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家庭科部立ち上げ ‐ Scene 2

「失礼しましたー」
 潤と悠奈は声を揃え、そして職員室から出た。思いのほか、あっさりと顧問の教師が見つかってしまい、風原は少し拍子抜けしていたようだったが、顧問さえ見つかればこっちのもの、という考えをしているこちらとすれば、事態が一歩でも前進したことを素直に喜んでいた。
 傍らを歩く悠奈に潤は尋ねた。
「さて、顧問の先生はなんとかなったし、後は部員だよね。どうする?」
「もう、世田谷は確定でいいわよね? 嫌そうな顔した時は、殴ってでも入部させるけど、良いかしら?」
「ああ、大丈夫。ぼくもその時は殴るから」
 握り拳を悠奈に見せつけると、悠奈は笑った。つられて潤も笑みを浮かべ、二人はカラカラと笑っていた。
 残り一人の部員を誰にするか。それさえどうにかなれば、めでたく家庭科部は完成する。この時の潤は、それだけしか、見えていなかった。



「だーかーら。俺は、面倒なことは嫌だって言ったじゃないかよ」
 嫌がる世田谷を無理矢理、放課後の家庭科室に連れ込んで十分と少し。何にも染まらず、帰宅部ライフを三年間エンジョイするつもりだったらしい世田谷を説得することに疲れた潤は悠里に助けを求めた。
「悠ねえ。悠ねえからも世田谷に何とか言ってやってよ」
「え? 私? あ、うーんと……世田谷君、私からもお願い」
 どちらかと言えば、悠里の涙腺は緩いほうで、今も眼鏡の奥の瞳がうっすらと滲んでいる。これが演技ではなく、天然でこうなるのが、悠里のすごいところだと潤は思う。
 こうなると、世田谷は弱い。ただでさえ、女の子には――悠奈という例外を除き――甘い男であることに加えて、悠里という美人に涙目でお願い事をされれば、十中八九陥落する。まあ、悠里の涙目によるお願いは、世田谷に限らず、並みの男ならば陥落してしまうであろう破壊力を秘めていると言えたが。
 案の定、世田谷はしどろもどろになった。
「えーと……羽住先輩にそう言われても、こっちにもいろいろと事情ってもんがあってですね。いや、決して、羽住先輩を困らせたいとか、そういうわけじゃなく――」
 刹那、勢いよく家庭科室の扉が開いた。導線を接触させれば、豆電球が発行するのではないか、と思わせるほどの笑顔をした悠奈が部屋に入ってきた。
 何か良いことでもあったのだろうか、と思った潤だったが、悠奈に続いて入ってきた女子生徒を見て、そりゃ、悠奈の機嫌が良いわけだ、と事情を察した。
 悠奈は一同の前にやってくると足を止め、声高に宣言した。
「みんな、喜んで! 家庭科部を制式に部として認めてもらうために必要な人数は五人! 今日、五人目が見つかったから、晴れて部活動として認めてもらえる日が来たわよ!」
 悠奈はそこで言葉を切り、横に立つ女子の紹介を始めた。
「一年三組の御浜さんよ。今日ね、体育の授業の時に、あたしとコンビ組んだ子でね、家庭科部の話をしたら、是非、自分も入れて欲しいって言ってくれたのよ」
 御浜と呼ばれた少女が悠奈に代わって口を開いた。
「ただいまご紹介に預かりましたーって言うのが正しいんだろうけど、堅苦しいの嫌いでね。どもども! 御浜結衣(みはま ゆい)でーす!」
 腰まで届く髪をふわりと揺らし、御浜は快活そうな笑顔を見せた。
 朗らかな性格をしている上に、顔立ちもなかなか可愛らしい。口の端から除く八重歯がきら、と光り輝くのを見た潤は、口元を不適に歪めた。
 学年でも有数の美人として有名な御浜の名前を、潤も知っていた。ということは当然、世田谷が知らないはずはなく、これでもう世田谷は逃げられまい、と潤は思った。
 ためしに、潤はちらと世田谷の顔を覗き込み、尋ねた。
