涼宮ハルヒの修正

第五章 ‐ β

 週明け、そろそろ梅雨を感じさせる時期に差し掛かりつつある。湿気を含んだ空気を暑いと思う人もいるかもしれないけれど、寒がりなあたしはカーディガンが手放せなかった。
 一方、ハルヒはこの空気に参っているらしく、あたしが席に座るや否や「あっついわねぇ、最近」と言った。
「あんた良くカーディガンなんて羽織ってられるわね?」
「寒がりなのよ、あたしは」
「ふーん? 手持無沙汰ならあたしを仰いでくれても良いのよ?」
「はあ? 自分でやりなさいよ」
 そう言って、あたしはハルヒの顔を覗き見た。二日前に駅前で別れた時とまったく変化の無い仏頂面である。これじゃ、四月に逆戻りじゃないの。
「ねえ、ハルヒ。『幸せの青い鳥』って知ってる?」
「それが何?」
「いや、別に、それがどうしたってわけでもないんだけど」
「じゃあ訊いてくんな」
 ハルヒはそっぽを向いて、胸元に下敷きで風を送り込んだ。そんなハルヒを見てると、胸の下に汗が溜まるとかゆい、と聞くけど、それ、本当かしら? 経験がないもんだからわかんないんだけど……とかいう、どうでも良いことを考えたりしてしまった。
 経験がない、ということをちらとでも考えた自分自身に、妙に腹が立ったのは……無い物ねだりをしてしまったからでしょうね、多分。



 自分自身に腹を立てていたのもつかの間だった。一日中、不機嫌オーラを発し続けているハルヒの傍で生活しなければならないのだから、こっちも段々としんどくなってくる。授業が全部終わる頃には、いつも以上の解放感をあたしは感じた。
 こんなところからは、さっさとオサラバするに限る、というわけで、あたしは逃げるように部室棟へ向かった。
 扉を開けると、そこには読書中の長門と、年中スマイルの古泉がいた。長門はこの部屋の置物と言ってしまっても、あながち間違いではないでしょうけど、古泉がもうここにいるなんて珍しいわね。
 あたしは古泉に訊いてみた。
「あなたも、あたしに話があるんでしょ?」
「おや、あなたも、と言うからには、既に長門さんや朝比奈さんからアプローチを受けているようですね」
 そう言うと、古泉は立ち上がった。
「場所を変えましょう。涼宮さんに出くわしてもマズイですし。それに、一姫姉さんもあなたにお話があるとのことですし」
 一姫さんも? そういえば、古泉と一姫さんは従姉弟だったっけ、と思いつつ、あたしは古泉についていった。
 食堂の脇にある屋外テーブルに行くと、そこには既に一姫さんが座って待っていた。
「こんにちは、キョン子さん」
「どうも、こんにちは、一姫さん」
 一姫さんに挨拶を返し、あたしは一姫さんの横に腰を下ろす。あたしの横の椅子は空いており、そこに古泉が座るのか、と思っていたら、古泉は「何か飲み物を買ってきます」と言って去っていった。
 しばらくすると、コーヒーの入った紙コップを三つ抱えて、古泉が帰ってきた。
 席に腰を落ち着けると、古泉は言った。
「さて、と。それで、あなたはどこまでご存じですか?」
「ハルヒが只者じゃないことくらいかな」
 あたしの言葉に、今度は一姫さんが微笑みながら言った。
「それなら、話は簡単ですね。その通りですから」
 その後、あたしは古泉と一姫さんから、自分たち二人は超能力者であるということと、機関という組織があり、自分たちはそこに所属している、といったことを聞かされた。
 ……なんかの冗談のなのかな、これは。笑い飛ばしたいんだけど……上手く笑えない。
「良かった。あなたなら、きっと笑わないと思ってましたよ」
 そう言ったのは古泉だった。あたしはどちらの古泉に向かってでもなく、「長門にしろ、朝比奈さんにしろ、あなた達二人にしろ、なんでそんな話をあたしにするのかねぇ……」と言った。
 すると古泉が言った
「あなたには必要な情報だからですよ。少なくとも、我々は、そうだろうと思いました」
 一姫さんも口を開く。
「本当のことを言うと、あなたにはもっと知ってほしいことがあるんです。しかし、今はまだその時ではないんですよ」
「何故ですか?」
「強いて言えば、あなたはまだ、我々のような存在や、長門さんや、朝比奈さんといった存在を、本当の意味では信じていませんから」
 当たり前でしょう。
「もう少しすれば、あなたは嫌でも信じざるを得なくなりますよ」
 一姫さんはそう言った。彼女の言葉を引き継ぐように、古泉が言う。
「その時に、また、もう少し詳しいこと、この世界で起ってしまった奇妙なことをお話しましょう。今日のところは、これくらいで」
 そう言うと、古泉と一姫さんは席を立ち上がった。二人はよく似た顔に良く似た笑みを浮かべて「それでは」と声を揃えると、テーブルから離れていった。
 超能力者と名乗る美男美女タッグの言葉を思い出したりしながら、あたしはしばらく茫然と座っていた。



