初日の通天閣観光、二日目の大阪城観光。それらは、ハルヒにとっては、「こなさなければならない業の一種」でしかなく、つまらなそうな顔こそしてなかったものの、心を躍らせていた、というわけでは決してない。
ハルヒにとっては、ハナからこの修学旅行は、三日目の自由行動にこそ、真の目的があった、ということなのだろう。
しおりには、起床時刻は七時で、朝食が八時となっている。ならば、七時に起きればいいだろうに、と俺は思っていたのだが、案の定と言うべきか、遠足前夜の子供そのものであるハルヒは、朝の六時には俺たち、SOS団の構成員にメールを寄越してきたのであった。
ご丁寧にも、俺にはメールに加えて、モーニングコールまであったのだから。どうせなら朝比奈さん並に甘みのある声音で「キョンくぅん、朝ですよ〜」と言ってもらえれば、気持ちのよい目覚めになったであろうに、と俺は思うのだが、そんなことは所詮、俺の理想に過ぎなかったことは言うまでもなく、携帯から漏れる大音量の「起きろーっ!」というハルヒボイスは、俺どころか、俺と同じ部屋に寝泊りしていた谷口、国木田、海音寺といったメンツまでもを跳び起こさせたほどだった。
そんな、とんでもないボリュームを発している物体を耳に当てて話をする気にはどうしてもなれず、俺はできる限り、耳から携帯を離して「ハルヒ、声がでかい」と通話口に吹き込んだ。
「これくらい大きな声じゃないと、あんた絶対に起きないでしょうが!」
お前は俺を、どれだけ朝に弱い人間だと思ってるんだ? まあ、ある意味では、否定することができない自分もいるわけではあるが。
俺はハルヒに言う。
「とりあえず、もう目は覚めたよ。で? こんな朝から、何の用事だ?」
「今から、一階のロビーに集合すること! 横にアサリもいるわよね? そいつも連れてきて」
言うだけ言って、ハルヒは一方的に電話を切った。毎度のことながら、まるで嵐だな、と思う。
俺は部屋の住人を見渡してみた。国木田は何事もなかったかのように布団に潜り込み、谷口は「あのバカ女、うるせぇんだよ……」と毒づきつつ、再び寝転がった。海音寺は溜息交じりに立ち上がり、カバンから着替えを取り出した。
「一日、疲れそうだな、キョン」
「俺はもう既に疲れているんだが……」
海音寺の言葉に俺はそう返事をし、俺も身支度を始めることにした。
「遅い!」
集まるように号令を掛けられた時、俺が最後になるのは、もはや規定事項と言ってもなんら差支えが無い。俺と海音寺は同時に部屋を出たのだったが、誰の陰謀だか知らんが、廊下を歩いている時に、俺の靴紐だけ、ほどけてきやがったのである。海音寺を先に行かせ、俺は靴紐を結びなおしてから、一階のロビーへと向かった結果、ソファの傍で仁王立ちしているハルヒからお叱りの言葉を受けた、というわけである。
「どうして、電話までしたのに、あんたは一番遅いのよ……」
号令を掛けた当人より先に現場に到着するのは不可能。そして、超能力者と宇宙人を出し抜くことはそれ以上に不可能。異世界人と俺とでは、多分トントンだが、向こうは妙にツキに恵まれているようなフシがあり、やはり俺が追い抜くことができる要素はゼロ。俺と同じくパンピー代表のポニテ少女が一人残ってくるが、こちらさんは、言いだしっぺのハルヒに襟首なり手首なりを引っ掴まれて、ここにやってきているであろうことを思えば、これまた俺が競争して勝てる話ではなかった。
つまるところ、俺はどう足掻いても、最後の到着という事実を捻じ曲げることは不可能なのであった。
「罰として、今日の昼食、キョンのおごりね!」
罰もへったくれもあったもんじゃない。いつも通りの光景、と言われりゃ、それまでなのだから。
頼むから、もう少し、俺の財布に優しい団長さんであってくれ、と思う。むなしい頼み、ということも分かってしまえる自分がいるあたり、余計に辛い。
「さて……アホが一人、遅れたことで会議の開始が遅れちゃったけど、始めるわよ!」
あてこするようなハルヒの物言いに、むかっ腹が立たないのは……俺に免疫ができたからだろうかね? そんなどうでもいいことを考えつつ、俺はキョン子の横に腰を下ろした。
U字型のソファに俺達は座っており、Uの真ん中で、ハルヒは立ったまま演説を続ける。
「あたしね、前に、三日目は大阪で不思議な物を探す、って言ったわよね?」
高らかに言っていたな、期末試験終了直後の団活の時に。
「でもね、よくよく考えてみれば、一日で大阪全土を歩きまわるのは、ちょっと無理なんじゃないかなぁ、とも思うのよ」
「当たり前だ」
俺がツッコミを入れると、ハルヒはさも意外そうな顔になって、こんな言葉を返してくる。
「そうかしら? 大阪湾上に空港ができて以来、日本の面積最小ランキングは香川県に奪われているけど、大阪が小さな面積の都道府県であることに変わりは無いのよ?」
衛星写真で見て初めて、小さいということを実感できるんだろうが。それこそ衛星写真クラスになっちまえば、俺達、人間は存在すらしていないことになる、ということにこの女は気付いているのか、いないのか……。
「体力に自信がある人なら、できそうだと思わない?」
ハルヒの言葉に対し、俺は「思わん」と言下に否定した。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてみせたハルヒだったが、すぐに表情を元に戻し、言葉を続けた。
「まあ、いいわ。どっちにしても、今日は大阪全土を歩くつもりじゃないし」
「では、どこを歩くんですか?」
古泉が発言した。ハルヒは古泉の方に顔を向ける。そして、鬼の首を取ったときでも、そこまで笑わんだろう、と思えるほどの笑顔で、ハルヒは言ったのだった。
「日本橋よ!」
ハルヒは一度、言葉を切った。一同の頭にその単語が十分に浸透するくらいの間を置いてから、口を開く。
「あたしね、この前、なんかの本で読んだんだけど、バカにでっかい電気街ってのは、世界各国の諜報組織の標的にされやすいらしいのよ」
聞いたことがない話だった。が、おそらくなんかの小説の粗筋にでも書いてあったのだろう。それくらいは、ハルヒの言葉の端々から読み取ることはできた。すなわち、そのバカにでっかい電気街とは、アキハバラのことなのだろうかね?
