白百合学園が抱えている体育館には地上に二フロア、地下に一フロアが存在する。
地上の二フロアのうち、二階が、いわゆる普通の体育館となっており、バスケットボールのゴールにシュートを決めようとしているバスケ部の部員達の姿があった。一階には、柔道部と剣道部の練習場があり、豪快な背負い投げを決めてみせた柔道部員の姿や、気合いの声と同時に竹刀で面を叩いている剣道部員の姿があった。
そして、体育館の地下には、射撃科の実習を行なう場――射撃訓練場が存在した。
その射撃訓練場で、東条一機はグロックを構えていた。
狙いを定め、引き金に掛けた指を動かす。パン、という乾いた音を残して銃口から飛び出していった弾丸は、的の中央を正確に捉えた。
「見事なものね、いつ見ても」
凛とした声が聞こえた。そちらを見やると、織宮麗が笑顔を向けていた。
小柄な体躯に加え、幼い顔立ちをしたこの教師は、正直なところ、黒光りする拳銃よりは、真っ赤なランドセルとリコーダーが似合いそうな気すらしてくるが、これでも、二十六歳の一機よりは年上なのだそうだ。にわかには信じがたい話ではあるが。
「織宮先生。俺に、何か用事ですか?」
「東条くんさ、今晩、ヒマ?」
「暇と言えば、暇ですが……何かあるんですか?」
「うん。飲みに行かない? 年末だしさ」
なるほど、忘年会のお誘い、か。まぁ、断わる理由も無いし、二つ返事で了承しておこう……というところにまで考えが及んでから、一機はふと我に返った。
いったい、俺は何をしているのだ? と。
織宮麗に接近し、彼女のコレクションがどこにあるのかを探り出す。それが、一機に与えられた仕事であるはずだったが、探りを入れようにも、この織宮麗は、一癖も二癖もある狐であるらしく、前々からそれとなく、さりげなく尋ねてみたのだが、のらりくらりとかわされては、どこに彼女の所有物が保管されているのか、いまだにさっぱりな状態だった。
そして気がつけば、もう年末。一機が白百合学園に潜入して、既に九ヶ月になろうとしている。
ガルマンは赤羽に「待つことも勝つために必要なこと」と吹き込んでいたが、赤羽とて気の長い人間ではない。年を越す前に、なんとかしてそれなりの手がかりを見つけ出したい、と考えている一機だったが……現実は残酷なり。あろうことか、酒の席に身を投じなければならないとは。
断わっても良かったのだろうが、下手に麗の機嫌を損ねても、今後のことを考えれば得策とは言えないだろう。それに、酒が入れば少しは麗の口も軽くなるはず、という計算をした一機は、結局、麗に「良いですね、行きましょう」と応じていた。
「じゃ、決まりね。七時に校門で待ってるから」
そう言うと、麗はその場から立ち去っていった。
彼女の背中を見届けてから、一機は肩を落とし、盛大な溜息を吐いた。
本当に……俺は、何をしているのだろうか? これで、何かしらの手がかりが掴めなければ、赤羽も黙ってはいないだろう。
一機は、焦り始めていた。その焦燥をごまかすかのごとく、一機は銃を構え、撃つ。
一機の心が反映されたのか、今度は、中央から少し弾が逸れていた。
ふと、カレンダーを眺めてみた。今日の日付を確認した風原透真は表情を曇らせる。
十二月二十六日。
気付けば、クリスマスも終わっている。今年も残すところあと数日だということに風原は今更のように思い至った。ここしばらく、忙しかったせいか、曜日や日付の感覚がすっかり無くなっている。世間は既にクリスマスというお祭りムードから、年越しやら正月やらの雰囲気に代わりつつあった。それだというのに、なんだか季節から取り残されたような感覚を覚えた風原は溜息を一つ吐いた。
しかし、今日で、白百合学園での仕事も一段落を迎えることができた。年末年始の一週間は、ゆっくりできそうだな、と考えた風原は、うん、と背伸びをした。
強張っていた肩の筋肉が少しほぐれかけた時だった。職員室の扉が開く音がしたので、風原はそちらに顔を向けた。
「おや? 麗ちゃん?」
部屋に入ってきた麗に風原は声を掛けた。
「風原先生? こんな時間まで、残ってたの?」
目を丸くした麗に、風原は「仕事が残っていてね」と答える。
「そっちも、居残りかい?」
「ま、そんなところ。お互い、大変ね」
そう言って、麗は微笑を浮かべた。社交辞令程度の、会釈のような笑みなのだろうが、風原にはまるで天使のスマイルであるかのように思えてならなかった。
やはり、麗の笑顔は良い物だ。ずっと眺めていても飽きる気がしない。そこで風原は、ふと思いついたことを口にした。
「僕は今、自分の仕事が終わったところなんだけど……麗ちゃんは?」
「あ、私もちょうど、終わったところ」
麗の返答を耳にした風原は、しめた、と思った。
「なら、今から飲みにいかないかい?」
「あー、いいわね。うん、丁度良いわ」
「丁度、良い?」
