涼宮ハルヒの修正

第九章 ‐ α

 気がつくと、俺は自宅のベッドの上だった。血まみれの海音寺も、怒り狂ったハルヒコの姿もない。
 ……ひょっとして、ありゃ、とんでもない夢だったのか? というより、そもそも、俺はとんでもなく長い夢を見ていて、その夢の中に、ハルヒコや、キョン子や、一姫や、海音寺がいただけではないだろうか。そうだったら良いんだが……と思ったが、少なくとも後者の方は夢では無さそうだ。何故なら、俺の携帯電話のサブディスプレイに「キョン子」と表示されていたからな。
 俺は呼び出し音を止め、電話に出る。
「もしもし? こんな時間に電話をかけてくるとは、ハルヒに匹敵するくらい非常識になっちまったな、キョン子?」
 皮肉を言ってしまったのは、寝不足だったからだろうか。
 キョン子の言葉が返ってくる。
「……キョンの声を聞くと、なんかもう、夢だと思いたいことが、夢じゃないんだなって思わされるわね」
「生憎、俺もでね。俺もキョン子の声を聞くと、夢だと思いたいことが夢じゃないと思わざるをえない。で、何か、用事か?」
「まぁ、用事ってわけじゃないんだけど……。ここ最近、身の回りに起った出来事が夢なのか、現実なのか、確かめたくって。キョンの声を聞けば、なんとなく、それがはっきりしそうだったから」
 正しい判断だな。何が正しいのかは、感覚的なもんでしかなく、俺にも具体的には分からんのだが。
「だがまぁ、俺も、キョン子の声を聞いて、夢か現実か、はっきりしたよ。こいつは、間違いなく現実だ」
「あたしも、現実だと思うわね。うん、まぁ、そんだけ」
 俺は笑ってしまった。
「おい、キョン子。本当にそんだけかよ?」
「だって、本当にそんだけなんだもん」
「そんだけのために、こんな時間に電話をしてくるとは。お前、ちょっと変わってるぜ?」
「よく言われるわ、それ。じゃ、キョン。また、学校で」
「ああ、学校でな」
「うん……、あ! それと、キョン」
「何だ?」
「ハルヒって、寂しがり屋さんだから」
「……はぁ?」
 俺は頓狂な声を通話口に吹き込んだ。
「どういう意味だ、それは?」
 ハルヒが寂しがり屋? あいつが寂しそうにしている姿なんて、俺は見たこと無いぞ。
「だから、ハルヒには友達がいなかったってことよ」
「まあ、いそうにないな、あの性格だと、そんなにたくさんは」
「味気ないコメントねぇ、キョンは。こっちはそのせいで、大変な目に遭ったのよ?」
「俺は俺なりに、大変な目に遭ったさ。ま、お互いの体験談は、昼休みなり、放課後なりにすれば良いんじゃないか?」
 寝ないと、明日に響きそうだからな。
「そうね……。それじゃ、今度こそ、学校でね」
「ああ」
 電話を切り、俺はもう一度横になった。念のため、携帯電話で確認してみたが、今は午前二時十三分であり、海音寺がハルヒコに殴られていた日の翌日にあたる。
 結局、海音寺とハルヒコはあれからどうなったのだろう? 学校に行ったら、長門か、古泉か、一姫か、はたまた朝比奈さんか……あるいは、ハルヒコや海音寺に訊いてみるとしようかね。



 つい先日に行なわれた席替えで、俺は海音寺の後ろの席になった。俺が教室にやってくると、もう海音寺がやってきており、俺の前の席に腰を下ろして窓の外を眺めていた。
 俺が自分の席に座ると、海音寺がちらりと俺を見た。殴られた痕跡がくっきりと残っており、絆創膏やらガーゼやらが顔に貼り付けてあった。
「よう、元気か」
 俺は海音寺に話しかけた。
「元気に見えるか?」