 あの後、あたしは部室に戻ったんだけど、そこにいたのは長門と朝比奈さんだけであり、キョンもハルヒもハルヒコも部室には顔を出さなかった。生徒会長のハルヒコが顔を出さないのは忙しいからだろうけど、ハルヒが姿を現わさなかったのは珍しいことである。ついでに言えば、キョンがいなかったことも。
 だから次の日、あたしはハルヒに訊いた。
「昨日はなんで部室に来なかったのよ? 反省会をするんじゃなかったの?」
 机に顎をつけて突っ伏していたハルヒは面倒くさそうに口を開いた。
「反省会なら、昨日やったわよ……」
 ハルヒの話によると、昨日学校が終わった後、土曜に廻った場所にキョンと二人で出向いていたのだと言う。
 それにしても、キョンと二人っきり……。それはそれで、どことなく羨ましいような気がするけど、まあ、それは置いておく。
「暑いし疲れた」
 そりゃ、そんなことをやってりゃ疲れもするでしょうね。
「ねえ、ハルヒ。前にも言ったかもしれないけど、見つけられそうもない不思議探しはすっぱり止めて、高校生らしい遊びを開拓したらどう?」
 睨みつけられるかな、と思ったけど、ハルヒは頬を机にくっつけたままだった。本当に疲れているみたいね。
「高校生らしい遊びって……何よ……」
 声にも潤いが無かった。
「そうね、例えば、いい男でも捕まえて市内の探索をそいつとやるってのはどう? デートにもなるし、一石二鳥じゃない?」
 我ながら良いアイディアだと思ったんだけど、顔を上げたハルヒに睨まれてしまった。
「ふんだ。男なんてどうでも良いわ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ。精神病の一種なのよ」
 精神病て……。呆れ顔をしてみせたあたしに、ハルヒは言葉を続ける。
「その精神病のせいで、ひどい目にも遭ったことがあるんだから」
 そう言った途端、ハルヒはしまった、と言わんばかりの顔になった。
「なに? どうしたのよ、ハルヒ?」
 あたしがそう尋ねると、ハルヒは「な……なんでもない」と言って再度、机に顔を伏せた。
 あたしは首を傾げつつ、前を向いた。
 その日、ハルヒはほとんどの授業を寝て過ごしていた。教師に一度たりとも発見されなかったのは……偶然よね? そう信じたい。
 でもこの時、ハルヒがあれほど望んでいた、不思議な事件は幕を開けていたのである。尤も、それを体験したのは、ハルヒではなくあたしだったのだけれども。



 この日、あたしが登校してくると、自分の下駄箱にノートの切れ端が入っていた。
 そこには
「放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室に来て」
 と明らかに女の子の字で書かれてあったのである。はて、あたしを呼び出すなんて、一体誰だろう、と頭を回転させてみるが、思いつきそうになかった。
 ま、別に誰でも良いわよね。どうせ、会えば誰だか分かるんだし。あたしはこの時、そんな感じで、かなり楽観的に物事を考えていた。まさか、それが身の危険を感じるような事態になろうとは、少なくとも、この時のあたしは思いもしなかった。