何が、丁度良いのだろう? 頭上に疑問符が浮かんだ風原に、麗は言う。
「実は、東条くんと飲みに行くつもりだったのよ。せっかくだし、風原先生も一緒にどう?」
顔には笑みを浮かべ、口先では「是非とも」と応じた風原だったが、彼は密かに舌を鳴らしていた。
よりにもよって、麗にタカるハエ以外の何者でもない東条一機と酒を酌み交わさなければならないとは……。それを考えると、腸が煮えくりかえりそうになったが、かといって、麗の誘いを断われば、麗は東条と二人っきりで飲みに行くのだろう。そちらの方が許し難いと考えた風原は、邪魔な虫が傍らにいるのだとしても、三人で飲みに行った方がいくらか得策か、と判断した。
やむをえまい。麗と二人っきりで飲みに行くのはまたの機会にするとして、今日は……
今日は、麗にタカるハエに、殺虫剤をぶちまけてやろう、と半ば本気で考えた風原は片頬に笑みを浮かべていた。
けんもほろろな目つきでこちらを睨め付けてくる男と、酒をあおればあおるほどにタチの悪くなる酒豪を向こうに回した上で、スパイの専門家でもなんでもない人間が諜報合戦を繰り広げなければならない、というのは辛い話である。こりゃ、本当に酒でも飲まねばやってられんな、と考えた一機は、もはや自主的にビールのジョッキを空にしてしまっていた。
一機が生中のジョッキを二杯ほど体内に流し込んだあたりで、麗は「おおー」と歓喜の声を上げる。
「東条くん、意外と酒に強いんだね? ピッチ速いよ〜」
既に生ビールの大ジョッキを二杯飲み、焼酎に手を付けてなお、顔色一つ変えないあんたがそれを言うか。そう思った一機は、麗の顔をじろ、と見た。
酔えば人の思考回路は鈍くなる。酒を入れれば、少しは口が軽くなるだろう、とアタリをつけていたのだが、当初の思惑は早々にハズれてしまったことを一機は既に悟っていた。
そして風原の方に目を向ければ、黙りこくったまま、ウーロン杯をちびちびと飲んでいる。時折、こちらに刺すような視線を送りつけてきたかと思えば、すぐに目を逸らしてしまう風原が、この時の一機には不気味に思えてならなかった。
「おっちゃーん、つくね追加で!」
麗はテーブル席から、カウンターの向こうにいた店主に向けて声を飛ばす。店主がカウンターの向こうから「あいよ!」と声を返してきたあたりで、一機は肩の力を抜いた。
今日はもう、何も聞き出せまい。
というより、ひょっとすると……
麗のコレクションなど、所詮は噂に過ぎず、レッドフェザーが横からかすめ取ることのできるものなど、最初から無かったのかもしれない。
九ヶ月近くの月日を、ドブに捨ててしまったかもな、と考えた一機は急に気が重くなった。鼻息を一つ鳴らした一機は、麗を真似て「おっちゃん、こっちにも生中追加!」と叫んでいた。
「なんにも?」
おうむ返しにしてきたのは、純粋に驚いたからだろう。赤羽の問いに対し、一機は無言で頷いた。
「織宮麗の周辺情報を……なんにも収穫できなかったの?」
再度、同じ事を訊いてきた赤羽に一機は「ああ」と答える。
「すまない、赤羽。九ヶ月も学園に潜伏していたのに、織宮麗から、何一つとして情報を聞き出すことはできなかった」
肩を落として報告する一機だったが、意外なことに、赤羽は柔らかな笑みを浮かべていた。
「確かに、何一つとして、織宮麗の収集物に関する情報は手に入らなかった。でもね、一機。それはあなたが怠けていたからじゃないことくらい、アタシだって分かってるつもり。だから、一機が気に病む必要は無いわよ」
「……そう言ってくれると助かる、と言いたいところだが」
「え?」
「俺は傭兵だ。失敗した仕事で、報酬をもらおうとは思わない」
「命張って、体張って、生き抜いているのが傭兵でしょうに? その割には、律儀というか、妙なプライドがあるのよねぇ、あなたは……。一機。自分の尻を拭いたいなら、今からアタシが話すことをよく聞いてちょうだい」
赤羽は一旦言葉を切り、机の引き出しから、紙切れを取り出した。
赤羽から手渡されたその紙に、一機は視線を落とす。
そこには『二月祭』と書かれていた。
「にがつ、さい……?」
「白百合学園の文化祭のことよ」
「……俺が記憶している限り、文化祭とは秋にやるもんじゃなかったか?」
「さぁ? クソ寒いこの二月に文化祭を開くのが、この白百合学園の校風なんじゃないの? ま、いずれにしても、アタシ達にとっては好都合なことだけれどね」
「都合が良い? どういうことだ?」
「文化祭って、当然だけど、外部の人間も自由に出入りができるでしょ? つまり、平時に比べて、学内に侵入しやすいということよ。それはつまり……アタシ達、レッドフェザーにとっても同じ事」
「おい……まさか、レッドフェザーの全部隊を動員して、白百合学園を武力で占拠するつもりか?」
