吹きすさぶ空っ風が、まるで電撃のように肌を打ち据える。
そんな、年が明けて数日が過ぎた冬の日のことだった。剣道場で、部活の練習を終えた桜ノ宮永久(さくらのみや とわ)は校庭を一人、歩いていた。
校門にまでやって来たとき、永久は『白百合学園』と書かれた表札の前に、女子生徒が立っていることに気がついた。その女子生徒は携帯電話の画面を眺めていたが、やがて溜息を一つ吐いて、携帯電話を鞄にしまった。
彼女が永久の方を振り返った。すると、彼女は顔に笑みを浮かべ、こちらに近づいてきた。
「あれ、永久ちゃん? なに、今から帰るの?」
彼女――羽住悠奈は快活な調子で声を掛けてきた。
「うん、今、ちょうど部活が終わったところ。羽住さんは?」
「用事があって、部活も休んだんだけど……その用事をすっぽかされちゃった。だから、あたし、今、すごくヒマなのよ。あ、そうだ! せっかくだし、商店街の喫茶店でお茶でも飲まない?」
「あ、良いね良いね! じゃ、行こっか」
永久は、悠奈の提案に乗ることにした。
口の悪さと、他人に――主に、異性から――好かれようという努力を放棄している悠奈は、一見すれば、近寄りがたい存在であるように思える。孤高の一匹狼を気取っている、というわけではないのだろうが、それでもどことなく、お近づきになるには敷居の高そうな少女、というのが悠奈に対する永久の認識だった。
しかし、こうして言葉を交わしてみて、そういう認識は誤りであったと永久は気付く。そもそも、永久と悠奈は、クラスこそ同じだったが、二人の間にこれといった接点は無かった。それにもかかわらず、悠奈は屈託のない笑みを浮かべ、数えるくらいしか会話をしたことのなかった永久を喫茶店に誘ってきたのだから、それだけでも、悠奈に対する認識を改めなくてはならないだろう。
確かに、悠奈は口が悪い。しかし、なにもないのに人のことを悪く言うような“ろくでなし”というわけでもなかった。
要は、思ったことを思ったとおりに、スパッと言ってのけることができる明朗さを持ち合わせているのが、悠奈という少女なのだろう。
湯気の立ち上るコーヒーカップにミルクを入れ、ソーサーでかき混ぜた時だった。コーヒーに視線を落としていた永久に、悠奈は「そういえば」と切り出してきた。
「もうすぐ、二月祭よね? 永久ちゃんとこはなにするの?」
「なにって……剣道部での出し物のこと?」
「うん、そう」
「うちでは喫茶店をやることになってるよ」
「へぇ? 喫茶店?」
なんか面白そうじゃない、と言って悠奈は身を乗り出した。そんな悠奈に対し、永久は苦笑しつつ「そんなことないって」と返す。
「なんの変哲もない、ふつ〜の喫茶店よ?」
「でも、剣道部なんでしょ? 胴着とか来て、防具付けて、面を被って、接客したりとかしないの?」
「……それ、自分が接客されたら、なんかすごく嫌なんだけど」
想像してみて、妙な暑苦しさと汗臭さが思い浮かび、永久は表情を曇らせた。そもそも、あんなゴツくて重いものを着るのは、剣道をする時だけで良いと永久は思う。
「じゃ、何を着て接客するのよ? まさか、制服を着て接客するわけにもいかないでしょ? 味気ないし」
「うーん……何だろう。着る物とかは、まだ決まってないからなんとも言えないけど……。でも確かに、制服だと、ちょっと違和感あるかも」
かといって、他に何か良い案があるわけでもない。どうしたものやら、と思ったが、自分一人で考えられることなど、たかが知れているし、次に剣道部のみんなと顔を合わせた時にでも話し合えば良いか、と永久は考えた。
「それで、羽住さんのとこは何するの?」
「あたし達? あたし達は……そうね……」
そう言って、悠奈は顎に手をやり考え込む。