「どうだ、世田谷? 御浜さんと同じクラブってのは、悪い話じゃないと思うけど?」
 すると世田谷は「お、おう……」と返し、それっきり黙り込んだ。しかし、世田谷の目には「負けたぞ、潤」という色がありありと浮かんでいた。



 顧問の教師のめどがつき、クラブ活動として正式に認めてもらえるだけの人数も揃った。必要な書類に記入すべきことは記入したし、あとは綾華に渡せば良い。懸案事項があらかた片付いたことで、悠里はほっ、と胸を撫で下ろした。
 悠奈の突飛な発言によって、家庭科部なるものを作ることとなってしまったが、考えてみれば、一年と半年間、何一つとして『何かを為し遂げた』という気分を味わったことのなかった身には、かえって良かったのかもしれない。
「それで、お姉ちゃん? 今日は何を作るの?」
 悠奈の言葉に、悠里は「ゆで卵よ」と答えた。
「ゆで卵? あの、お姉ちゃん……それ、お湯を沸かせば、誰にでもできるんじゃないの?」
「そうは言っても……卵くらいしか、材料が無かったから……」
 悠里の弁明に対し、悠奈はにんまりと笑い「ま、いっか」と言った。
「どうせ、部費が下りてくれば、材料費にできるんだし。今日はゆで卵にしようかしらね」
「というかさ、悠奈って、ゆで卵、本当に作れるの?」
 潤が悠奈に訊いた。悠奈は目を丸くした後、顔を赤くして叫ぶ。
「あ、当たり前でしょうが! それくらいできるに決まってるじゃない!」
「まあまあ、そんなに怒ることないじゃない、悠ちゃん。おいしいゆで卵を作って、見返してやれば良いのよ」
 怒る悠奈をそう言って宥めたのは御浜だった。それを見た悠里はくすりと笑ってしまった。お世辞にも沸点が高いとは言えない悠奈の扱いを、御浜は良く心得ている。ということは、悠奈と御浜はなかなか、良いコンビなのかもしれない。
 人を傷つける言葉でも、思ったことをすぐ口にしてしまう悠奈に、友達がいるのかどうか。自分も、決して多いわけではなかったが、それでも姉として、悠奈のことを心配していた悠里だったが、そんな心配は取り越し苦労に過ぎなかったことに気がついた。
 良いことは連鎖的に続くもの。いつもよりは前向きな気分になった悠里は、鍋に水を汲み、それを火に掛けるようにと一同に告げた。



 この時、もう既に悲劇のカウントダウンは始まっていた。
 その日の前夜、家庭科の担当教員は、知り合いにもらったダチョウの卵を家庭科室に持ってきた。素直に蛍光灯を点ければ良かったのだろうが、荷物を置きに来ただけだったし、暗がりであっても、どこに何があるのかを把握しているという自信が彼女にはあった。
 暗闇と言って遜色ない家庭科室の、ちょっとした物を入れておく戸棚に彼女は近づき、戸棚の戸を開けて、ダチョウの卵を入れた。しかし、実際には戸棚にではなく、電子レンジの中に卵を入れていたのだったが、いかんせん暗かったため、彼女は卵を入れておくべき場所を間違えたことに気がつかなかった。
 夜が明け、昼が過ぎ、放課後になって、五人の生徒が集まった家庭科室の電子レンジにはダチョウの卵が残っていたが、何も知らない五人には、そこにそんなものがあることすら知らなかった。言うなれば、電子レンジにダチョウの卵があることに気がつかなかったこと自体が、彼ら五人にとって一つ目の不運である。
 そして二つ目の不運は電子レンジのスイッチに、五人のうちの一人がうっかり肘をぶつけてしまったこと。三つ目の不運は、電子レンジの始動音が「お姉ちゃん、お湯が沸いたよー!」という女子生徒の声にかき消されてしまったこと。
 不運もまた、連鎖的に続くもの。そして彼らに降りかかった最後の不運は……
「あれ?」
 ブーン、という小さく、しかし低い、何かの駆動音が聞こえた潤は振り返った。
 いつの間にか、電子レンジが動いている。いったい、誰がレンジを使ったんだろう、と思いつつ、レンジの中を潤はよく見た。