「それはそれで面白い案ではあるけれど、ちょっと派手すぎるわね。もう少し、地味な活動をしようと思ってるんだけど」
「地味?」
一機が訊くと、赤羽は口元を歪め、言った。
「織宮麗を拉致するのよ」
織宮麗を拉致――それはつまり、レッドフェザーが白百合学園に潜入し、織宮麗を捜し出して、拘束した後、密かに学園から連れ去る、ということを意味している。
人の出入りが激しいし、文化祭となれば、部外者が学園内部にいたとしても誰も疑問には思わない。そして、人混みに紛れれば、麗を誘拐することも不可能ではないだろう。
そして誘拐した後は、あらゆる手段を使い、麗の口から、彼女の収集物に関する情報を吐かせる、という寸法だった。
なんともドラスティックなやり方だし、テロ行為と誹られても文句は言えないだろう。一歩間違えれば、治安維持活動と称して、法執行機関の対テロ部隊や、軍特殊部隊がすっ飛んできて、レッドフェザーを一網打尽にしてしまうかもしれない。
お世辞にも賢いやり方とは言えないし、リスクも大きすぎるが、やむを得ない。今までのような生温い方法では、麗の口を割ることができないのだから。
赤羽は言う。
「ガルマンと話し合って、作戦は練りに練るけれど、とりあえず、作戦の実施日は来年の二月になるわね。だから、一機? どうしても汚名を返上したいというなら、現場で傭兵としての仕事をしなさい」
「……ああ、分かった」
そう、自分は傭兵なのだ。報酬に見合う仕事してこそ、金を手にする権利を得る。
そうでなくては、ただの給料泥棒にしかならないのだから。
一方で、何の罪もない、いたいけな女性を誘拐し、無理矢理に口を割らせ、そして彼女のコレクションを押収する、という不実を正当化できない自分もいたのだが……敢えて一機はそのことを深く考えないようにした。
西地区のボロビル。そこはそう表現するしかないほどに朽ち果てており、十年前の戦禍の跡がそのままに残っていた。
風原はそのボロビルの出入り口付近に一人、ぽつねんと立っていた。
飲み屋の前で麗と東条の二人と別れた後、帰ったと見せかけて風原はこっそりと一機の後を付けていた。
東条の後を尾行した風原は、東条がセントラル・クロスから西地区の方へと歩いて行くのを見た。随分、物騒な方面に向かうのだな、と風原は考えたが、東条の尾行をやめようとは思わなかった。
ここに東条が入っていって、既に二〇分以上が経つ。
この辺り一帯は、再開発が行なわれるメドがまったく立っておらず、何もかもが壊れていると言って良い。
そして再開発が一向に開始される気配すら感じられないのは、この周辺に蔓延っているゲリラグループが原因であろうことは想像に難くない。
まさか……東条はゲリラグループと何らかの関わりがあるのではないだろうか? だとすれば、東条は相当に危険な男だと言える。
そんな危なっかしい男を麗の傍に置いておくわけにはいかない。これはますます、東条をどうにかしなければいけなくなったな、と思った風原は、さて、どうやって東条を白百合学園から追い出そうか、と考えを巡らせ始めた。
その時、
「おう、あんちゃん。こんな時間に何してんだよ、こんなとこで?」
背後から声を掛けられた。風原は振り返らずに、後ろの男に言葉を返す。
「いやー、道に迷ってしまってね。セントラル・クロスに戻りたいんだが、道はどう行けば良いのかな?」
一応、しらばっくれてみた。しかし、そんなものが通じるわけがなく、
「残念ながら、場所が悪かったな、あんちゃん。ここは、俺たち、レッドフェザーの本部なんだよ。俺たちの根城の前に突っ立っているのに、『道に迷った』なんていう話は聞けねぇな?」
風原は口の端を釣り上げた。訊いてもいないのに、この男はここがゲリラグループの総本山だと口にした。そしてこのビルに東条が入っていったということは、東条はゲリラと何らかの関わりがあることはもはや明白である。上手くすれば、このことをネタにして、東条を学園から追い出せるかもしれない。
「なに笑ってんだ、コラァ!」
ドスの利いた声が飛んできた。風原の笑みが癇に障ったらしく、背後の男は一も二もなく風原の後頭部めがけて拳を飛ばしてきた。
風原は素早く振り返り、男の拳をかいくぐる。風原は右手を広げ、その掌底を男の顔面に突き付けた。
「なっ?」
驚愕する男の顔を一瞥した風原は、掌に意識を集中させた。
その手からスタンガンのような、青白い電撃が弾け飛び、衝撃にさらされた男は尻餅をついた。
あんぐりと口を開けた男は言う。
「な……何者だ、お前は?」
得意げな笑みを浮かべた風原は答えた。
「風原透真。通りすがりの、先生だよ」
惚れた女は、どんなことをしてでも手に入れてみせるし、どんな手を使ってでも救ってみせる。ゲリラのような外道に手を染めたゲス野郎に、愛しい麗を汚されてなるものか。
年の瀬の月夜に、風原は決意を固めていた。