「……正直、うちは人数も少ないし、できることなんて限られてるのよね……。でも、何かをしたいとは思うんだけど」
「羽住さんって、家庭科部だったよね? やっぱり、お菓子とか作ったりしてるの?」
「ん? うん、まあね。放課後、暇なやつ集めて、作ったお菓子を食べたりしながら、お茶を飲む……のが、主な活動かな?」
「へー? なんだか、楽しそうね。うちは剣道しか能がないから、明けても暮れても竹刀を振り回すだけだし、汗臭いし」
入る部活間違えたかな……という考えが脳裏をよぎった永久は、ぐだー、とテーブルに顎を乗せた。
別に、剣道が嫌いなわけではない。これでも、一年生の中ではエースだと呼ばれているし、部内でも五本の指に入っている、という自負もある。中学生の頃から続けてきた剣道は、既に自分の半身と化しているようなもので、永久の中では、もはや切っても切り離せない存在になっていると言っても過言ではなかった。
剣道しか知らなかった自分には、剣道以外のクラブ活動を選択するという考えも働かず、部活動見学も仮入部もすっ飛ばして、剣道部の顧問に『入部届』を叩きつけたのだから、一年近く前の自分には“迷い”というものが無かったのだろう。
では、今は? その問いに対する答えを端的に述べれば、後悔の二文字に尽きる。
放課後に、知り合いとお茶を飲みながらくっちゃべる。剣道に明け暮れていると、そういう楽しみを持つこともできなくなり、どことなく殺伐とした気分を味わっている今日この頃、というのが永久の正直な心境だった。
そんな様子の永久を眺めていた悠奈は、心配そうな顔になった。
「なに? 永遠ちゃん、剣道部の活動で嫌なことでもあった?」
「いや、別にそういうわけじゃ。でも、剣道ばっかりやってると、他のことがあまりできないから、たまには気分転換もしたいかな、って」
「気分転換ねぇ……思い切ってさ、好きな人でも誘って、映画とかカラオケとかにでも行ってみれば?」
「は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、永久は頭が真っ白になった。悠奈の言葉を租借するうちに、永久の顔は朱色に染まっていき――
「す、好きな人なんか、いないって!」
思わず、椅子から立ち上がって叫んでいた。周囲の客や店員が、何事かとこちらを振り返っていたが、永久にそれを気にすることができるほどの余裕は無かった。
「ちょ、ちょっと、永遠ちゃん、落ち着いて落ち着いて……」
「え? あ、そ、そうね……ごめん」
幾分か落ち着きを取り戻した永久は椅子に腰を下ろした。
「えらく驚いてたけど……過剰反応するようなことでもあるの?」
含みのある目で悠奈はこちらを窺ってくる。永久は慌てて、
「だから、剣道に明け暮れているんだから、男の知り合いもロクにいないんだってば!」
と取り繕った。すると、悠奈はジト目になって「怪しいわねぇ」と言った。
「ムキになって否定するところが、なんとも怪しいわね。ところで、永遠ちゃん。そういうの、ツンデレって言うらしいんだけど、知ってる?」
そう言って、ニヤリと笑う悠奈。その時、永久は何故だか、その単語を悠奈にだけは言われたくないような気がした。
悠奈の視線から逃れるべく、永久は窓の外に目を向けてみる。その時、視界の端で、携帯電話の画面を見つめ、溜息を吐いた悠奈の姿を捉えた永久は、デジャブを感じていた。
乾いた破裂音が二発、三発と続く。六木本劾の操るソーコム・ピストルから放たれた弾丸は、二十メートル先の的の中央付近に命中していた。
「……上手いな」
劾の横に立ち、劾の射撃を眺めていた東条一機はそう呟いた。劾は横目で東条の方を見やり、口の端をにやりと歪めた。
