いつか聞いた、あの変な歌が廊下から聞こえてくる。歌い主は俺のいる教室の手前で止まり、ガラリ、と勢いよく扉を開けた。
「おっす、キョン! ちょっと良いか?」
良いも悪いも、ズカズカとこっちにやって来てるじゃねえか、お前、と言ってやりたくなったが言わないでおいた。
「何か用事か、ハルヒコ?」
俺が訊くと、ハルヒコは「まあ、用が無かったら来ないけどな」と言った。先日、爆弾発言をしたことなどころりと忘れて、俺に近づいてくる。ひょっとして、それが爆弾発言だと思っているのは俺だけであり、この男はそこまで悲観視はしていないのだろうか? だとすれば、この男、相当、精神的にタフな人間である。
「実はな。昨日くらいから、ハルヒの機嫌が悪いんだよ。スマンが、キョン、なんとかしてくれねぇかな?」
「どうして俺が?」
「いや、俺、忙しいし」
「キョン子に頼めば良いんじゃないか?」
「古泉達がキョン子に自己紹介するっつってたぞ」
「長門や、朝比奈さんは……?」
「アテにできると思うか?」
……思えんな、確かに……。
やれやれ、しゃーない。考えてみれば、俺はハルヒコとは話をしたが、当のハルヒとは話らしい話をしていない。ここらで、ハルヒと話をしておくべき頃合いなのかもしれん。
俺はそう思うことにして、ハルヒコに「わかったよ、放課後、ハルヒのところに行ってみる」と言った。
「お、さすがは俺の見込んだ男! じゃ、頼んだぜ!」
顔を輝かせて、ハルヒコは歌声と共に、教室を出ていった。
うーん……妹の心配をしているということは、ハルヒコはやっぱり、シスコンなのだろうか? だとすりゃ、こいつはよっぽど面倒見の良いシスコンだな。その割には俺に厄介事の一部を押しつけているような気がしなくもないが。
一年五組の教室に顔を出し、俺がハルヒに、最近、調子はどうだ、とか言って話しかけたところ、少し話を進める内に、とんでもない言葉が返ってきた。
ハルヒはこの日の放課後、たった一人で不思議探索パトロールをするつもりでいたらしい。そういえば、去年、ハルヒが部活をサボって、部室に来なかった日が一度くらいあったっけな、などと俺が思い出していると、ああ、この時の俺は何を考えていたのだろうね。気がつけば「付き合ってやるよ」などと言ってしまっていた。
「え? 良いの?」
「別に構わん。というか、一人ではさすがに無茶だろう?」
俺の申し出を、ハルヒは素直に受け入れた。どうやら、使えるものは何であろうと使うつもりらしい。この辺は、ハルヒらしいといえばらしいな。
ま、ハルヒの機嫌を取りがてら、駅前周辺を適当にほっつき歩けば、多分こいつの気もある程度は治まるだろう。
俺はそう考えて、ハルヒと一緒に下校することにしたのであった。
駅前にやってきた俺とハルヒは、特にどこかをぶらりとするわけでもなく、喫茶店に入って茶を飲んでいた。曲りなりにもハルヒは美少女なわけだし、女子と放課後に喫茶店で茶を飲みつつ談笑する、というシチュエーションに憧れが無いかと言われれば、あると答えざるをえない、のではあるが……。何故、この女はこんなにも目をキラキラと輝かせながら、恐ろしい話をしてくるのだろう?