 ターンテーブルの回転に合わせて、その上に乗る卵が、それも大きな卵が、回っていた。
「おや? レンジが動いてるけど、何をチンしてるの?」
 そう言って、御浜はレンジに近づき、レンジの中を覗き込んだ。

 刹那――

 家庭科室中に轟音が響き、電子レンジが木っ端微塵に吹き飛んだ。その爆風にあおられた潤と悠奈は地面に叩きつけられ、彼ら二人よりは遠くの位置にいた世田谷と悠里は突然の爆音に腰を抜かし、尻餅をついた。
 しかし、この四人はまだ良かった。爆風と轟音に加え、爆発の衝撃とレンジの破片をまともに浴びた御浜結衣は、数メートルも吹き飛ばされ、調理台に体を打ち付けた。飛来した破片が御浜の体に襲いかかり、制服もろとも皮膚と肉を切り裂いた。
「ゆいぃぃぃ!」
 悲痛な声が、部屋中にこだました。



 東条一機は白百合学園の廊下を歩いていた。
 レッドフェザー参謀、ガルマンの手配により、学園に教師として潜入することとなったのが、今から半年近く前。月日の流れの速さを改めて実感しつつ、今、自分は何をしているのだろう、と一機は思った。
 自分は、ゲリラグループの一員だが、元を正せば、傭兵だった。金さえもらえれば、どんな仕事であろうとこなしてみせるのが傭兵である。何でも屋、と言われればそれまでだったが、生きるためには金がいることは事実。つまらないプライドのために、仕事を選ぶ、ということを一機はしなかった。
 レッドフェザーは金を払うことを約束してくれた。一機の提示額のうち、半分を前金として払ってくれたのだから、少なくともそれが口約束ではないのだろう。残り半分は、レッドフェザーでの仕事を完遂したら払う、とグループのリーダーである赤羽は言っていた。
 レッドフェザーでの仕事を完遂する――それはつまり、西園寺厳蔵を殺害し、西地区に平和を取り戻した上で、既に死んでしまった者達の仇を討つ、ということだった。
 そんなレッドフェザーでの仕事の一環として、白百合学園に潜入する。理屈は分かるが、どこか釈然としないものを感じながら、ここ半年間を過ごしてきた。
 ここは平和の香りに充ち満ちている。この空気も、長く吸い過ぎれば、戦場でしか生きてこなかった一機にとっては害になる可能性があった。
 学園に潜入して既に半年近く。それはつまり、射撃科教員補佐として、射撃科教諭の織宮麗の傍につかず離れずの立ち位置をキープし続けたということであり、そろそろ、アタックを仕掛けてみる頃合いか。それとなく織宮に話しかけ、彼女が銃火器のコレクターであるのかどうか、またそれが事実なら、それらがどこに保管してあるのか。それを聞き出してしまえば、もうこの学園に用はない。
 実戦の勘が鈍れば、今後の仕事にも影響する。とっとと白百合学園の潜入を終わらせたいものだ、と考えた一機は、いや待てよ、と思いとどまった。
 射撃科教員補佐という立場を上手く使えば、射撃訓練をすることくらい日常茶飯事である。せめて、ピストルを撃つ感覚くらいは、忘れないようにしておくべきか。自分は傭兵なのだから、いつどこで戦場に放り込まれても大丈夫なように準備を――
 ズガァン! という耳を聾する音が聞こえ、廊下を突き抜けた衝撃に足を取られたのは、ほんの一瞬のできごとだった。
「なんだ、今の?」
 咄嗟に口にし、スーツの中に隠していたホルスターから拳銃を抜く。
 敵襲か? しかし、どこの誰が? レッドフェザーが業を煮やして、本隊を送り込んできたか? いや、自分は現在の状況を逐一、ガルマンと赤羽に報告している。ここ数日の彼らの口ぶりから察するに、白百合学園に突撃するなどというニュアンスは感じられなかった。なら、レッドフェザーは違うとして、他のゲリラグループが武器欲しさに、噂を聞きつけてここにやって来たのか?