それから、視線を前へと戻し、再びトリガーを引く。やはり今度も、銃弾は中央の近くをぶち抜いていた。
しかし今回、東条は笑顔をこぼさなかった。
「今、肩に余計な力が入っただろう、六木本。それじゃ、体が硬くなって、逆に狙いが定まらなくなる。かといって、力を抜きすぎれば、銃の反動を受け流せない。力の微調整を上手くなることだ」
「えーと、こうですか、東条師匠?」
言いつつ、劾は引き金を絞る。東条は苦笑混じりに「師匠はよせ」と答える。
「織宮先生の腰巾着でしかない俺を師匠と呼んだところで、得られるものなど何も無いぞ?」
「いやいや、あなたは俺の師匠ですよ。銃を構えた時、撃つ時のクセを見抜き、的確な助言をしてくれる。織宮先生は織宮先生で、俺は尊敬していますけどね……それでも、東条師匠ほどじゃあ、ありませんよ」
「そうか? ま、そう言われて、悪い気はしないが」
これが、男の会話、というやつなのだろうか。いまひとつ、二人の会話の波に乗り切れていない神坂潤は、劾と東条の背中を眺めつつ、ぼんやりと椅子に座っていた。
白百合学園に存在する科目に射撃科というものがある。自己防衛のための拳銃の使用法に関する講義と実習のことを射撃科と呼ぶのだそうだが、選択制ということもあり、拳銃というものによほどの興味がある人間でもなければ、進んで選択しようとは思えない科目であるらしく、受講者数が極端に少ないのが、この射撃科という授業だった。
しかし、特異なケースが存在しないわけではない。率先して射撃科の授業に出席し、時間外にも実習をしている珍しい男が、この六木本劾という男である。
拳銃の扱いに関して筋が良いのか、東条も劾に対しては積極的な指導をしている。口数も決して多いとは言えない東条が、珍しく饒舌になっているのだから、劾の射撃の腕前は相当な物なのだろう。潤は素直にそう思う。
別に、劾が時間外に射撃科教員補佐の東条と共に、射撃訓練に励んでいることに対して、潤は何かを言うつもりはない。潤が気にしているのは、何故、自分がここにいるのか、もっと言うなら、何故、自分はここに連れてこられたのか、ということである。
そもそも、家庭科部の予算に関して、生徒会室に話を聞きに行ったことが始まりだった。
本来なら、家庭科部の部長である悠里が話を聞きに行くべきところだったが、今日のクッキーの生地は、悠里の自信作――本人曰く、最高傑作――だそうで、片時もオーブンから離れたくなかったらしい。普段、自分の我を通すということをしない悠里にしては珍しく、オーブンの前から何があろうとも離れようとしなかった。
クラブの代表者がそんな状態だったし、たまたま手の空いていた潤が生徒会室へとお使いに行ったのだった。
すると、よほど気に入らないことでもあったのか、生徒会室を潤が訪ねた時、生徒会長の桐原綾華は随分と機嫌が悪かった。それでもこちらの聞きたかったことを教えてくれたのだから、まあ良し、と言えばそうなのだが、何の関係もない潤に対して怒りをぶつけられても困る、というのが潤の気持ちだった。
潤は額に手をやり、溜息を吐いた。
「どうした、神坂? 会長にボロクソに言われたことが、そんなにコタえたか?」
こちらを見ようとせず、劾はそう言った。
「……劾さん。ぼく、別に何もしてないですよね?」
「お前に思い当たるフシが無いなら、そうだろう」
劾はピストルの安全装置を操作し、暴発の危険性を低くしてからホルスターに拳銃をしまう。それから、こちらを振り返った。
「お前をここに連れてきたのは、ま、せめてもの罪滅ぼしってやつだ」
「?」
罪滅ぼし、という言葉が、何を意図しているのか理解できなかった潤は首を傾げた。