「じょっ、冗談キツいわよ!」
 尻餅をついたあたしは上擦った声でそう叫ぶ。しかし、朝倉涼子は晴れやかな顔のまま「冗談だと思う?」と訊いてくる。
 谷口を筆頭に、異性からも同性からも人気があり、更には教師連中からも人気のある委員長が、何故、あたしにナイフを突き付けてくるのよ? それを説明できるやつがいるなら、誰でも良いから、あたしに説明なさい!
 その時になって、あたしは、セーラー服の裾の部分が、カーディガンもろとも裂けていることに気がついた。多分、朝倉の最初の一撃をかわした時にナイフの先が掠めたのだろう。つまり……あのナイフは切れるということであり、本物だということだ。
 あたしはぞっとなった。足が震えてしまい、立ち上がることができない。
 対する朝倉は笑顔を崩すことなく、ゆっくりとあたしに近づいてくる。
「や……やめて……」
 あたしは懇願した。ところが朝倉は無垢な笑顔そのままで「うん、それ無理」と言った。
「だって、あなたには死んでもらわないと。涼宮ハルヒはなんらかのアクションを起こすはずだし、またとない情報爆発を観測できる良い機会なんだもん」
 な、何を言っているのかさっぱり分からない。頭がどうにかなりそうだ。段々あたしの視界がぼやけてきたのは、目に溜まる涙のせいなのか……。
 いや、これは……涙じゃない。霞みがかった視界の先で、朝倉がこちらにやって来る……って、あれ? 朝倉は足を止めている?
 その時だった。あたしの耳に、訊き覚えのある声が飛び込んできた。
「もう、大丈夫」
 その瞬間、天井がガラガラと音を立てて壊れたかと思うと、長門が空から降ってきた。空中でくるりと体を回転させ、地面に着地する。
「また、邪魔する気?」
 朝倉が長門に尋ねた。長門は何も言わずに、朝倉に跳びかかる。対する朝倉は人間離れした跳躍で、長門の突出をかわし、長門と距離を取った。
 その後のことは……正直、よく覚えていない。宇宙的な神秘パワーやら、はたまた超能力やら、それとも近未来のSFから引っ張りだしてきた能力やらが長門と朝倉の間を飛び交っていた。
 あたしの理解が追いつかない。しかし、それでも分かるのは、なんかもうすごい、ってことくらい。
 刹那、朝倉がちら、とあたしの方を見た。にやり、と笑ったかと思うと、朝倉は槍をあたしの方へ飛ばしてくる。すると長門は横っ跳びに跳んで、あたしの前に立ちふさがった。
 長門の小柄な体躯に、何本もの槍が突き刺さる。そして噴き出すのは赤色の液体……。
「長門!」
 あたしは叫んだ。
「へいき」
 ちっとも平気には見えないわよ!
 長門は眉一つ動かさずに、体を突き破っている槍を抜き、床に捨てた。カラン、という乾いた音が響く。
「そいつを守りながら戦うことには、限界があるのに。じゃ、トドメね。死んで」
 朝倉の腕が化け物みたいに伸び、それが長門の体を貫いた。
「終わった」
 ポツリと長門が呟くと、長門の体を貫いていた朝倉の腕がサラサラと消えていく。
「そ、そんな……」
 驚愕する朝倉の声が聞こえた。



 とまあ、色々なことを端折りつつ、あたしの味わった恐怖をダイジェスト版でお送りした、というわけである。
 というより、後になってみれば、あたしはこの事件を鮮明に覚えているようでいて、それほど覚えていないために、フルバージョンをお送りできなかったのである。過度の恐怖にさらされると、人間は無意識にその記憶を抹消してしまう、ということをどっかで聞いたような気がするから、多分それよね、と思うことにした。
 この事件はあたしに徹底的な変革を要求せしめた。なにしろ、マジモンの超常現象を目の当たりにしてしまったのだから。ことあるごとに「な、なんだってー?」と叫ぶ集団に報告をしておいた方が良いのではないか、と思ったくらいである。それをなかったことにしようと思えば、あたしの目か頭かのどっちかがどうにかなっていたか、変な夢でも見ているかのどちらかだろう。
 少なくとも、この事件を境に、あたしは長門のことを本物の宇宙人だと信じるようになった――信じざるをえなくなったと言うべきかもしれないけど――のは確かである。ついでに言えば、朝比奈さんが未来人だと、ダブル古泉が超能力者だと、信じる気になったきっかけでもあった。
 ちなみに、長門によって消されてしまった朝倉は、やはり長門によって転校したことにされてしまったのであった。