朝、俺が登校すると、下駄箱に手紙が置いてあった。はて、またもや朝比奈さん(大)からの呼び出しだろうか、と思って手紙を読んでみると、こんなことが書かれたいた。
「今日の放課後、屋上にて待つ。 異世界人」
以前の俺なら、谷口あたりのイタズラだと思って、この手紙を丸めてゴミ箱に捨てていたことだろう。しかし、俺はこの手紙をイタズラだとは思わなかった。
一姫は言っていた。異世界人は俺に用があるから接触してくる、と。そして、俺も異世界人には用がある。何故、ハルヒに世界修正をそそのかしたのか。下手にハルヒをつっつけば、ロクなことにならないということは、火を見るまでもなく明らかなことだ。それにも関らず、異世界人はハルヒにちょっかいを出した。その理由を是非とも、聞かせてもらいたかったからな。
俺はこの手紙をブレザーの内ポケットにしまうと、教室に向かった。
その放課後がやってきた。屋上への入り口は常時施錠されているため、屋上に行くことはできないんだっけな、と思いつつ屋上へと向かう俺である。まあ、屋上に来いってんだから、屋上の鍵は異世界人が何とかしてるんだろう。何とかする方法が、異世界人的なパワーによるものか、職員室から鍵をガメたのかは、俺には分からんけれども。
屋上へと通じる扉のドアノブを捻る。やはり、と言うべきか、ノブは回った。扉を開けると、まるで閉鎖空間を想わせるような灰色の空が広がっていた。そういや、今日は曇り空だったっけな。
「よぉ、待っていたぜ」
屋上に立っていた男を俺は見た。驚嘆に値すべきだろうな。そこには海音寺が立っていたのだから。
「お前……だったのか?」
「そうだ。驚いたか? 俺が異世界人だってことに」
俺は少なからず驚いていた。まさか、海音寺にそんな不思議設定があったとは。
「そろそろ、自己紹介をしておく時期だと思ってさ」
そう言って、異世界人を名乗る海音寺が俺に近づいてきた。
俺は訊いた。
「お前が……ハルヒをそそのかしたのか?」
すると、海音寺は、ふっ、と鼻で笑ってから答える。
「そういうことになるな」
「何故だ!」
俺は思わず叫んでいた。自分で発した声に自分で驚きつつも、俺は海音寺に詰め寄った。
「下手にハルヒを刺激すれば、世界修正どころじゃ済まないんだぞ? 文字通り、世界が終わりかねない。どうして、そんな危ないことをやろうとしたんだよ、お前はっ!」
俺は海音寺の胸倉を引っ掴んだ。すると、視線を伏せていた海音寺が俺を睨み返す。俺はぞっとなった。海音寺の視線は、余りにも冷ややかだった。
「世界が、終わる? 俺にとっちゃ、最初から何もかもが終わっていた。というよりは、始まってすらいなかった。お前に分かるか? 晴れ舞台をぶち壊される悔しさが」
海音寺はそこで言葉を切り、俺の手を払った。
「あるべき未来があれば、異世界人たる俺も、他の三種類の人種と同様、表舞台に立つことができた。しかし、どこの誰だかは分からないが、あるべき未来を消しやがった。未来が続くことはなく、そこで現実が停止する。そうなれば俺は永遠に表舞台に立つことができない」
海音寺の話を聞いている内に、俺は朝比奈さん(大)の言葉を思い出していた。誰かが未来を消し、その未来を消されてしまったことに憤っているやつがいる。そいつが、この海音寺なのだろう。
海音寺は続ける。
「それが嫌だった。だから俺は涼宮ハルヒをそそのかして、世界を修正してもらった」
涼宮は本当に良い子だったよ、と海音寺は言葉の最後を締めくくった。
「良い子、だと?」
「そうさ。俺の思い通りに、世界のあり方を変えてくれた」
「まさか……お前、ハルヒと接触したのか?」
「ああ。心配しなくても良いぜ? 俺は涼宮に自分自身が異世界人であることを教えちゃいない」
海音寺はきびすを返し、俺に背中を向ける。