「いや、罪滅ぼしは少し、語弊がある、か……。しかし、まあ今日は確かに、会長の機嫌が悪かった。でも、それはお前のせいじゃないし、言ってみれば、ありゃ会長の“病気”みたいなもんだ」
「病気? 会長さん、どこか具合でも悪いんですか?」
「うむ……どこか、と言われれば、頭というか、心というか。だが、いずれにしても、お前が気にする必要はないさ」
言いつつ、劾は傍の棚をがさごそと漁る。
「だから、そんな憂鬱そうな顔をするな。元気を出せ」
その棚から一丁の拳銃を取り出すと、劾は別の場所に置いてあった弾倉を拳銃のグリップに差し込み、スライドを引いた。
薬室に銃弾が装填されたピストルを、劾は潤に差し出した。
「撃ってみろ。的をぶち抜くと、気分がスカッとするぞ?」
「え? でも、ぼく、拳銃なんて撃ったことないですよ?」
「誰にだって初めてはある。それに、専門家もいるから、大丈夫だ」
そう言って、劾は東条を一瞥する。それから劾は無精髭の浮いた、いかつい顔をにやりと歪めた。無精髭と言えば、不潔感が漂うイメージがあるが、この男からは不思議と不潔さは感じられなかった。
拳銃を受け取った潤は、その銃が重くもなく、軽くもなく、不思議と自分の手に馴染んでくる感触を覚えた。まるで、この銃は潤に合わせて作られたかのような、そんな感覚。
「じゃ、東条師匠。神坂のこと、頼みます」
「ああ、分かった。それじゃ、神坂、こっちに来い」
「あれ? 劾さん、どっか行くんですか?」
潤は劾に訊いた。
「まぁ、な。そろそろ、会長の“病気”が発作を起こす頃合いだから、止めないといけなくてな」
意味ありげなセリフを残し、劾はその場から去っていった。
家庭科室で、悠里は活動後の片付けをしていた。今日、悠里が作ったクッキーの生地は、自分の中では最高傑作であると胸を張れるほどに自信のあるものであったため、焼き上がったクッキーは、さぞかし、美味しいだろうな、と悠里は思った。
しかし……出来上がったクッキーは、質も申し分なければ、量も申し分ない。それなのに、今日に限って、食べてくれる人間がいないとは……。悠里は肩を落とし、溜息を吐いた。
なにやら、用事があるとかで、悠奈は部活を休み、先に帰ってしまった。世田谷は補習――先日の小テストの成績が芳しくなかったからだろう――で、部活には来ることができなかった。潤と御浜は、さっきまでいたのだが、潤は生徒会室に用事を済ませに行ったきり帰ってこなかったし、御浜は御浜で、バイトがあるからということで、クッキーの完成を待たずに帰ってしまっていた。
「せっかく、作ったのに……」
焼き上がったクッキーを一つ摘み、口へ運ぶ。サクッという音が口の中で響き、ほのかなバターの甘みが口内に広がる。悠里は思わず目を細めた。
やっぱり、おいしい。
これを誰かに食べて欲しいし、是非とも感想を聞いてみたい。しかし、誰もいないのでは、それすらもままならない。
「仕方ない、か」
悠里は呟いた。
ま、タッパーにでも入れて、持って帰って、悠奈にでもあげれば良いか、と思った矢先だった。懐の携帯電話が着信音を響かせた。
マナーモードにするのを忘れていたらしく、悠里は慌てて携帯の通話ボタンを押して、メロディを停止させた。
「も、もしもし?」
『あ、お姉ちゃん? 今、どこ?』
電話の主は悠奈だった。悠里は「まだ、家庭科室だけど?」と吹き込んだ。
『あ、ちょうど良かった! 実は、あたしの知り合いの子なんだけど、お姉ちゃんのクッキーの話をしたら、是非とも食べたいって言うから、今から、そっちに戻ろうと思ってるの』
「え、今から?」
言って、悠里は壁に掛かってる時計を見た。もうすぐ下校時刻に差し掛かろうとしているのに、悠奈は知り合いを連れて、ここに戻ってくると言うのだろうか?