「北高の校舎に隕石とか落っこちてこないかしらね? もしくはUFOが不時着したりとか」
十六歳にもなって、大真面目な顔で話し合うべき題材ではないことだけは確かである。
「せめて、学校の中を我が物顔で歩いているようなロボットはいてほしいもんよね」
……いかん。俺自身が今までに不思議なものを目の当たりにしすぎて、それくらいなら、まあ普通か、などと思うようになりつつある自分が何だか怖い。
俺は思わず、ハルヒに「お前の兄貴に頼んでみればどうだ?」と言ってしまっていた。
「え? あたしのお兄ちゃんに?」
「ああ。ハルヒコはお前に首ったけだからな。頼めば、なんとかしてくれるんじゃないか?」
我ながら、相当に無茶なことを言っているような気もする。いくらシスコンのハルヒコとは言え、できないことだってあるわけで……と思っていると、ハルヒは俯いてしまった。
ハルヒが俯くなんて珍しいな、と思っていると、ハルヒは今にも消え入りそうな声で言った。
「……あたしは、必要以上にお兄ちゃんを頼りたくない……」
「ん?」
「……あんたさ。今までに、本気で怒ったこと、ある?」
「さぁな……無いとは言わんが……」
「怒ると、あんた、どんな風になる?」
「どんなって言われてもな……」
とりあえず、怒らせたやつを殴る、くらいはするだろうな。
「ま、多分、普通はその程度よね。でも、あたしのお兄ちゃんね、マジで怒らせると、とんでもなく怖いわよ」
俺は驚いた。ハルヒにも怖いものがあったのか。しかし、あのハルヒコがね? 腹を割って話をした限りでは、温厚そうなシスコンにしか見えなかったが。
「ところで、ハルヒ? お前の兄貴を怒らせると怖いってことと、兄貴を頼りたくないってのはどういう関係があるんだ?」
俺が尋ねると、ハルヒは再び顔を伏せた。よほど、言いにくいことなのか、ハルヒは少しの間迷ってから、俺に言った。
「……あんまり、言いたいことじゃないから、簡単に言うわよ、良い?」
「まあ、構わんが」
「昔、あたし、ちょっと困ったことがあったの。それをお兄ちゃんに相談したら、お兄ちゃん、ぶち切れちゃって」
「……で、結果として、お前は怖い思いをした、と。だから下手に兄貴を頼りたくない、ということか?」
「ま、そんなとこ」
ハルヒはレモンティで唇を湿らせた。
「お前、一体、兄貴になんて言ったんだ?」
「べっ、別に良いじゃない、そんなこと!」
慌てふためいてハルヒはそう言った。こいつのほっぺが少し赤くなったのは何故だろう? 言いたくないことだってのはなんとなく分かるが、それにしても……わざわざ頬を染めるようなことって、一体何だ?
これは、きっと何かある。ここ一年で少しは鋭くなった俺の第六感がそう告げていた。
ハルヒの機嫌が直った、とは言い難いかもしれんが、それでも少しはマシにはなったんじゃないか、とは思うし、これでハルヒコに対する義理は果たせただろう。まあ、喫茶店で話をした後に、土曜に歩いたコースをもう一度歩くハメになったのだから、俺もハルヒも相当、疲れちまったわけだが。
ハルヒと話をしてみて、分かったことがある。やはり、ハルヒは無自覚に世界を修正し、元々はいなかったはずの涼宮ハルヒコを自身の兄だと思い込んでおり、俺のポジションにキョン子という女子を無意識で座らせている。
だからハルヒは、俺のことを「SOS団の雑用係」としては認識しておらず「少しは話のできる先輩」だと認識しているようである。
ハルヒが世界を一年前に戻してしまったのには、何かしらの理由がある。その理由を古泉も、一姫も調査していると言っている。アテにできそうな万能宇宙人たる長門は、危険分子である朝倉の警戒のために、独自調査ができないでいる。では、もう一人、アテにできそうな人物がいるわけだが、その人なら、どうだろう?
