一晩よく眠り、そして目覚めてから朝ごはんを胃に収め、いつものように欠伸を噛み殺しつつ、よく眠りすぎたために遅刻寸前となってしまうのはいつものこととして、ゴム紐と鞄片手に家を飛び出し、玄関からちょうど十歩目でポニテを作り終えたあたしはいつものごとく走って学校へと向かった。
えらく山の上に校舎があるもんだから、教室につくころには、あたしはもう既にヘトヘトになってしまっていた。
「じゃ、もっと早く起きれば良いじゃない?」
あたしの嘆きにハルヒが言葉を返してくる。自分から何か話を振るハルヒも何だか珍しいわね、と思ったあたしはハルヒの顔をちらと見た。少なくとも機嫌の悪そうな声でもないし、顔だってしかめていない。口元に笑みすら浮かぶその顔は、どことなく自信に溢れているような感じである。いつものような仏頂面は、今日は家に置いてきたらしい。
結構、可愛い顔してるんだから、今みたいに笑顔で毎日を過ごせば良いのに。
そんなことをハルヒに言えば、ハルヒはどんな顔をするんだろう? 気にはなったけど敢えて訊かず、口をついて出たのは違う言葉だった。
「早く起きたくてもね、起きれないのよ」
昨日、よく眠ったのは事実。そこは間違いない。しかし、起きる間際の十分間がどれほど貴重かを思えば、いくらよく寝たのだとしても、なかなか早起きはできそうにない。昔から変わることのない習慣だし、また変えたくもない。
「そんなんじゃダメよ、キョン子」
「え?」
「時間というものはもっと大切にしないと。失った時間は二度と取り戻せないんだからね?」
なるほど、ご尤もな意見である。耳に痛い言葉ではあるけれど、それも含めてその言葉をありがたく拝領させていただこう。で、ハルヒ。どうしてそんなに笑顔でそれを言うのよ?
「ん? あたし、笑ってる?」
うん。すごい笑ってる。カエル見つけた蛇みたいに笑ってる。
「誰がカエルで誰が蛇よ?」
もちろん、あたしがカエルであなたが蛇。
「それで? そんなに笑顔なのはどうして? なんか、良いことでもあった?」
一応訊いてみた。でも、訊くまでもないわよね。ハルヒにとって、やっと退屈な時間を終わらせることができるクラブ活動を見つけたのだ。そこに今日から参加できるのだと考えて、顔がニヤついてしょうがない、ってところでしょ。
「ふふーん。ま、今はまだ秘密。放課後を楽しみにしといて」
はいはい、分かりましたよ。放課後、SOS団の活動が楽しみなんですねー、とか今のあたしは考えていたんだけど、それが大きな間違いだということに気付いたのは……ああ、情けない。ハルヒに剥かれた時だった。
放課後、すんなりとあたしをハルヒが解放するはずもなく、いつぞやのように手首をがっちりと握られたままSOS団の活動拠点たる文芸部に連れていかれた。
部室の扉を開け、中に入ると、窓際の椅子で読書をしている長門と、その傍で腕を組んでいるハルヒコの姿が目に入った。
「お、来たか、我が妹よ」
「お兄ちゃん、あれは?」
「抜かりはないぜ。準備万端だ。そっちはどうだ?」
「もっちろーん!」
そう言ってハルヒはどん、と胸を叩く。この二人には理解できる符牒であるらしく、二人は顔を合わせるなり何かを確認していた。いったい、なんだろう、とあたしが思ってると、ハルヒコが「カメラの準備して待ってるぜ」と言って部室から去っていった。はて、カメラ?
あたしがくるりと部室を見渡してみる。すると、昨日は無かったはずなのに、今は長テーブルの上にごっそりと紙束が置かれてある。よく見ると、それはあたしが昨日もらったビラとまったく同じものだった。
「へぇ、割ときれいに刷れてるじゃない。この学校の印刷機も悪くないわねぇ」
などと、言い出すハルヒ。ビラの出来栄えに満足するのは良いけど、そんなたくさんのビラ、どうすんのよ?