悠里の心を読んだのか、悠奈は電話の向こう側で『大丈夫よ、時期が時期じゃない』と言った。
『来月には、二月祭でしょ? その準備もあるから、この時期、下校時刻はあって無いようなものよ』
「それもそうね……。じゃ、待ってるわ」
『うん、すぐ行くから。それじゃ!』
電話を切り、悠里は携帯を懐にしまう。ここに戻ってきて、クッキーを食べる、というのだから、お茶の用意も必要だろう。そう判断した悠里は、お湯を沸かすためにヤカンに水を汲もうとした。
その時、家庭科室の扉が開いた。悠奈にしては、いささか、来るのが早すぎると思い、そちらに顔を向ける。すると、帰ったはずの御浜が立っていた。
悠里は話しかけた。
「あれ? 御浜さん、帰ったんじゃなかったの?」
「いやー、それがさぁ。バイト先の店長が、急用で、今日は店閉めるって、電話連絡があってさ」
後頭部をポリポリと掻きつつ、御浜は部屋に入ってきた。気さくな性格なのか、御浜は先輩相手に敬語を使えないタチらしい。
まぁ、気兼ねのない会話ができるので、こちらとしては一向に構わなかったが。
「ほいで、悠里さーん? なんか、美味しそうな匂いがするんだけど?」
「ああ、さっきのクッキーができたのよ。良かったら、食べる?」
「うわっ、ロンモチ、食べる食べる!」
顔を輝かせて、御浜はこちらへと近寄ってきた。
その御浜の背後から「羽住はいるか?」という野太い声が響いた。悠里と御浜がそちらに視線を向けると、筋骨逞しい男がいた。
あれは確か……生徒会の副会長で、綾華の右腕と呼ばれている六木本劾だったはず。彼が何の用事だろう、と訝しみつつ、悠里は劾の元へと向かった。
「羽住は私だけど、えーと……六木本くん? 私に何か?」
「会長を見なかったか?」
「え? 綾華を? さあ、授業中は教室にちゃんといたけど、放課後までは知らないわ」
「ふむ? 会長の親友である君のところにいないとは……」
無精髭の浮いた顎に手をやり、劾は考え込んだ。
「あの、綾華が、どうかしたの?」
「ん? いや、見かけていないなら、良い」
劾は悠里に笑い返した後、「それじゃ」と言ってその場から去っていった。
桐原綾華は今朝から機嫌が悪かった。
昨夜までは、まだ機嫌が良かった。しかし、夢見が恐ろしく悪く、彼女が翌朝に目覚める頃には、既に気分を害していた。
思い出すだけでも、気分の悪くなる夢だった。そして、タチの悪いことに、その夢を自分は鮮明に思い出してしまえるのだから、気持ちの悪いことこの上ない。
妙に逞しい男が二人、「炒飯! 炒飯!」と叫び合いながら互いのパンツを奪い合っている夢であり、まったくもって理解に苦しむ、意味不明な情景だった。まぁ、所詮、夢は夢に過ぎず、その夢に意味や意図を求めること自体、おかしな話ではあったが、かといって、こちらの気分がマシになってくれるわけでもない、というのが綾華の心境だった。
あの筋骨隆々の男達は……そう、たとえるなら、まるで、六木本劾のような……。
思い返した綾華は、吐き気を催した。
正直なところ、綾華は“男”という生き物があまり得意ではない。汗臭くて、不潔で、がさつで、硬くて四角四面な体つきをしていて、恥じらいという物を持たず、それでいて妙な趣味と性癖を併せ持った変人にして変態の集団。
それが、綾華の“男”という生物に対する認識であった。
同じ汗でも、女は違う。女の汗は、ほのかな甘さと爽やかさがある。それに女は男と違って、眺めていても不潔な感じがしない。適度な落ち着きと淑やかさを、その柔らかくて丸みのある身体に備えているのが女でもある。それでいて、女の趣味というものは妙なところがなく、多少奇抜でも、納得できる範疇に収まってくれるのも、男とは違う美点だろう、と綾華は思っていた。
そんな綾華にとって、今朝方に見た夢は、まさに地獄絵図だったと言って良い。もやもやした気分のまま学校で勉学に励み、放課後は生徒会の仕事をこなしてきた。途中、用事で生徒会室にやって来た神坂に、冷たい態度を取ってしまったのは、綾華の不機嫌によるものである。神坂には悪いことをしたな、という理性も働く反面、むしゃくしゃとした気分が晴れないのも事実だった。
なんとかして、この鬱憤を晴らしたい。そう思った矢先、綾華の頭に、羽住悠里の顔が思い浮かんだ。