すなわち、朝比奈さん(大)である。
ハルヒと話をしてから数日間、俺は毎朝自分の下駄箱を入念にチェックしていた。まるでラブレターを待ち焦がれているようで、少し妙な気分になったが気にしないでくれ。
下駄箱チェックも三日目になると、一通の手紙がそこに入っていた。待ち侘びたぜ、朝比奈さん。
その封筒の中に入っていた便箋にはこう書いてあった。
「昼休み、部室で待ってます」
行きますとも。何が起こってるのか、きっちりと話してもらわにゃならんからな。
結論から言えば、朝比奈さん(大)は俺の懸案事項を増やしただけで、問題解決のためのヒントを与えてくれたわけではなかった。
では、俺と朝比奈さんの会話をお送りするとしよう。
「キョン君、久しぶり」
昼休みに俺が部室へと顔を出すと、朝比奈さん(大)が立っていた。実に魅力的な笑顔に、つられて俺も微笑みを返してしまう。
「この世界がどこかおかしくなっていることに、キョン君はもう気付いているのかな?」
朝比奈さんが尋ねてきた。俺は「ええ」と答えた。
「その件なんですが、朝比奈さん。一つ、訊いても良いですか?」
「何ですか?」
「ハルヒが原因で、また世界が変なことになっちまってることは分かるんですが、それでも朝比奈さんのいる未来はどうにもなってないんですか?」
「禁則事項です、と言わないといけないところなんですけれど、キョン君には特別に教えてあげます」
俺は目を瞠った。珍しいこともあるものだ。
朝比奈さんは続ける。
「今回の涼宮さんの世界修正は、時間的には非常に局地的な変化なの。そして、その変化が局地的なために、行き場を失った時間の波動はやがて空間に干渉して、時間、空間、双方に歪みができる。これら二つの歪みによって位相が変化し、干渉して、新しい波が発生して、その波が再び、時間と空間に干渉する。だから、未来がそのまま進行したとしても、結果として多少の変化は、変化していないものと近似されてしまう……のだけど、あの、キョン君? わたしの言っていること、わかる?」
どこぞの中間管理職のオッサン並みに、俺の眉間に皺が寄っていたのだろう。ぶっちゃけ、あなたの話がまったくもって分かりません。
「うーん……。まあ、もっと簡単に言うなら、キョン君が心配しているほど、未来に大きな変化はない、ということ」
「ハルヒコやキョン子、そして女の古泉一姫という役者が増えている、のにですか?」
俺が尋ねると、朝比奈さんはにっこりと笑って「はい」と答えた。
「問題が何もない、という証明はとても難しいし、そのプロセスを説明しようと思えば、禁則事項に引っかかるから、こんな説明しかできなくて」
「……まあ、俺がそれを理解できるとも思えませんしね」
俺はそう言うと、朝比奈さんは「ふふふ」と苦笑する。
すると、朝比奈さんは急に表情を引き締めた。
「さて、キョン君。実は、あなたに一つ、言っておきたいことがあって、わたしは今、この時間平面にいるの」
いよいよ、本題に入るのか。俺も表情を引き締めた。
「前にも言ったと思うけど、未来は一通りではないの。過去の……キョン君からすれば、現在や少し先の未来の、だけど、そこでの選択や行動次第で、未来は大きく変わってしまう。逆にいえば、それだけ、未来には様々な形があって、色々な種類の未来がある」
それは……小難しい話ではあるが、前にも一度聞いたような気がするので、なんとか飲み込むことはできた。
「ある人が一つの未来を消し、違う人がその未来を消されてしまったことをとても怒っています。キョン君にも、その怒りの火の粉が振りかかるかもしれないから、気をつけて」
「気をつけるって……何に、ですか?」
「……ごめんなさい。わたしから言えるのはここまでです」
「禁則事項、ですか?」
「禁則事項、です」
やれやれ……。肝心なところは聞かせてくれないのか。まあ、今に始まったことではないけれども。
「まさか、また、ハルヒの作った閉鎖空間に閉じ込められるんじゃないでしょうね、俺は?」
禁則事項です、と返ってくるのかと思ったが、意外にも朝比奈さんは微笑みと共に俺に返事をくれた。
「いえ、今回、あなたが困った状態になった時、涼宮さんが傍にいることはありません。むしろ、あなたの傍にいるのは涼宮くんです」
ハルヒコが?
