために、誰かが殴られたり、喧嘩したり、というのは、悠里には悲しいことだった。逆に言えば、それだけ自分のクッキーを喜んでくれているということでもあり、多少なりとも嬉しくもあったが。
 既に空箱となったタッパーに蓋をした時だった。悠奈が「あ!」と声を上げた。
「何? どうしたの悠奈?」
 潤が尋ねると、悠奈はまるでイタズラを閃いた子供のような顔をしてみせた。
「良いこと思いついたわ!」
 そして悠奈はこちらに視線を向けた。その顔は笑っており、その笑みの意味を、悠里は理解できず「ふぇ?」と間の抜けた声を返すより他はなかった。次の瞬間、悠奈がとんでもないことを言い出し、その時の自分の声の頓狂さほどではなかったとしても。
「あたし達で、作れば良いのよ!」
「何を? クッキー?」
 悠里の問いに、悠奈は首を横に振り、晴れ晴れとした笑顔で言った。いや、言ってのけた。
「部活動よ!」



 通称、家庭科部。放課後に家庭科室に集まり、料理を作るクラブ。言葉で表現してしまえばそれだけのことなのだろうが、悠里に襲いかかった衝撃を“それだけ”という言葉一つで片付けることはできなかった。
 幸か不幸か、白百合学園にはそんな活動をしているクラブが無かった。幸い、という点では、家庭科室を思うがままに使うことができるということだが、不幸だったのは、自分たちでゼロからクラブ活動を作っていかなければならないということだった。
 既存のクラブ活動に参加するか、もしくは何にも染まらない帰宅部に終始するか。まともな高校生活を送っている限り、それら二つのパターンに当てはまるのが大抵であるだろうから、何もないところから部活動を始めた経験のある人間は、悠里の周囲には一人たりともいなかった。経験者がいれば、どのようにすれば良いのか、話を聞くこともできたのだろうが、それすらもままならず、悠里は途方に暮れていた。
 そもそも、何故、悠奈は部活動を作ろう、などと言い出したのか? 彼女に理由を聞いたところ、返ってきた答えがこれだった。
「自分の食べたい物を自分で作る。こうすれば、誰とも喧嘩しなくて済むじゃない」
 それはそうだが、そのことと、部活動作りとの間にどれほどの関連性があるのだろう? 悠里は疑問だったのだが、潤も世田谷も自身の案に賛成したことで勢いづいた悠奈は強引に押し通してきた。畢竟、悠里は悠奈の思いつきに応諾せざるをえなかった、というわけである。
 そして、承諾してしまった以上、手をこまぬいているわけにもいかなかった。具体的に何をどうすれば良いのかはまったくもって分からなかったが、とりあえず、悠里は生徒手帳を開き、校則が書かれたページを読んでみた。
 無駄に長いだけで、もっと簡潔に書けば分かりやすいのでは、と思いながら、そのルールブックを読み進めていた時だった。ふと目の前に影ができ、悠里は顔を上げた。
 綾華が怪訝そうな顔をしてそこにいた。
「何してるのよ?」
 綾華の問いに、悠里は「ちょっとね」と返し、手帳に視線を戻した。
 綾華は言った。
「本当に……“ちょっと”なの? 随分、真剣な顔してるから、そうは見えないけど?」
「へ?」
 頓狂な声を出し、悠里は綾華の顔を見た。
 綾華は言う。
「何か悩みがあるなら聞くけど?」
「うーん……悩みというわけでもないんだけど……。でも、相談したいことならある、かな」
 すると、綾華はにっこりと微笑んだ。「話してみて」と言いつつ、綾華は悠里の前の席に座る。
 悠里は話し始める。
「実は……妹にせがまれて……」
「せがまれて?」
「く、クラブ活動を始めようと……」
「へぇ? 今まで何にも染まろうとしなかった悠里が、部活に参加するって? まあ、確かに、二年のこの時期に、クラブに入部するのは勇気のいることだと思うけど――」
「あ、そういう意味の“始める”じゃなくて」
 悠里が訂正すると、綾華は首を傾げた。
 悠里は続ける。
「新規に、クラブ活動そのものを立ち上げようと……綾華?」
 名前を呼んだのは、綾華が目を見開いたまま固まったからだった。



「部室は押さえておいたわよ、お姉ちゃん!」
 家庭科室のドアをくぐった時だった。こちらを見つけたらしい悠奈に声を掛けられた。
「部室も何も、使うのは家庭科室なんだし、放課後は誰も使ってないんだから、押さえとくってのもおかしくない?」
 悠奈の言葉に水を差したのは潤だった。悠奈は潤をじろと睨み付け、「余計なこと言わない」と釘を刺した。
 悠里は家庭科室をぐるりと見渡してみた。そこにいるのは自分と、悠奈、潤の三人だけだった。世田谷の姿が見当たらないことに気付いた悠奈は潤に尋ねた。
「世田谷くんは?」
「世田谷? 用事があるって言ってたよ。本当かどうかは怪しいけど」
「どうせ逃げたんでしょ。ま、良いわ。うっとおしいからいない方が気が楽で良いし」
 潤の言葉に悠奈が追い打ちを掛けた。随分とひどい言われようだが、世田谷は普段、潤や悠奈と折り合いが悪いのだろうか? 