綾華は口元を不適に歪め、羽住悠里に対する、少々、度の過ぎたイタズラの一つや二つを考え始めたのだった。
妄想に耽る綾華の顔は、常時とは比較にならないほどに、緩みきっており、浅い呼吸を何度も繰り返し始め――
天使のごとき笑みの浮かんだ顔を、たまには苦痛や、あるいは、快楽に染め上げるのも、それはそれで悪くないな、と考えた風原透真は自分の右手をじっと見た。
自分の右手は少々、特殊な作りになっており、意識を集中すると、右の掌から、あたかもスタンガンのように電撃を弾けさせることができる。この右手を、ほんのちょっぴり、織宮麗の体に接触させてみる、というのも――
夢想する風原の顔は、平時とは比べられないほどに、弛緩しており、荒い呼吸を何回も繰り返して――
二匹の変態は、曲がり角で鉢合わせをする格好になった。
「へぇ? お姉ちゃん、こんなレベルの高い、クッキー作ってたんだ?」
クッキーを口に放り込んだ悠奈がそう言った。家庭科室のテーブルをぐるりと囲むようにして、悠奈、悠里、永久、御浜の四人は椅子に座っている。
「こりゃ、美味い! さすがは、悠里さんだ。よっ、我らが料理人!」
「ホント、こんなに美味しいクッキー、食べたの初めてかも」
悠奈に続き、御浜と永久も口を揃える。三者の賛辞をその身に引き受けた悠里は、「そんなことないよ」と謙遜しつつも、実に嬉しそうな顔をしていた。
「おやまー、みんな、揃ってるわねぇ? せっかくのお茶会に、先生も混ぜて欲しかったな」
一同が声のした方を振り返ると、射撃科教諭と家庭科部顧問を兼務している織宮麗が立っていた。
悠奈は麗に話を振る。
「あれ? せんせー、どうかしたの?」
「ん、ちょっと用事があってね。それを片付けた後、すること無いから、たまには家庭科部の方にも顔を出そうかな、と」
悠奈に言葉を返しつつ、麗はこちらへとやって来て、空いていた椅子に座る。大皿に盛られていたクッキーを摘み、口へと運ぶその姿は、高校生に混じった小学生という表現が実に良く似合うと、麗を除いて、その場の誰もが思っていた。
思っているだけで、口にはしなかったが。
「あー、悠里。お茶入れてくれない?」
小学生と形容するには、若干ながら人使いの荒い一面も麗にはあったが、悠里は嫌な顔一つすることなく、「あ、はーい」と言って、席を立つ。
「あ、そうそう。そういえば、もうすぐ二月祭だけど、家庭科部では何かするんだったっけ?」
誰に対して、というわけではなく、麗はそう言った。彼女の問いかけに対し、悠奈は答えを述べる。
「うーん……なにかしたいんだけど、うちは人数が少ないし、本格的なことをしようにも、人手が足りないから、何もできそうにない、ってところ」
「へぇ? そりゃ、大変ねぇ……あ、ありがと」
礼を述べて、麗は悠里から紅茶の入ったカップを受け取った。それを一口、含んでから永久に水を向ける。
「ところで、永久は剣道部だったっけ? 剣道部では何するのよ?」
「うちのところは、喫茶店をするつもりですけど」
それを耳にした麗の目がすっと細くなる。頬杖を突き、空いている方の手の指で、テーブルを二、三度、こんこん、と叩き、少しの間、思案を巡らせる。その後、麗は口を開いた。
「悠奈。このクッキー、おいしいと思う?」
「へ? 勿論じゃない」
「悠里。このクッキー、もう一度作ろうと思えば、作れる?」
「え? ん〜と……うん、大丈夫なはず。たぶん、レシピはあの通りでいいはずだから……」
「おっけー。永久、喫茶店のメニューとか、もう決まってる?」
「メニューですか? いや、そこまで話は進んでませんから、まだなんとも……」
「了解。でもって、結衣。あんた、バイトしてたわよね? それってどんな業種?」
「んー、接客業、っていうのかな? 近所の喫茶店のウェイトレスやってるんだけど」
矢継ぎ早に、四人の少女達に質問を飛ばす麗。その後、麗は満足そうな笑みを浮かべた。
「じゃ、決まりじゃない」
「決まったって、何が?」
悠奈が尋ねると、麗は答える。
「二月祭は、家庭科部と剣道部が、合同で出店すれば良いじゃないの。裏方は家庭科部が担当して、接客は、人数の多い剣道部の担当ってことで。そいでもって、バイトで接客業をしている結衣は、裏方と接客をフレキシブルにこなす、っていう感じにすれば」
