桜のつぼみが膨らみ、あと数日もすれば満開になるんだろうな、ってなことを考えながら俺は自分の部屋で、ベッドに寝そべりながら窓の外を眺めていた。
春休みに入ってからというもの、俺はてっきり毎日をハルヒに呼び出されて過ごすものだと思ってばかりいたのだが、実際のところ、俺の携帯は呼び出し音一つ鳴らさなかった。あのハルヒにしては随分とおとなしいもんだ、と少しばかり訝しみつつも、俺はテレビで春のセンバツ甲子園を見るともなしに見たり、ベッドの上で惰眠を貪ったりしていた。
ハルヒが何かをしない限り、こっちは何もしなくていいのだから、それはもう暇なものである。俺は、ハルヒを中心に生きていると言っても過言ではなく、ひょっとしてハルヒがいなければ何もできないのでは、という一種の典型的なダメ人間になりつつある自分を空恐ろしく思ったりもしていた頃になって、俺の携帯は忘れていたとしか思えないほどに久しぶりの仕事をしたのであった。
携帯に入った一通のメールの差出人を確認すると、「古泉」と書かれていた。内容を確認すると……
「あぁん?」
そんな声が思わず漏れた。駅前の喫茶店に来てほしい、などと書いてある。一体、何が悲しくて男二人で喫茶店のテーブルに向かい合って座り、茶を飲まにゃならんのだ、と思いつつも、俺は重い腰を上げた。
メールの結びの句が次のようになっていれば、ぼーっとしているわけにもいかなかったからな。
「涼宮さんがらみで、お話があります」
やれやれ……ハルヒ本人からの呼び出しが無ければ、ハルヒ以外の人間からハルヒに関する呼び出しがある。お前は一体どれだけ周りの人間を――もっと言うなら俺を――引っ張り回せば気が済むのかね……
ま、それが今に始まったことではないのもまた事実。何であろうと、とっとと片づけて残りの春休みを満喫するとしますかね。
尤も、ハルヒがやらかしちまったできごとが、春休みというものすごく短い期間で解決するはずがなく、なんやかやでひと段落ついたのは、桜なぞとうの昔に散ってしまって、蒸し暑い頃合いになっちまってたことは、後になって分かることだったのだが。
「やあ、待ってましたよ」
俺が古泉のいるテーブルにやってくると、古泉がそう言った。
窓の外を眺めながら、ティーカップを優雅に持つ古泉の姿は……何とも腹立たしいくらいに様になってやがる。朝比奈さんか、長門のどっちでもいいから、どちらか一人、この場にいて欲しいね。あの二人ならば、俺の目を楽しませてくれるだろうが、こんなやつの横顔を拝みながら飲む紅茶ってのは、いつもの三分の一くらいの美味さにしか感じないのは悲しいもんである。料金、三分の一にしてくれないかね、などと言ってやりたくなったのも今は昔、である。一体全体、なんだろうね、こいつは?
「なんでしたら、奢りますよ? いつもごちそうになっていますし、今回、ここに呼び出したのはこちらですし」
そうしてもらいたいが、その前に訊きたいことがある。
「今度は、何が起こったんだ?」
「何が、と申されますと?」
「……髪、伸ばしたのか?」
「伸びてしまいましたね」
「お前の顔、少し丸みを帯びたよな?」
「かもしれませんね」
「胸にあるそれは大胸筋か?」
「いえ、脂肪です。触って確認しました」
「肩、こるか?」
「こりますね、意外と」
「水、頭から浴びたのか?」
「お湯を浴びてみましたが、元には戻りませんでした」
とまぁ、質疑応答を繰り返す俺と古泉だった。
喫茶店で待っていたのは古泉だったんだが……古泉であって古泉ではない。どことなく、雰囲気的に古泉だと分かったからまだ良かったが、そうじゃなかったら俺はおそらくテーブルに座っていたこいつを発見することができなかっただろう。
俺が溜息混じりに頭を抱えると、向かいに座っている古泉は微笑みながら言った。
「はじめまして、とでも言っておきましょうか?」
「好きにしろ」
「では……。はじめまして、古泉一姫です。あ、一姫の『き』は『ひめ』の『姫』ですよ」
訊いてねぇよ、んなもん。というか、その名前はお前が考えたのか?