 でも本当に仲が悪ければ、一緒にいることが多々あるという事実をどう説明したものだろう?
 頭に浮かんでは消える疑問符をどうにかしたいのは山々だったが、それよりも先に考えるべきことがある。
 驚きを隠そうともしなかった綾華だったが、それは綾華を含め、ここ数年の生徒会ではクラブ活動の新規設立に関する事案を扱ったことがなかったので、まさか綾華自身が部活動の新規設立の承認役を携わることになるとは考えもしなかったからだそうだ。しかし、驚きから立ち直った綾華の行動たるや実に素早く、悠里たちのために、必要な情報と書類を揃えてくれたのだから、これが綾華の有能なところだろう。
 それによると、新規にクラブ活動を設立するには、部長を含めて、最低でも部員の数が三人は必要らしい。尤も、三人だけでは、部としては認められず、同好会止まりなので、部費が降りてこない。よって、部として認められるためにも、部員は最低でも五人は必要だった。
 部室は、悠奈が言っていたように、家庭科室を使えば良く、家庭科室の備品を自由に使って良いとのことだった。しかし、料理を作るには材料が必要であり、結局の所、材料費調達のためにも部費が必要だった。
 顧問の教師を誰に頼むか、という問題もあった。家庭科の教師は、家庭科室の火元責任者であり、家庭科室の使用許可もその教師から取り付けたのだったが、顧問になってくれるよう頼んだところ、その教師は「放課後は忙しいから、ちょっと無理かな」と拒否されてしまった。
 必要な書類は綾華からもらっており、クラブの代表者が――このメンツの中では年長者である悠里自身が必要事項を記入し、生徒会に提出すれば良いのだそうだ。知り合いに生徒会長たる綾華がいるのだから、書類の方は彼女に渡せば良いとして、部員、ないしは部費、そして顧問を誰にするか、という問題を解決しなければならなかった……のだが。
「ところで、お姉ちゃん。今日は何を作るの?」
 気の早い悠奈に、悠里は嘆息した。
「何を作るって……まだ、正式に活動することすら認められてないのに?」
 悠奈の言葉に対し、潤がそう言った。すると悠奈はニヤリと笑いながら答える。
「問題は無いでしょ? 料理を作るのに必要な道具と場所はあるんだし、家庭科室の使用許可は取ってあるし」
「でも、材料はどうするのさ?」
「冷蔵庫に入ってるものを拝借するに決まってるじゃない」
「そんなに都合良く、食材って冷蔵庫に入ってるものなの?」
 質疑応答を繰り返す潤と悠奈を眺めていた悠里は、はぁ、と溜息を吐いた。



 その後、家庭科室に置かれていた冷蔵庫を開けてみたものの、都合良く材料が入っているはずがなく、三人は溜息を吐いた。
 結局、その日は特にすることもなかったので、そのまま解散となった。
 その翌日だった。放課後、生徒の少なくなった教室で、潤は悠奈と言葉を交わしていた。
「そんなに都合良く、食材が揃っているわけがなかったわね……」
 何を今更のように、と潤は言いかけたが、落胆している悠奈を見ていると、それを口にすることはできなかった。
「まずは食材を調達しないといけないけれど……どうする、悠奈?」
「どうする、って?」
「いや、だから……買い出しに行くにも、ぼくらには部費が無いじゃないか。そこんとこ、どうするのさ?」
「あんた、今、手持ちいくら?」
「そう言う、悠奈は?」
 互いに質問をぶつけ合ったが、それらの問いに対する二人の回答は嘆息だった。
 悠奈は言った。
「やっぱ、部費が無いと、どうしようもないわよね。あたし達の手持ちだけじゃ、せいぜい、活動できて三日くらいかしらね」
 その辺、悠奈は少し楽観的過ぎるのでは、と潤は思った。料理を作る、と一口に言っても、それらが必ず成功するという保証はない。ましてや、自分たちは悠里とは違って、そこまで料理というものに慣れているわけでもなく、失敗作を量産する可能性の方が明らかに大きい。失敗すれば、当然、作り直すことに他ならないわけであり、そうなると材料は瞬く間に減っていく……。本当に、三日間も活動が続くのか? 潤はそこが疑問だった。