 姿勢を低くしたまま廊下を駆ける。最初の振動が収まって以来、他に爆発音は聞こえない。敵襲ではないのか? それとも何かの陽動作戦? 頭を駆け巡る疑問符に対する、答えの最有力候補を絞ることができず、一機は曲がり角を曲がった。視線と一体化したグロックを構え、敵どころか、生徒すらいない廊下の先に、白煙が立ち上っているのを一機は見た。
「ゆいぃぃぃ!」
 女子と思しき悲鳴が煙の向こうから聞こえた。誰かが爆発に巻き込まれたのか、と思った一機は煙の出ている部屋へと急いだ。
 その部屋の表札を一瞥し、家庭科室だということを確認した一機は、そっと部屋の中を覗き込んだ。
 地面に座り込んでいる女子と男子が一人ずつ。腰を押さえて、痛みを堪えている男子が一人。そして――血を流し、調理台に背中を預けている女子の傍で、必死の形相をした女子がもう一人。
 その向こうに、ぽっかりと穴が開いた台があり、機械だとわかる何かが散乱していた。
「結衣! 結衣! しっかりして、結衣!」
「その子から離れろ!」
 その瞬間には、家庭科室に敵が潜んでいる可能性が頭から消え、一機は血を流している少女の元に駆け寄った。
 首筋に手をやり、規則正しい鼓動を刻んでいることを確認した一機は、少女が生きていたことにひとまず安堵する。
 しかし、安心はできない。爆発で吹き飛ばされたということは、床なり調理台なり、堅い場所に頭をぶつけている可能性がある。頭を下手に動かすべきではない、と判断した一機は怪我の箇所の確認を始めた。
 破片をもろに浴びた割には、切り傷と擦り傷が大半だった。体のどこかに穴が開き、肉体を貫通している、というわけではなさそうである。運が良かったらしい、と思ったのもつかの間、一機は“それ”を見た。
 傍らにいた少女の死角で見えなかったのだろう。傍らの少女が体をどけた時、傷だらけの少女の中でも、一際ひどい傷があった。
 脇腹に深々と金属片が突き立っていた。金属片の長さ次第では、肉どころか、内臓すらも貫いている可能性が……
 教室中に響く声で一機は叫んだ。
「誰でも良い、先生を呼んでこい! それと、救急車だ!」
 呆けている少年少女は、何を言われたのか分からない、という顔をした。
 激発した一機は吠える。
「急げぇっ! 友達が怪我してるんだろうが!」
 弾かれたように立ち上がった少年が、後ろのドアを開け、走っていった。



 御浜結衣に襲いかかった破片は、彼女の脇腹に突き刺さったものの、幸いにして、内臓にまでは達していなかった。しかし、肉を抉っていたことには違いはなく、彼女には絶対安静が言い渡された。
 爆風による火傷と、吹き飛ばされた衝撃でしたたかに打ち付けたことによる、打撲と捻挫。それら全てを治療するためにも、彼女はしばらくの間、入院することとなった。
 命に別状はなく、しばらくすれば普通の生活を送ることができる。それは、御浜結衣にとっては不幸中の幸いと言えたが、潤と世田谷、悠里や悠奈には、御浜の無事を喜んでばかりいるわけにもいかなかった。
 家庭科室は電子レンジの爆発によって、しばらくの間は使い物にならず、割れた窓ガラスやらなにやらの修繕に時間も金もかかる。
 全ての元凶は、電子レンジにダチョウの卵を入れておいた家庭科の担当教員だったが、彼女一人に罪をかぶせるわけにもいかなかった。
 電子レンジの中に、何も入っていないことを確認しなかった生徒達にも落ち度はあった、と言えるだろうが、使いもしない電子レンジに気を回せ、という方が無茶な注文だろう。
 神経過敏な保護者連中が騒ぎ立てるのだろうが、抗議の対策は理事長や校長といった、白百合学園のお偉方に任せるしかなく、普段より騒がしいということを除けば、普段と何ら変わらないのが職員室の風景だったし、また学園全体の風景だった。