「そして事態を、あなたにとってややこしくするのも涼宮くんであり、そして事態を収束させるのもまた涼宮くんなの」
「じゃあ、俺の出る幕は無いってことじゃ?」
「いいえ、あなたはその場にいる必要があります。でなければ、涼宮くんの出る幕もなくなってしまうもの」
そう言うと、朝比奈さんは俺に近づき、俺の肩に手を置いた。
「また、大変なことを押しつけてしまって、ごめんなさい。そして、それをどうにかするために必要な情報を与えることもできなくて、本当にごめんなさい。でも、これだけは言わせて」
「な、なんでしょう?」
潤んだ瞳で見つめられては、そう言うしかない。
「どうかめげたりせずに、この問題を乗り越えてください、キョン君」
頑張って、と言うと、朝比奈さんはこの部屋の出口へと向かった。その背中に向けて、俺は言う。
「めげたりしませんよ」
朝比奈さんは振り返る。俺は言葉を続ける。
「俺にはハルヒコほどの度胸もありませんが、それでも、俺はめげたりしません」
どんなに辛くても、苦しくても、俺がするのは溜息を吐くことだけ。弱音も泣き事も、言うつもりもないし、言っちまえば全てがパーだということくらい、俺にだって分かる。分かっていなければ、俺は去年、ハルヒと対等に渡り合うことなどできなかっただろうから。
俺の言葉に、何かを感じ取ってくれたのだろう。朝比奈さんは俺に満面の笑みで答えると、そのまま部室を出ていった。
朝比奈さん(大)との話を終えた俺は、教室に戻った後、まだ食ってなかった弁当をつついていた。
フリカケのかかった飯を口に頬り込んだ時、海音寺がこちらにやってくるのを視界の端で捉えた。
「次から次へ、女遊びをしてくれるなぁ、キョンは」
エロゲの主役かお前は、と言い出す海音寺。
「何の話だ?」
「羨ましい、ってこったよ。お前、一年の涼宮と昨日、喫茶店で茶、飲んでただろ?」
よく知ってるな。
「駅前を歩いてたら、たまたま、お前ら二人の姿が見えたんだよ。良いよなぁ、お前は。たった一人で、五人の美女を相手にできるんだからな」
SOS団なんていう、内申点が確実にマイナスされるところのリーダーっていう厄介極まりない役を仰せつかっている身なんだ。それくらいの役得はあってもいいだろう。
「俺にもその役得を少しは分けてくれよ」
海音寺の言わんとすることは分かる。要は、SOS団に入りたいから、入れろ、ということだ。
あー……まあ、入れてやっても良いんだがな、別に……
「何だよ、キョン? なんか、まずいことでもあるのか?」
「他のやつならいざしらず、涼宮ハルヒだけは、狙うなよ?」
谷口の受け売りではない。これは俺が身を持って体験してきたからこそ言える。ハルヒを自分の彼女にしたい、などと思うのはキチガイのすることだ。暴れ馬の後ろ足の傍にわざわざ突っ立つのと同じようなもんだからな。
ところが……世間って、広いものである。ハルヒの常軌を逸した行動の数々が既に語り草になりつつあるという状況下であるというのに、海音寺は真顔で「なぜだ?」と訊いてきやがった。
「可愛いじゃないか、涼宮は」
「ツラに騙されてるぞ、海音寺」
「ツラだけじゃない。性格も心も良い子だよ、涼宮は」
「良い子? あの存在自体が爆竹みたいな女のどこが?」
俺は純粋に疑問だった。ハルヒが良い子だと海音寺に断言できる理由が、俺にはわからなかった。
「部活どころか、喫茶店で話し合う仲だってのに、涼宮の良さも分からんのか、キョンは」
「生憎だが、まったく分からん」
そうは言ってみたが、俺のこの言葉には少しばかり嘘、というか語弊がある。確かに、ハルヒも良いところはあるだろう。言葉にすることはできないが、それでも、傍にいればそれなりに楽しいと思わせてくれることは、ハルヒの良さの一種ではあると思う。思うが……ハルヒのことを「北高の変人」という程度の認識しかしていないであろう、ハルヒとの接点が皆無に等しいであろう、海音寺に、ハルヒの良さが分かっているとも思えなかった。
それでもなお……海音寺が「ハルヒのことを可愛い」と言うのであれば、俺は断言してやる。海音寺は、ハルヒの対抗馬たる変人であると。
そんな変人を、わざわざ、俺のテリトリーであるSOS団に入部させる気にはどうしてもなれず、いつかのように、俺は適当に言葉を濁し、その場をやり過ごして、海音寺を追い払うことにした。
「ま、考えておいてやるよ。そのうち、入部届を手渡すから」
学校に認められていない部活動である以上、入部届などあるわけないのだが、海音寺を追っ払う口実としては十分だろうと俺は思った。
「やれやれ、またか……。本当に考えてくれる気、あるのか?」
「あるさ」
考える気は、な。
「白々しいな……。まあ良い。どんな手を使ってでも、SOS団の敷居をくぐってやるから覚えてろよ?」
どこの負け犬のセリフだそれは、と俺がツッコミを入れると、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
そこで俺は気付く。弁当をほとんど食っておらず、食いっぱぐれた状態で昼からの授業を受けなければならないことに。
暗澹たる気分が倍加し、俺は溜息を吐いた。