 呻くように海音寺は言った。俺は「見えんな」と返す。
 海音寺は体を俺の方に向けた。
「体のあっちこっちが痛くて堪らん……。だいたい、なんでまた、俺がこんな目に……」
「自業自得だ」
 俺がそう言うと、海音寺はぶすっとした口調で答える。
「そいつの親友や妹にちょっかいかけると、そいつに半殺しにされるってことがよく分かったよ」
「骨身に染みたろ、もう。これに懲りたら、とっとと世界を元に戻してもらおうか」
 すると、海音寺は顔をしかめた。
「昨日も言っただろ? そいつは無理な相談だって」
「おい、これ以上、お前のワガママに付き合うつもりは……」
「キョン。お前、勘違いしてねぇか? 俺は『無理な相談』って言ったんだ」
「無理な? ……おい、お前、まさか!」
「ご名答。そもそも、世界を修正したのは俺じゃなくて、涼宮ハルヒだ。責任の一端は俺にもあるだろうが、だからと言って、俺に責任の取りようは無い。何故なら、世界を元に戻すのも、涼宮ハルヒ頼みだからな」
「……じゃあ、お前には、この世界を元に戻せないってのか?」
「そういうこと」
 俺は全身の力が抜けてしまった。こんな結末って、アリかよ……。
 ハルヒに世界を修正させるだけさせておいて、元に戻す方法なぞ知らないと言う。無責任にもほどがある、と思ったが、それが事実である以上、どうしようもない。
 そんな、神風特攻隊もびっくりな、片道戦法でお前はこの世界に存在しようとしたのか?
「まあな」
「よくやるぜ……」
 俺は呆れた。
「海音寺。何で、お前、そうまでして、こっちの世界に出てこようと思ったんだ?」
「昨日も言ったじゃねぇか? あるべき未来が奪われちまったからだって」
「別に、その、あるべき未来が無くなっちまっても、異世界は存在してるんじゃないのか? お前の居場所ならちゃんとあるだろう?」
「そ……それは、だな……」
 途端に海音寺の歯切れが悪くなった。少しの間、海音寺は視線を宙に漂わせてから、言う。
「異世界、異世界って簡単に言うけど、お前、異世界にどんなイメージがある?」
「どんなって……不思議な出来事が当たり前のように起ってる場所、っていう感じかな」
「……なるほどな。じゃ、キョン。お前さ、四次元って分かるか?」
「四次元? 四次元空間の四次元か?」
「いいや、違う。空間は三次元までだ。空間を四次元にするのは、まあ、不可能だからな。俺の言っている四次元ってのは、三次元空間に時間という次元を加えたもののことだ」
「で、それがどうしたんだ?」
 俺は訊いた。海音寺は答える。
「未来人とは、このうち、時間次元がこの世界とズレた世界の住人なんだよ。そして、異世界人ってのは、その逆で、三次元空間がこの世界とズレた世界の住人ってこった、簡単に言えば」
 ちっとも簡単じゃないような気もするが。
「この世界と、異世界ってのは、それくらいしか違わない。不思議な出来事が当たり前ってわけでもなければ、近未来のSFがまかり通っているわけでもないんだ。……こっちの世界と、似たようなもんさ……」
「異世界がどんな世界なのかは、何となく分かったよ、海音寺。それで? こっちとそんなに変わらないんなら、何もこっち側を羨ましがることなんてないだろうに?」
 隣の芝生は青い、青すぎて青田刈りがしたくなる、という心理は理解できるにしても、海音寺は最初から、隣の世界たるこちら側が「青く見えているだけ」ということを知っていたように思える。それなのに、こいつがこっちに出張ってきた理由は何だ?