「北高の学生証にそう書いてありました。いやぁ、自分の姿だけではなく、学生証も制服も、何もかも変わってしまうとは……」
まったくもって驚きです、と言って肩をすくめてみせたそいつは誰がどう見ても女だった。そして俺の美的感覚がズレていない限り、この女、えらく美人である。
そういえば、昔、なんかの本で読んだことがあったな。美人に性別の違いはない、と。男でもこいつはかなりのイケメンだったわけで、それが女になったんだから美人だったとしてもおかしくはない……って俺は一体、冷静に何を考えているんだろうね。
「こういう非常事態では冷静になることが大切です。あなたの判断は正しいと思いますよ、私は」
……一人称が変わってやがる。ついでに言えば、声変わりを忘れたかのように、声も高い。
「なぁ、訊いていいか?」
「まぁ、ある程度、質問の内容は予想できますが、どうぞ」
「なんでまた、お前は女になっちまったんだ?」
「涼宮さんが原因です、としか言いようがありませんね、今は」
「今は?」
「調査中なんです。まだ、いろいろと」
そう言って、古泉はティーカップを口につけた。
「詳しいことが分かり次第、あなたに連絡していくつもりですが、ひとまず、私がこんな姿になってしまった、ということはあなたに報告しておこうと思いましてね」
「それなら何も呼び出さなくても良かったんじゃないか?」
「百聞は一見に如かず、ということわざ、知ってますよね? 私が口で説明するより、私の姿を見てもらった方が、話が早いと思ったのです」
話が早い、かどうかはともかく……要はハルヒが原因で、お前は女になっちまったと。
「それで、現時点で分かっていることはそれくらいなんだな?」
「はい」
「……他に、何か変化が起こっているとかはないのか?」
「先ほども申しました通り、まだ調査中だとしか。事前に兆候でもあれば良かったんでしょうけど、今回はそれすらも無くて」
「……ところで、長門や朝比奈さんはどうしたんだ?」
俺が訊くと、古泉は顔を曇らせた。
「それが……お二方とも接触できないんです。ついでに言えば、涼宮さんとも」
俺は眉をひそめた。接触できないってのはどういうことだ、って訊こうとして、俺は「ひょっとして……」と考え直した。
「まさか、接触できない理由も、調査中って言うんじゃないだろうな?」
「そのまさか、ですよ。私は今、完全に孤立してしまっているんです。少なくとも、あなたという協力者がいるという点を除けばね」
そう言うと、古泉は溜息を吐いた。どことなく気だるげな彼女の様子に、疲れてるのだろうな、と俺は思った。無理もない。自分の知らないうちに自分の性別を変えられた挙句、状況を打開するために協力できるはずの人間とも接触できず、また、そもそも何故こんなことになったのか、その原因すらよく分からないとなれば……疲れない方がおかしい。多分、俺だったら気を失ってるかもしれない。それでも古泉は少しでも前に進もうとしているのだから、改めて思う。こいつは大したやつだと。
いくら呼び出したのが向こうとは言え、そんな奴に喫茶店の勘定を払わせるのも殺生な話である。俺は伝票を手に取ると、立ち上がった。
「あ、お勘定は私が……」
古泉が言いかけたが、俺は制した。
「俺に払わせろ。どんな形であれ、今のお前は女だ。女に奢ってもらうというのも気が引ける」
ハルヒくらいふてぶてしい女だったら、是非とも奢ってもらいたくもあるが、疲れきっているあまり、薄幸の美少女に見えなくもない古泉に奢ってもらうわけにもいかんだろう。なんというか、心情的に。
俺の言葉を聞いた古泉は狐につままれたような顔をした。しばらくしてから古泉は笑顔を見せた。
「なら、ごちそうになります」
女になった古泉の笑顔は……不覚にも、可愛かった。思わず、ちょっと心臓がはねた俺は「気にすんな、古泉」と言ってごまかした。
「キョン君」
「なんだ?」
「私のことはどうか、『一姫』と呼んでください」
「古泉、じゃダメなのか?」
「ダメってことはないんですけど……。なんだか、よそよそしい感じがして、ちょっと嫌ですね……」
いけませんか、と言って彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。こいつは本当に元男なんだろうな……? 疑いたくなるほど可愛いじゃねぇか。
俺はどうやらこういった美人にとことん弱いらしい。こいつが元男であろうとなかろうと、今のこいつは誰もが認める美少女だろうと思う。そんな美少女の頼みとあらば、聞かないわけにいかないね。
俺は素直に「分かったよ、一姫」と言ってみた。すると、一姫はもう一度微笑んだ。
ああ……なんでこいつは、こんなにも朝比奈さんに負けず劣らずのエンジェルフェイスなんだろう。心が揺れちまいそうだぜ、まったく。
無論、鼻の下を伸ばしていられたのはせいぜい、今日だけだったことを付け加えておこう。翌日以降、日に日に、えげつないとしか言いようのない現実が浮き彫りにされていったのだから、今のうちに、吐ける溜息は吐いておくとしよう。
はぁ……。ハルヒよ。お前、なんでまた無自覚にナチュラルに留年してんだよ。