 だから言っただろうに……。内心に呟き、風原透真は溜息を吐いた。注意した早々にこれでは、何のための注意だったのかと問い詰めたくなるが、そうするわけにもいかず、風原は虚しさを覚えた。
「風原先生、聞いたよ」
 視線を上げると、織宮麗と目が合った。
「家庭科室で怪我した子、御浜さん、だっけ? 彼女、命に別状は無いそうじゃない」
「あ、ああ……」
 命に別状はない。風原には、その言葉が非常に残酷な言葉であるように思えた。
 言葉を換えれば、それは「死んではいないが怪我をした」ということである。どちらにせよ、御浜結衣に襲いかかったのは、爆発したレンジの破片だけではあるまい。死の恐怖に震え上がり、痛い思いをした、という事実が揺らがない以上、体だけではなく、心にも傷を負ったと見るのが正しいだろう。
「でも、私は……僕には、命に別状がないからといって、それが良かったことだとは到底思えない」
 麗に対して敢えて一人称を言い換えたのは、風原が心を許した数少ない相手だったからか。
 しかし、麗は風原の換言に気付いた様子はなかった。
「どちらにしても、これからが大変でしょうね、家庭科部は」
「他人事みたいな口ぶりだけど、麗ちゃん、そこの顧問だよね?」
「部としてはまだ認可されてないんでしょ? だったら、『顧問でござい』って大きな顔して、部員達を守るための矢面にも立てないし……」
 風原はふむ、と鼻を鳴らした。麗は麗なりに、気を揉んでいる、ということか。
 彼女は彼女で傷ついているのかもしれない。慰めの言葉を掛けておけば、何かしらの良い思いができるかもしれない。こんな時に働かせるべき打算ではないが、風原は口の端に笑みを浮かべて、口を開こうとした。
「織宮先生」
 東条一機が近寄ってきた。風原はそれとなく顔をしかめ、舌を鳴らした。
 麗にたかるハエめ……。風原は別に、東条のことを嫌っているわけではなかったが、職務上、東条が麗の傍にいることをあまり好ましく思っていなかった。
 しかし、風原の思いなぞ、どこ吹く風の東条は麗に言った。
「会議室に来て欲しいと、生徒会長からの言づてです」
「会議室?」
 おうむ返しにした麗の横顔を眺めつつ、風原は、あることを思い出した。
 家庭科部の設立に関して、家庭科部の部員達と生徒会の面々とが会合を開くらしい。
 顧問をすることになっている以上、麗はそこに参列する必要があるのだろう。
 なにやら、波乱を含みそうな気がしてならないその会合に、風原は、神坂達は大丈夫なのか、と不安を覚えた。



「家庭科部、と呼ぶのは、設立が認められていない以上、本来ならばおかしい。しかし、適当な呼び名が他にあるわけでもないため、ここは便宜上、家庭科部、と呼称する」
 テーブルに、向かい合わせになるようにして、片方に生徒会の面々が、もう片方に家庭科部の面々が、それぞれ座っていた。テーブルの端、すなわち、議長の席に、生徒会長である綾華がいた。
「予め断わっておくが、今回、家庭科部の君たちをここへ呼んだのは、先日の事故のことを問題にしたいからではない。むしろ、その事故に至るまでの道筋に関して、我々は君たちから話を聞きたい」
 いつもと違い、事務的で、よそよそしい綾華の言葉遣いに、悠里は胸の奥でざわりとしたものを感じていた。
 普段の綾華ならば、言葉の端々にも目にも、もう少し『丸み』が感じられる。ところが、今の綾華からは冷徹さしか感じられず、目つきも異様に鋭かった。
 こんな綾華の姿を、悠里は初めて見た。毅然とした、という表現では到底足りず、いっそ冷酷と表現した方がしっくり来る。
 綾華は視線を悠里に向け、言った。
「羽住悠里。君が部長、ということに相違はないな?」
「は……はい」
 綾華の問いに、悠里は体をびくりと震わせながら答えた。