「大変だったんだぜ? 俺がこうして、この世界に出張ってくるのは。涼宮をそそのかして、涼宮の中学時代に少しばかりテコを入れて、テコ入れによって俺という存在をこの世界に根付かせて。結果として、手ひどいしっぺ返しと、一部の人間の感覚では何もかもが一年前に戻っちまうというちょっとした矛盾が残っちまったがな」
海音寺は振り返る。俺を見据えて、言った。
「それで、お前はどうする?」
「世界を元に戻してもらおうか、海音寺」
ついでに言えば、ハルヒにちょっかいを掛けるなんていうふざけた輩はバチが当たっちまえば良いんだ。
しかし、海音寺は俺を嘲った。
「そいつは無理な相談だ。俺にだって、この世界に居座る権利くらいある」
「ねぇよ。異世界人はお呼びじゃないんだ。SOS団の不思議ポジションは既に埋まっている。海音寺、お前は元の世界に帰れ」
俺は忠告の意味も込めてそう言った。自分の欲のために、ハルヒを焚きつけたやつを、俺は許せない。
ハルヒはオモチャじゃねぇんだ。れっきとした、一人の人間なんだ。感情だってあれば、心だってある。その弱みに付け込んで、自分の望みを叶えようなんて……って、よくよく考えてみれば、それは普段のハルヒの手口じゃなかったっけな、と俺はちらと考えた。
そうやって余計なことを考えていたのがまずかった。海音寺は俺との間合いを一瞬で詰め、俺の頬骨を殴り飛ばしてきた。強かな衝撃と共に、俺の首が横に振れる。飛んじまいそうになる意識の端っこで、俺は海音寺の声を耳にした。
「俺はな、キョン。やっとの思いで表舞台に立つことができたんだ。それを邪魔しようってんなら、俺は許さねぇぞ?」
俺は弾き飛ばされた顔を正面に向けた。すると、海音寺の拳がもう眼前に迫ってきていた。おそらく、渾身の右ストレートだろう。それが、今にも俺の顔面にめり込もうとして……
パァン!
景気の良い、という表現が実によく似合う音だった。海音寺のパンチは見事に俺の顔面に……って、あれ? 俺、殴られてない?
改めて良く見れば、横から伸びた手が、海音寺の拳を掴んでいた。その手の持ち主を目で追えば……なんてこったい、ハルヒコがそこにいるではないか。
「は……ハルヒコ?」
俺はハルヒコの名を呼んだ。しかし、ハルヒコは俺を無視して海音寺に言う。
「テメェ……」
恐ろしく低い声だった。「人の妹だけじゃ飽き足らず、人のダチまでいじめようってのか?」
「ハルヒコ……。何故、ここに?」
俺と同じように驚く海音寺。ハルヒコは答える。
「勘だ。屋上に来ないといけない気がした。そして来てみりゃ……このザマか。おい、キョンの字、離れてろ!」
キョンの字って……。言われた通り、俺は二人から距離を取った。
「おう、けいおんじ? テメェ、よくも人のダチの顔面、ドツきやがったな?」
「気に食わなかったもんでね、そいつの言葉が」
「ほー? 奇遇だな。俺も気に食わねぇんだよ、テメェがなっ!」
ハルヒコは掴んでいる海音寺の拳を軽く自分の方に引っ張った。そうしながら、自分は体を前へと動かす。そのままハルヒコは自分の右拳を海音寺の顔面に飛ばした。
海音寺は首を横に倒してハルヒコのパンチをかわす。同時に、ハルヒコの手から自分の拳を自由にさせると、バックステップでハルヒコと距離を取る。
しかし、ハルヒコは逃がさなかった。素早いステップで海音寺との距離を詰め、鋭いワンツーを繰り出した。海音寺はハルヒコのジャブをパリーで弾き、ハルヒコのストレートをダッキングでかわして、ハルヒコの懐に潜り込む。海音寺がハルヒコにタックルを食らわそうとするも、海音寺の顎をハルヒコの膝が捉えていた。
「うげぇっ!」
ひしゃげた悲鳴が響いた。跳ね上がった海音寺の顔にハルヒコは右ストレート、左フック、右アッパーを叩き込む。全てきれいに決まっていた。