「あんたバカ? ビラってのは配るためにあるんじゃない」
「それはまぁ、そうだけどさ……」
「というわけで、キョン子! ビラ配りに行くから、あんたも手伝いなさい」
やれやれ。あたしは溜息混じりにビラに手を伸ばした。ここでノーと答えたところで、おそらくハルヒの意見が覆ることなどないんだろうし、素直に従うよりほかはなさそうである。
「ちょい待ち!」
紙束にあたしの指先が触れた時、ハルヒが制止の声をあげた。
「何よ? ビラ配りに行くんでしょ?」
「そうよ。でもね、普通に配ったって、目立たないし、目立たなかったら、面白い謎や不思議なことは向こうからこっちにやって来てはくれないのよ。船だって、灯台があるから港に帰ってこれるじゃない? それと同じよ」
いや、あたしはできれば灯台のような目立ち方はしたくないんだけど。しかし、むなしいかな、あたしの願いは露と消えてしまった。
「じゃあああん!」
そう言って、ハルヒは手に持っていた紙袋をごそごそと引っかき回し、次々と出してはテーブルに並べていく。
それとなく眺めていたあたしの顔は次第に、そして見事に引きつってしまった。
現れたものは誰がどう見ても、バニーガールの衣装だった。そして、バニーを着るのは九分九厘、女性であり、そして色違いで二着用意されているわけで、更に、さっきこいつはなんて言ったっけ? 「ビラ配りを手伝え」と言ったはず。
「ね、ねぇ、ハルヒ?」
「なーに?」
弾んだ声が返ってくる。あたしは一縷の望みと共に、訊いてみた。
「それ……誰が着るの?」
「決まってるじゃないの。あたしと――」
「長門よね?」
頼む、ハルヒ。二人目の名前が長門であってくれ。それがダメなら、朝比奈さんでも……あ、いや、朝比奈さんじゃダメよ、あの人は多分こんなもの着せられたら泣くにちがいない。じゃあ、一姫さんは? ……悲しいことに、このバニーのサイズを考えれば、あの人の胸が入りそうにない。
などと、若干混乱しつつあるあたしが珍しくフル回転で頭を使っていると、ああ……ハルヒはいったい、どこの女神だろうかと思えるほどの笑みを浮かべて仰ってくださった。
「ちがうわよ、あんたが着るの」
タライが天井から降ってきて頭にぶつかったかと思った。
その後、猫科の動物のごとき身のこなしでハルヒにとっ捕まえられたあたしは一度素っ裸にされてしまい、バニーガールの衣装を着せられてしまった。
あたし達が着替え終わるのと、部室に朝比奈さんが入ってきたのはほぼ同時だった。最初、朝比奈さんはあたし達二人を交互に見比べてぽかん、としていたが、そのうち、少し頬を染めて「わぁ……」と感嘆の声を漏らした。
「どうしたんですか、お二人とも? とっても良くお似合いですよ?」
無垢な笑顔と共に、朝比奈さんは感想を述べた。他人事だと思って随分と朗らかに言ってくださる朝比奈さん。似合っていると言われて悪い気はしないけど、じゃあ、あなたが着てくださいよ、とも言いたくなったが、言わないでおいた。朝比奈さんにそれを言うのはなんだか酷な気がする。
「でしょー、みくるちゃん! あたし達、似合ってるでしょ?」
あたしとは対照的なハルヒは、胸を張ってそう言った。大きく開いた胸元の谷間が何とも眩しく見える。
「はいー、そう思います」
「じゃ、次の機会があれば、みくるちゃんの分も用意しておくわ」
「へ?」
あたしと朝比奈さんは揃って声を上げた。どうやら次、とやらがあるらしい。
しかし、あたしにその「次」とやらを質問させる隙を与えずに、ハルヒはあたしの手を引いていった。
あたし達二人はこんな格好のまま、校門に向かい、ビラ配りを始めた。すごい恥ずかしかったんだけど、それだけならまだ良かった。下校しようとしている谷口と国木田に見つかってしまい、この男ども二人はぽかん、と口を開けて固まっていたし、その二人の傍らでハルヒコがデジカメでやりたい放題に写真を撮っていたし、しばらくすると生活指導担当教師と担任の岡部がすっ飛んできて、あたし達二人は生活指導室に連行され、教師連中にたっぷりとお叱りを受けた。
これ、間違いなく、内申とかに響くんだろうな……。もっとマトモな学校生活を送りたかった身としては、正直、辛いところである。
はぁ〜……ハルヒの傍にいると、こんな目にばかり遭うのだろうか? そう思うと、あたしは憂鬱な気分になった。