 家庭科部の活動に本気で取り組もうと思うのなら、早々に部員を集め、正式な部として認めてもらい、部費を学校から下ろしてもらう必要がある。
 悠里一人に任せっきりにしておくわけにもいかない。自分と悠奈で、できることはやっておきたいし、やらなければ、悠里にのしかかる負担が増えるばかりである。
 先日、「面倒くさい」の一言でさっさと帰ってしまった世田谷を無理矢理にでも部員の頭数に引き込むとしても、部として認めてもらうのに必要な人数は五人であり、あと一人をどうするか。
 適当な人材、と言っても、今は九月半ばだし、この時期に部活に参加していない人間は卒業までクラブ活動に参加する気のない帰宅部だろうから、引っ張り込むにしても一筋縄ではいかないだろう。どうしたものか、と思案を巡らせようとした矢先、教室の出入り口の方で「神坂、それと羽住さん」と声が上がった。
 潤と悠奈がそちらを見やると、担任教師である風原透真(かざはら とうま)が立っていた。
「二人とも、ちょっとついてきてくれ」
 潤と悠奈は顔を見合わせた。



 風原に導かれて、二人がやってきたのは職員室だった。職員室の戸をくぐる直前、ぎくり、と体を震わせた潤と悠奈は再び顔を見合わせた。別に、何か悪いことをした覚えなど無かったが、それでも教師に職員室へと呼び出されて気分を良くする生徒は多くない。
 そんな二人の様子に気付いたのか、風原はふっ、と口元を緩めて言った。
「そんな怖そうな顔をするな、二人とも。大丈夫、ちょっと気になることがあるだけだから」
 ちょっと気になる、という程度なら、教室で済ませば良いのでは? そんな考えが脳裏をよぎったが、ここまで来て逃げ出すわけにもいかず、潤は悠奈と共に職員室の中に入った。
 スチール製の机が向かい合わせに並べられており島を形成している。その島が四列あり、部屋の奥には四列の島と垂直になるようにして、また机が並べられている。部屋の奥にある机は、教頭や生活指導部の部長、学年部長といった、上役の教師連中が占有している机だと知れた。
 平行に並んでいる四列の机のうち、三列は一年、二年、三年のそれぞれの学年を受け持っている教師の机であり、余った一列は非常勤教師の机なのだろう。
「こっちだ、二人とも」
 机と机の間を歩いていると、風原が手招きをした。風原は自分の机に置いてあった椅子に腰掛け、使われていなかった椅子を適当に二脚用意し、潤と悠奈に座るようにと言った。
「さて……いきなりこんな場所に呼び出されて、何事か、と思ってるだろう、二人とも」
 実に爽やかな笑みを顔に浮かべて、風原は言った。学校中の女子生徒の大半を虜にしてしまった風原の笑みは、甘いマスクと形容するのにふさわしいものだったが、だからといって男子生徒とは犬猿の仲、というわけではなかった。ハンサムな顔立ちに加えて、頭も切れるし、それでいて傲慢さや鼻にかかったところが無い。イヤミなところがない、というところが、男女を問わず、生徒達から人気がある所以なのだろう。
 ひょっとして、悠奈も……? ふと、悠奈も風原に対して憧れがあるのではないだろうか、という疑念が潤の頭をもたげた。潤は悠奈の横顔をのぞき込んだが、この時の悠奈は不安そうな顔をしていた。
 風原は続ける。
「風の噂で聞いたんだけど……君たち、なにやら、新しくクラブ活動を作ろうとしているんだって?」
 潤は視線を風原の方に戻し、答える。
「はい。家庭科部、というクラブを……」
「家庭科部? 家庭科、というからには、家庭科室で料理を作ったりする、ということかい?」
「まあ、そんなところです」
 潤がそう言うと、風原は顎に手をやった。そして、すっと目を細めて「ふむ……」と唸る。
 少しの間を置いて、風原は言った。
「いやね、君たちがクラブ活動を新しく立ち上げようとすることを悪いことだと言うつもりはないし、私にできることがあれば、援助を惜しむつもりはない。ただね……料理をする、ということは、火を使うということだ。君たちが聞き分けのない幼児や幼女だとは微塵も思わないけれど、火の扱いには十分、気をつけるようにね」
 わざわざ、そんなことを言うために、自分たちを職員室に呼んだのだろうか、この先生は。