 いや、待てよ? 数時間前、キョン子は言ってなかったか? 友達がいなくて寂しい思いをしていたハルヒが原因で、大変な目に遭った、と。
 俺はこの時、本当に何となくだが……何となく、目の前に座っているこの男も、そういう点において、ハルヒと同類なのではないか、と思ったのだった。
 だから、俺はこんなことを海音寺に尋ねてしまった。
「お前、ひょっとして……向こうの世界に友達いなかったんじゃないか?」
 根拠も何もない、直感で思ったことを訊いたわけだが……こういう時の直感というやつは恐ろしいね。どうやら、図星だったらしく、海音寺は目を見開いていた。
 俺は言葉を重ねた。
「もしそうなら、色々と頷けることがある。向こうの世界に、自分の居場所なんて無いだろうし、あるべき未来があれば、お前はこっちの世界に来ることができて、そこで仲間やら友達やらに出会えていたはずだからな。そりゃ、どんなことをしてでも、こっちに来たいわけだ」
 そう言って、俺はにやりと笑ってやった。対する海音寺は眉根に皺を寄せて「うるせぇ……」とボヤきながら前を向いてしまった。
 どことなく寂しそうなその背中が、俺の推論を肯定していた。その背中に、俺は言ってやった。
「じゃあ、今日からお前も、友達だ」
 ぴくりと動いた海音寺の肩が、動揺を表していた。



「いやー、スマンスマン! 殴りすぎちまったぜ」
 あっけらかんと笑いながらハルヒコが言った。昼休み、俺はキョン子に会いに行こうと思って教室を出ると、ハルヒコと出くわしてしまった。パンを奢ってやるから、ちょっくら付き合え、と言われてしまい、ホイホイとついて来ちまった俺も俺だが。
 昨日、ハルヒコが大立ち回りを演じた屋上に、俺とハルヒコはやってきていた。
「ハルヒコ。俺に謝るんじゃなくて、海音寺に謝ってやれよ」
 パンを齧りつつ、俺は言った。
「んー? いや、あいつの顔面、血まみれだったろ? あそこまでグロいもんになっちまうとは思わなかったからな。お前の精神衛生に良くなかったかな、と思って、一応、お前には頭下げとこうっていうことだ」
 変なところで気を使う男である。
 俺は一応、弁明しておいた。
「海音寺には海音寺なりに、色々とあるんだよ。形だけでも良いから、頭くらいは下げといてやれ」
「殴り合ってこそ、互いの理解も深まるってもんだ。確かに、けいおんじは二度も俺を怒らせたけど、別に俺はあいつのこと、そこまで嫌いってわけでもないさ」
 二律背反のような気もするが……ん? ところで今、ハルヒコは、二度怒らせたって言わなかったっけ?
「言ったぜ。あいつは二回、俺の逆鱗を触りやがった」
「二回目が昨日のアレだよな? じゃあ、一回目ってのはいつの何だ?」
「えーっと……三年前だったっけな? 俺が中三で、ハルヒが中一で、けいおんじが中二の頃だったから……」
 じゃあ、俺にとっては……二年前、になるのか? あれ、これ、三年前だっけ? あー、もう、どっちでも良いや、それで?
「けいおんじがハルヒにコクったんだよ。それはまあ、良かったんだけどな……あのクソけいおんじ、俺の可愛い可愛い妹を散々弄んで、振りやがったわけだ。で、俺、その時にカチーンと来て、けいおんじをボコボコにしてやったわけ。いやー、自分でもびっくりだぜ、あの時は。救急車がやってくるわ、病院送りにしちまうわで、自分の腕力が空恐ろしくなっちまったからな」
 空恐ろしいのは、サラリと危ないことを明るく言っちまうお前の感覚の方だ。
 だがまあ、これで、色々なことが繋がったわけである。
 キョン子の話によると、谷口は「一度、ハルヒが振られた」と言っていたらしい。いい加減なことしか言わないくせに、こういう時は本当のことを言うんだな、谷口よ。
 そして、ハルヒは、自分の兄貴のことを怖がっていた。何故怖がっているのか、その理由をハルヒは語ろうとしなかったが、それも今なら分かる。ハルヒにとってのちょっと困ったこと、というのは、海音寺に振られた話である。でもって、それをハルヒコに話したら、憤慨したハルヒコが海音寺を袋叩きにした。病院送りにしてしまったというのだから、その時のハルヒコが、ハルヒにとってよっぽど怖かったのだろう。ハルヒにしてみれば、思い出したい過去では無かったに違いない。
 そして、昨日聞いた、海音寺の言葉。海音寺は、ハルヒの中学時代にテコを入れたと言っていた。そのテコ入れが、ハルヒへの告白だったのだろう。
 まだ、いくつか、不可解な点はあるが、それはまあ、キョン子の話と照らし合わせて、はっきりさせりゃ良いさ。そう思って、俺は空を見上げた。
 梅雨の合間の青空が広がっていた。今年も、蒸し暑くなりそうだ。