「実に素晴らしい考えですね、麗先生。ウェイトレスのコスチュームは、私の知り合いに用意させましょう。そして、それを悠里に着せれば……うん、実に良いわ! ね、風原先生?」
「その通りだとも、桐原さん。その知り合いは、スク水メイドの衣装とかは取り扱ってないのかい? 麗ちゃんが着れば……うん、実に良い!」
テーブルを囲む五人の背後に、いつの間にか現れたらしく、桐原綾華と風原透真のダブル変態がそこにいた。
五人は二人の変態の方に顔を向け、しばらくの間、ぽかんと口を開けたまま固まっていたが、最初に氷河期を乗り越えたのは悠奈だった。
「な……なに、ワケのわかんないこと言ってんのよ!」
「ワケが分からない? こっちは割と真面目に発言したつもりなんだが」
言った通りに、真剣な表情で言葉を返す風原。
「まっ……真面目って……」
「そうとも! 麗ちゃんは、この幼さの残る顔立ちが何よりのチャームポイントだろう? 昔から言うじゃないか、幼女にはスクール水着が似合うと!」
言葉に詰まる悠奈を尻目に、意気揚々とした口調で風原は持論を展開した。
その一方で、子供扱いされることを何よりも嫌う織宮麗は、風原の『幼さの残る顔立ち』という言葉に、大層、カチンと来たらしく、
「誰が……」
ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がり、
「幼いですってぇ!」
振り返りざま、風原の顎にアッパーを叩き込んでいた。
火事場の馬鹿力、という言葉がある。人間、感情が荒ぶると、普段以上の力を発揮する、ということである。この時の麗はまさにそれであり、顎に直撃を食らった風原の体は、地面から数センチも持ち上がっていた。
そのまま、背中から床に倒れた風原は、気を失っていた。今の一撃が、脳髄に響いたらしい。
「まったく……。これでも私は、大人だっていうのに……!」
怒りに任せて、アッパーを繰り出し、相手を気絶させる行動のどこに、大人的な要素があったのか。麗を除いたその場の面々は甚だしく疑問に思ったが、深くは考えないことにした。
綾華は言った。
「ま、風原先生の趣味もどうかと、私も思う。しかし、私は悠里の愛らしい肢体をメイド服で包んだ姿というのも見てみた――」
「では、俺はこう言いましょうか。あなたの趣味もどうかと俺は思う、と」
瞬間、綾華の動きがピタリと止まる。これまた、いつからそこに立っていたのか、綾華の背後に、六木本劾がいた。最近、気配を感じさせることなく出現することが流行っているのだろうか、と一同は半ば本気で考えた。
劾は綾華の肩をガシリと掴み、綾華に告げる。
「行きますよ、会長」
「い、行くってどこへだ? 私は、これから、家庭科室で悠里たちと一緒に、茶を飲むつもりだったのに」
「そりゃ、生徒会の仕事は、片付いてますからね。別に、それを俺は止めるつもりはありませんよ」
「なら、肩から手を放せ」
綾華は劾を一瞥し、そう言った。しかし、そんな綾華の言葉に聞く耳を持たない劾は「ですがね」と言葉を続ける。
「神坂には謝ってくれませんか? 神坂、機嫌の悪いあなたの言動を、随分と怖がってましたからね」
「なに? 神坂? そんなの、私が知るわけが――」
「つべこべ言ってないで、ほら、行きますよ」
綾華にみなまで言わせず、劾は綾華を引きずるようにして家庭科室から連れ去っていった。
その場に残された面々は、まるで台風のような一連のできごとに、ただただ、唖然とするより他はなかった。
「あー、その……さっきは悪かったわね、神坂」
射撃訓練場で、東条の指導の下、弾倉が空っぽになるまで拳銃を撃っていた潤のところへ、綾華と劾の二人がやって来た。
そして、顔を合わせるなり、綾華は潤に頭を下げたのだった。
潤に謝る綾華からは、先刻までの刺々しさが消えていた。本当に申し訳なさそうな表情と声になっている綾華の姿に、かえって、潤の方が謝らなくてはならないような気分にさせられた。
「あ、いや、もう良いですよ。気にしてませんから」
「む? そうか、それなら良い」