 綾華は続ける。
「クラブ活動を新規設立する場合、そのクラブの代表者には、クラブ・サークル新規設立申請書に必要事項を記入し、生徒会の窓口に提出する義務があった。君は、そのことを知っていたはずだ。違うか?」
 抑揚のない口調だった。単なる事実確認なのだろうが、その落ち着いた声音が、かえってこちらを責めているように感じられる。
 悠里は萎縮して「そ、その通りです」と言った。
「クラブの代表者が君、つまり羽住悠里であり、クラブの代表者である君は生徒会にクラブの新規設立を申し出なければならないという義務があった。ところが……君はこれを怠った。これが、どういうことなのか、分からないはずはあるまい?」
「そ、それは……その……」
「君の言い訳を聞きたいわけではない」
 悠里の言葉をぴしゃりと遮った綾華は、いっそう鋭さを増した目で悠里を見た。
「必要な書類の提出をしなかった、ということは、クラブとしての家庭科部は、白百合学園には存在しなかったということだ。存在も活動も認められていないはずなのに、君たちは勝手に家庭科室を占有し、そして、勝手な判断で活動をした。これは、重大な校則違反だ。事故など起こらなくても、君たちには罰則が与えられて然るべき、ということになるな」
 悠里は愕然となった。綾華は、完全にこちらの逃げ道をふさいでいる。言い訳させる隙を与えず、事実のみを淡々と積み上げていく。
 事故は事故。偶発的に起こってしまった以上、それは確かに、仕方のないことだと考えることはできる。しかし、綾華はそこを責めているわけではなく、悠里の怠惰さを叱責しているのだ。
 たかだか、書類一枚を生徒会に提出していさえすれば良かったのだ。それなのに、自分は……家庭科部が形になったことで浮かれてしまい、正当な手続きを踏襲せずに、家庭科部の活動を開始してしまった。書類の提出を失念していた自分が怠惰ならば、活動を認められていないのだから部員達が家庭科部として活動しようとしたことを止めさせなかった自分も怠惰であるし、更には、自分も部員達と一緒になって、その活動に積極的に荷担してしまったことも怠惰である。
 畢竟、全て悠里が悪く、悠里の責任、ということなのだろう。
 クラブの代表者ならば代表者なりに、色々と気を回すべきだったのに、気の回らなかった自分に、悠里は自己嫌悪の念を覚えた。
 昔からこうだった。何をやっても空回りで、やることなすことドジばかり。今まで、部活動というものに関わろうとしなかった究極の理由は、そこに尽きる。
 クラブ活動という、下手な背伸びをすれば、自分は必ずどこかで蹴躓く。それが分かっているから、クラブ活動というものに染まろうとしなかったのが、悠里だった。
 今回にしてもそうだ。家庭科部、などと息巻いて、できもしないことをしようとするから、こんな結果になったのだ。それも、自分一人だけではなく、大多数の他人までをも巻き込んでしまい、多くの人間に辛く、悲しい思いをさせてしまった。
 何もせずに過ごす毎日に焦燥感を覚えた? 周りは様々なことに精を出しているのに、何もしない自分は怠け者? 何かをしなければいけないような気がした? このままで本当に良かったのか? 今となっては、お笑いぐさ以外の何者でもなくなった疑問符の数々。最初から、自分には何かができるなどという余地は無かったのだ。何もせず、ただ平穏無事に学校生活を終えるために、余計な背伸びをしないことにだけ注意を払っていれば、こんなことには――
 熱っぽい何かが、頬を流れた。それが涙だということを理解するのに数秒の時間を要した悠里は、自分が堅く拳を握りしめていたことに初めて気がついた。
 自分は、泣いている? 何故? 不甲斐ない自分を恥じているから? ドジな自分が情けないから? 悲しいから?