ああ、この運動神経の良さは、ハルヒと同じなんだな、と俺は妙に冷めた頭でそんなことを考えていた。その時、俺はハルヒのある言葉を思い出した。
『あたしのお兄ちゃんね、マジで怒らせると、とんでもなく怖いわよ』
この時、俺はハルヒのその言葉がいやに引っかかった。
俺がそんなことを考えている間にも、ハルヒコは動きを止めなかった。ハルヒコが海音寺の腹筋に左拳をねじ込むと、海音寺の顔は下がった。その顎めがけて、ハルヒコは前に踏み出しながら掌底を突き出す。すると、海音寺はひっくり返った。
地面に横たわった海音寺の頭を、まるでサッカーボールでも蹴るかのごとく、ハルヒコは足を振り上げる。しかし、海音寺の意識はまだあったらしく、海音寺は体を捻って寝がえりを打つ。ハルヒコの蹴りは空振りに終わった。
海音寺は素早く体を起こし、不安定な体勢のハルヒコにタックルを食らわした。
「おわっ!」
今度はハルヒコがもんどりを打った。そのまま、海音寺はハルヒコの上に馬乗りになった。
鮮血に染まり、赤く腫れた顔を憤怒に歪ませて、海音寺は叫ぶ。
「さっきは散々、殴りやがって!」
海音寺が拳を振り下ろそうとした。ところが、海音寺の顔面が先に跳ね上がっていた。ハルヒコがモーション無しで、上半身の力によるバネだけでパンチを飛ばしたらしい。そんな器用な真似がよくもまあ、できるもんだ。なんつー、運動神経と腕力だ、ハルヒコ。
体勢の崩れた海音寺の下から、ハルヒコは素早く這い出て起き上がる。海音寺も立ち上がり、両者は再び、睨み合った。二人とも、既に肩で息をしていた。
海音寺は言った。
「なんだってんだよ……人がせっかく、気分良くこっち側にやってきたってのに……なんで、邪魔すんだよぉ……!」
海音寺の顔は苦痛に歪んでいた。そんな海音寺に、ハルヒコは情けも容赦も無く「うるせぇっ!」と吐き捨てた。
「テメェ、ハルヒとキョンをいじめといて、タダで済むと思ってんのか? テメェは誰を怒らせたか、分かってんのか?」
「分かるか、ボケェ!」
叫び返した海音寺は地面を蹴る。対するハルヒコも走った。
「うおーっ!」
雄叫びと共に、海音寺はハルヒコに跳びかかる。それを闘牛士のようにかわしたハルヒコはカウンターの右ストレートをまたもや海音寺の顔面に決めた。ぐしゃっ、という嫌な音が聞こえた。
「分かってないなら、教えてやるっ!」
ハルヒコは体を捻り、ハイキックを繰り出した。
「テメェが怒らせたのは……」
それが、海音寺の耳の下を捉える。
「天下に名高き、ハルヒコ様だっ!」
海音寺の体が横に倒れそうになる。しかし、ハルヒコはそれを許さない。体をかがめて、アッパーとフックの中間のようなパンチを海音寺の顔に飛ばした。海音寺の頬骨に当たり、傾きかけた海音寺の体が、今度は逆方向に傾こうとする。素早く体を右に振り、ハルヒコは右フックをぶち込んだ。
海音寺の体がまるで振り子のように、左右に揺れる。
これ……ひょっとして、海音寺の意識は無いんじゃないか? と俺は思った。しかし、ハルヒコは止まらない。振り子のように振れる海音寺の頭を、右へ左へまた右へと殴り続ける。
ああ……こういうことだったのか。俺は思った。ハルヒが言っていたのは、つまり、ハルヒコが本気で切れるとマジで怖いとは、これだったのだ。頭に血を上らせたハルヒコは、止まることのない暴走特急そのものだ。怖いもの知らずのハルヒですら怖がらせるほどの。
このままハルヒコの好きなようにさせていれば、冗談抜きで、海音寺は死んでしまうかもしれない。そりゃ、確かにバチが当たれば良いとは思ったが、俺は何も、ここまでしてほしいわけじゃなかったし、何より、これでは何も解決しない。
俺はハルヒコを止めようとして、一歩を踏み出した。しかし、その時、俺の目の前で何かが光った。目も眩むほどの強烈な光が瞬く間に俺の視界を覆い尽くし……やがて俺の視界は暗転した。