先程とは打って変わって、不意に綾華は陳謝ムードを取っ払った。肩すかしを食らった格好になった潤は思わず「立ち直るの、はやっ!」と口走っていた。
「じゃ、私は忙しいから、これで失礼するぞ」
そう言い、綾華はすたすたと射撃場から出て行った。その後ろ姿を見ていた劾は、溜息を一つ吐いてから、潤に言う。
「すまんな、神坂。どうやら、あの人には本当に悪気というものが無いらしい」
「まあ……悪気があった上で、キツいことを言われてたら、こっちはもっと傷ついてたんでしょうけどね。それにしても、劾さん。どうして、会長さんのことを『病気』だとか言ったんですか?」
「ああ、それか? 桐原会長は、大層な男嫌いでな。その反動で、女を妙に好む一面がある。ま、あの人はあの人なりに、それを表になるべく出さないように努力はしているらしいが……俺から言わせれば、バレバレ、といったところだな」
「バレバレ? というと、劾さんは、会長さんの男嫌いと……まあ、言ってみれば、女好き、な一面を、最初から知ってたんですか?」
「ああ。初めて会った時から、分かってたぞ。というより、あの会長のことなら、俺は表情を見るだけで、何を考えているのか、大抵は分かる自信がある」
「以心伝心、ってやつですか?」
「どうかな? あの人が単純なだけだと、俺は思うがね」
劾はそう言うが、綾華が単純な人間である、とは潤にはどうしても思えなかった。一筋縄でいきそうにない、というのが潤の会長に対するイメージである。
綾華のことを単純な人間、と呼ぶからには、それだけ、劾が綾華のことを知り尽くしている、ということなのだろう。綾華が男嫌いということを知っててなお、劾は綾華の下で働き、また、綾華をコントロールする術を心得てすらいる。
また、学園始まって以来の秀才と呼ばれる桐原綾華に続くほど、勉学にも秀でているうえに、学内では無双と言われる運動神経の持ち主であるのが六木本劾という男だった。
拳銃を握らせれば、狙った的を百発百中だし、それこそ、日本刀でも持たせれば、一太刀で全てを真っ二つにできるのではないか、と思わされるほど、劾という男からは“強さ”という名の才能に溢れているように、潤には思えた。
正直、潤はそんな劾のことが羨ましかった。筋骨逞しい肉体が羨ましかったし、誰からも頼りにされる存在感の大きさが羨ましかったし“強さ”というものを分かりやすく体現してしまえる立ち居振る舞いが羨ましかった。
なれるのら、自分はこんな男みたいになりたいと、潤は考えた。
だから潤はこう言ったのだ。
「劾さん。質問があるんで、率直に答えてくれますか?」
「なんだ、神坂? 改まって」
「強さってなんですか?」
「……強さ、か。さぁな。俺にだって、分からんな、そりゃ」
「劾さんでも、分からないんですか?」
「強さと一口に言っても、いろいろある。というか、ありすぎて、一概には『こうだ』とは言えやしない。だが……これだけは言える。強いやつってのは、言葉にはできないが、見ていて分かるもんだ、なんというか、雰囲気で」
たとえば、と前置きしてから、劾は潤を指差した。
「お前みたいにな」
何を言われたのか、その瞬間には理解が及ばず、呆然としていた潤だったが、劾の言葉が脳に染み込んでいくにつれて、潤の顔は引きつっていった。
「ぼっ、ぼくが、ですかっ?」
「ああ。お前は充分、強いよ」
「そんな、ぼくなんて……。悠奈に怒鳴られてばっかだし、泣き虫だし、女の子みたいって言われるし、誰かにすぐ怒られるし、失敗ばかりだし……」
つらつらと言い並べるうち、自分で自分の首を真綿で絞めているような気分になった潤は一人で勝手に悶絶する。
そんな潤に対し、劾は言う。
「でも、お前は、鬼が相手でも立ち向かえる。何故だか、わかるか、神坂?」
「わかりませんよ、そんなの!」
叫ぶように言った潤に対し、劾は穏やかな笑みを浮かべ、答える。
「お前は優しい。優しいが、それだけじゃない。その優しい心に正直なところが、お前の強さだ」
「優しい心に……正直?」
劾の言葉を、口中で転がしてみる。しかし、その意味も意図も、イマイチ、ぴんとは来なかった。
しかし、冗談でもなければ、人をからかった言葉でもなさそうである。意味は分からないが、分からないなら、分からないなりに、胸にとどめておけばいいか、と潤は思った。