 いくつもの自問を重ねたが、心の奥底から「違う!」という言葉が返ってきた。
 悲しいのではない。悠里は、悔しいのだ。そもそも、何もしなかった自分自身に焦りを覚えた理由は何だったのか? それは、何かをしたかったから、と悠里は内心に呟く。
 何だって良かった。何でも良いから、とにかく、自分が楽しいと思える何かに打ち込んでみたかった。その“何か”が結果的に、家庭科部だっただけであり、悠里は自分の手元から家庭科部というものがスルリと抜け落ちそうになっている現状が、ひたすらに悔しかった。だから、手が白くなるほどに拳を強く握りしめていたのだろう。
 悠里は顔を上げ、綾華の顔を睨んだ。すると、綾華も悠里の顔を直視していた。
「羽住悠里。そんな、涙目でこちらを睨んでも、無駄だ。校則を守らなかった君たちに、新規にクラブを立ち上げる許可など出せない。家庭科部の設立を、私は却下する」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 会議室の後ろの方で声が上がった。一同がそちらに顔を向けると、潤が椅子から立ち上がっていた。
「そりゃ、校則を破ったことは認めますし、謝ります! でも、だからって、家庭科部の設立が認められないってのは、あんまりです!」
 綾華は潤を見据えて言った。
「校則というルールを守ること。それは、生徒である君たちにとっての義務だ。義務を果たさない人間に、権利などない」
 正論だった。何も言い返すことができない悠里は、奥歯を噛みしめつつ、顔を伏せる。こうまで、真っ正面から否定されれば、おそらく潤とて、何も言い返せるはずは――
「あなたはなんなんですか!」
 潤は叫んでいた。悠里は思わず潤の方に顔を向けた。
「ぼくたちは人間なんですよ? 生きてれば、数え切れないくらい、ドジを踏めば、失敗だってするでしょう! どうしてあなたは、たった一度の失敗をそんなにも責めるんですか? こっちをそこまで責めることができるくらい、生徒会長っていうやつは偉いんですか? これじゃ、鬼と変わりがないじゃないですか!」
 怒声を飛ばす潤に比べ、綾華の視線は冷ややかだった。
 一息に言い切った潤に、綾華は興味を無くしたと言わんばかりの調子で「言いたいことはそれだけか?」と問うた。
「確か、君は……神坂と言ったな? では、神坂。そのたった一度の失敗で、女子生徒が一人、死にかけた。君は、私に言ったことと、まったく同じことを、御浜結衣に言えるのか?」
 言えるわけがない。その、たった一度の失敗のために、御浜は大怪我をした。御浜がこちらを責めることはあっても、御浜にこちらを責めないで欲しい、とは口が裂けても言えない。
 ところが、悠里の予想を潤は裏切っていた。
「そんなこと今は関係ないでしょう!」
 潤の張り上げた声に、今度は綾華も鼻白んだ。返す言葉を見失った綾華に対し、潤はたたみかける。
「会長さん、あなたは最初にこう言ったはずですよ。この話し合いは、御浜さんの怪我の件は問題にしないって。それなのに、言い出しっぺのあなたが御浜さんの件を蒸し返すのはおかしいじゃないですか!」
 潤はそこで言葉を切り、呼吸を整える。その場を気まずい沈黙が支配するかに思えたが、不意に綾華が笑い声を上げた。
 ひとしきり哄笑を続けてから、綾華は言葉を発した。
「いやー、参った、参った。仕方ないわ、降参ね」
 そう言った綾華の目には、もう先程のような鋭さは存在しなかった。そして綾華は、悠里のよく知っている、いつもの声音で語り始めた。
「本当のことを言うと、私個人としては、家庭科部の設立を認めていた。でも……あんな事故が起こってしまった以上、そう簡単に設立の許可を出すわけにはいかないのよ。事故を起こした問題の部を、存在させようとすると、当然、外側から反対の声がたくさん上がる。それらの反対を押し切って、更に学園生活を有意義に過ごすための活動をするのは、ちょっとやそっとの覚悟では足りないと思うの。だから私は……あなた達、家庭科部の部員達を試した。外野からの横槍に右往左往することがないだけの、覚悟と根性があるかどうかを、ね」