 だとすれば、それこそ、教室で片付く話をわざわざ職員室に持ち込んだということであり、風原は自分たち二人をよほど問題児かなにかと、あるいはショタやらロリやらと勘違いしているのではないか、という反感を潤は覚えた。
「子供扱いをしたつもりはないよ、神坂」
 思わず、ぎょっとなった。心を読んだとしか思えない発言に、潤は風原の顔をまじまじと見た。
 風原は微笑を浮かべて言う。
「どれだけ注意していても、避けようのない事故、というものは世の中、起こりうるし、起こってしまうものなんだ。コンロ、包丁、あるいは割れてしまった皿の破片。それらは容易に人を傷つけるし、その気になれば凶器にもなる。家庭科室には、人体を傷つけるものがたくさん転がっていると言って良い。それらをきっちりと、責任を持って管理と監督できる人物がいなければ、生徒会も部としては認めないだろうし、一人の教師として、私も認めることはできない」
 途中から微笑を消し去り、真顔で話を進めた風原を見ていた潤は、すっかり感服していた。この風原という先生は、生徒のことを親身になって考えてくれる、優しい人なんだな、と潤は風原に対する認識を新たにした。本気で生徒のことを心配してくれる先生、というのもなかなかおらず、この人はひょっとして、先生というものの鑑なのではないか、と潤は思った。
「それで、だ……顧問のメドはついているのか?」
 風原の問いに対し、今度は悠奈が答えた。
「それが……家庭科の先生にお願いはしてみたんですけど……」
 普段、不躾な一面がある悠奈が、珍しく敬語を使っていた。目上の者に対する礼儀、というよりは、先の風原の演説が心に染みたからだろう。
 風原は言った。
「断られたんだろう?」
「はい」
「ま、仕方ない。あの人は非常勤講師だから、顧問だの、責任者だの、厄介ごとはゴメンなんだろう」
「あ、それじゃあ、風原先生は?」
 持ち前の明るさを取り戻したらしい悠奈が風原に尋ねた。一瞬、無防備な表情を浮かべた風原だったが、すぐに肩をすくめた。
「申し訳ないが、クラス担任を受け持っている教師は、クラブの顧問にはなれないんだ。他の先生か、あるいは非常勤講師に頼むか……」
 風原が考え始めた時だった。「何か悩み事?」という凛とした声が聞こえた。声のした方を三人が振り向くと、射撃科教員の織宮麗が、射撃科教員補佐の東条一機を従えてこちらに歩いてくる姿があった。
 麗は、子供と見紛う容姿をしているのに対し、東条は、どんな世界で生きてきたのか、ナイフのような鋭さを放つ目をしていた。銃を扱う授業が射撃科である以上、東条は射撃科教員らしい人物だと言えるが、麗はおよそ射撃科などとは縁遠い存在に思えた。
「やあ、麗ちゃんに、東条先生」
 潤は、おや、と思った。風原が麗を見る時の目と、東条を見る時の目に、奇妙な温度差があるように、潤は感じた。
 その温度差の理由が何であるのか。潤が考えるよりも先に、麗は「麗ちゃんはよしなさいよ」と応じていた。
「そんな名前で呼ばれると、まるで小さい子供みたいじゃない」
 あながち、間違っていない気がする。潤は心の内側でそう呟いた。
「ははは、ごめんごめん」
「それで、風原先生。なにか悩んでるみたいだったけど、どうかしたの?」
「ああ、昨日、話してたアレだよ」
「あ、例の、クラブ活動を作るとかいう噂?」
「そうそう。で、それが噂じゃなくて、本気らしいんだ、彼ら曰く」
 風原はそう言って、潤と悠奈を指した。
「へぇ? ねえ、君たち、なんのクラブを作るつもり?」
 興味津々、といったそぶりを隠そうともせず、麗は潤と悠奈に尋ねてきた。
 潤は先ほど、風原に説明したことを麗にも告げた。すると、麗は言う。
「ふーん? 料理を作るクラブ、か。面白そうじゃない。で、何か問題でもあるの?」
 麗の問いに、風原は答える。
「別に、私も否定するつもりはないんだが……顧問が見つからないんだ」
「あら、そんなこと? そんなの、簡単じゃない」
 麗の言葉に、風原は首を捻った。潤と悠奈も風原と同じく、首を傾げる。
 すると、麗は言った。
「私、今フリーよ」