 綾華は一旦言葉を中断し、目を細めた。
「試した結果、答えは出たわよ。六木本!」
 綾華は、はす向かいの席に座っていた男――六木本劾(むぎもと がい)に声を掛けた。
「生徒会室の私の机から、生徒会長のハンコと朱肉を取ってこい。もうこの場で、家庭科部の設立を承認することにした」
「了解しました、会長」
 立ち上がった六木本は、颯爽とした身のこなしで会議室から去っていった。彼の後ろ姿を見届けてから、綾華は悠里へと視線を向ける。
「悠里。あなたは、良い後輩を、そして仲間を持ったわね」
 そう言って、にっと笑った綾華の顔を見ていた悠里は、この時になって気がついた。
 どうやら、自分を含め、家庭科部の面々は、桐原綾華に担がれていたらしいことに。



「良かったじゃない、おめでとう!」
 邪気のない笑みをこちらに向ける御浜の顔は、実に血色が良かった。あれだけの爆風と破片を浴びたにもかかわらず、元気そうな様子の御浜に、悠里を筆頭に、潤と悠奈もほっと胸を撫で下ろしていた。
「うん……ありがとう……」
 礼を述べる悠奈の声には、御浜ほどの元気は無かった。そんな様子を見て取ったのか、御浜は眉を寄せて言う。
「無事に、家庭科部が設立できたんだから、喜べば良いじゃない? どうかしたの、悠ちゃん?」
「いや……家庭科部ができたのは良かったんだけど、結衣がこんな怪我をしちゃったのって、ひょっとするとあたしの……」
「言わないで、悠ちゃん、それは」
 悠奈の言葉を遮った御浜は、悠奈の手を取った。
「事故ってね、偶然、起こってしまったから、事故って言うんだよ? 誰にも、どうしようもなかったんだし、そのことで自分を責めないで、悠ちゃん。私だって……怖かったし、痛かったけど、だからって、悠ちゃんや皆を責めるつもりなんて、これっぽっちも無いんだから」
 そう言って、御浜は悠奈に優しく微笑んだ。そして、御浜は潤の方に顔を向ける。
「そうそう、潤ちゃん。聞いたよー? あの、クールで取り付く島のないって噂の生徒会長に、啖呵を切ったんだって? うわー、それは見てみたかったなぁ。普段おとなしい潤ちゃんが牙をむくところ」
「あ、いや、それは……場の勢い、というか、悠ねえがかわいそうで、見てられなかったというか……」
 しどろもどろになる潤を、御浜はジト目で眺めた。
「ふーん? 潤ちゃん、悠里さんに優しいんだ?」
「え? あ、うん、まあ、幼馴染みだし……悠ねえの困ってるところを見過ごせそうになかったし」
 潤がそう言うと、御浜は、ぱっと顔を輝かせた。
「そっか、潤ちゃん、優しいんだね。でも、その優しさを、他の子にも向けてあげないとダメだぞー?」
「他の子?」
 潤が訊き返すと、御浜はチラリチラリと悠奈の方を見た。視線に気付いた悠奈は目をしばたたいた後、顔を赤くする。
「な、なんで、あたしの方を意味ありげに見るのよ、結衣?」
「え〜? べっつにー?」
 御浜がおどけると、頬を染めた悠奈は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。状況がイマイチ飲み込めていない潤は、腕を組んで首を捻っている。
 そんな潤の横顔を眺めていた悠里は、潤の顔を、ベビー・フェイスよね、と評した。
 でも、忘れてはいけない。そのベビー・フェイスの持ち主は、優しさ故に、時として鬼にも噛み付けるのだということを。
 だから、悠里は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、こっそりと言ってみた。
「……ありがとう、潤くん」
 聞こえてしまったのか、怪訝そうな面持ちで、潤がこちらを振り返った。悠里は、そんな潤に微笑みを向けた。