ハルヒは続ける。
「つまり、大きな電気街には種々雑多な陰謀が渦巻いているはずなのよ! 今日はその陰謀の一端を見つけること! いいわね?」
なんだか、色々と話が飛躍しているような気がするが、まあ良い。どうせ、こいつも、本気で諜報機関のごたごたに巻き込まれたいなどと考えているわけでもないだろう。
「ん?」
一瞬、俺の脳裏に、その『諜報機関のごたごた』に巻き込まれている自分自身の姿がよぎったような気がした。
俺はかぶりを振って、「まさかな……」と薄く笑って誤魔化した。いくらなんでも、そんな物騒な連中に巻き込まれるなんて、そんなことは……。
「それじゃ、朝ごはん食べたら、すぐに行動を開始できるように、今のうちに、班分けをしておきましょ! さ、クジ引いて」
気のせいだよな。俺はそう思うことにし、ハルヒの持つ爪楊枝を摘まんだ。
大阪市営地下鉄御堂筋線のなんば駅を下車し、なんばウォークを端っこから端っこまで突き抜けると、大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅のホームへと続く改札口が目の前に見えてくる。そこの五番出口から地上へ上がると、巨大な車道、すなわち堺筋が眼前に広がっている。
その堺筋を左に見つつ、歩道をしばらく歩いていくと、青い看板の電気屋があったり、赤い看板の電気屋があったり、オレンジ色の看板のDVDショップがあったり、と実に賑やかで煌びやかな店が軒を構えている。
それが表通りの様相であり、一本、裏道に入れば、黒い看板、緑色の看板、紫色の看板がそれぞれに自分達の店を主張するかのごとく、ビルの壁にでかでかと立てかけてあるビルもあった。なんでも、黒い看板は一階の店舗であり、パソコンの周辺機器やらを扱っているらしい。二階の緑色の看板の店は、大阪におけるサブカルチャーの聖地、と呼ばれている――と、さっき道ですれ違った男がいやに熱っぽく言っていた――店がワンフロア全てを占有していた。三階の紫色の店は……詳しくは知らん。その、道ですれ違った男が、何か言っていたような気もしたが、聞き逃してしまったもんでね。
朝のクジ引きの結果、俺はキョン子、一姫の二人と行動を共にすることとなった。そして、ハルヒ、長門、古泉、海音寺は別働隊として動くそうである。
ハルヒは、どっかの諜報組織の陰謀を一つでも多く見つけて来い、と言っていたが、そんなもんが本当に電気街の片端に転がっているはずがないので、俺はキョン子と共に、適当にその辺をぶらりと歩きまわることで、昼まで時間を潰すことにしたのであった。
ん? 一姫はどうしたのかって? さぁね、俺にも分からん。
「機関に関する用事が、日本橋で一つありまして。それを片づけておきたいので、今回のパトロールは、どうかお二人でお願いします」
そう言い残して、一姫は、俺達と途中で分かれたのである。食えない一面のある、あの一姫のことだ。本当に日本橋に用事があるのかどうか、怪しいところではあったが、俺は敢えて気にしないことにした。薮蛇は嫌だったからな。
しかし、まあ、考えてみれば、俺はキョン子とコンビを組んで、こういったパトロール活動をしたことがなかったわけである。一緒にいて、楽しい女の子なのは確かだし、二人っきりのこのシチュエーションを嬉しくないか、と訊かれりゃ、嬉しいと言わざるを得ない。
そもそも、修学旅行とは、楽しむものである。なら、素直に楽しめば良いだろう、と俺は思った。
携帯を取り出し、時間を確認する。ハルヒの指定した集合時間は十三時ジャスト。現在、十一時三分であり、集合時間まではまだ間がある。
「なあ、キョン子」
俺はキョン子に声を掛けた。すると、先を歩くキョン子は振り返った。
「なに?」
「どっか入りたい店とか、あるか?」
既に、何軒か、目に留まった電気屋には出入りしてみたのだったが、特に買いたい物があったわけでもなく、そんな状況下で潰せる時間ってのはたかが知れているというものだろう。
キョン子は少しの間「そうね……」と考えてから、言った。
「さっき、一軒、入りたい店を通り過ぎたんだけど」
「うん?」
「そこ行かない?」
疑問形で言葉を締めくくった割には、キョン子は既に来た道を引き返していた。妙なところで行動力を発揮するあたり、ある意味ではハルヒに似ているとも言えるキョン子の姿を見ていた俺は、ああ、だから水と油のはずのハルヒともウマが合うんだろうな、と何気なく思った。
その後、裏通りを歩き続け、一軒のビルの前に俺達二人はやって来た。キョン子は一度振り返り、俺をちらと見てから「ここよ」と言った。
俺は言った。
「ここ? ここ、パソコンショップじゃねぇか? こんなところに興味あったのか、お前?」
「ああ、違う違う。ここの二階」
「二階? 二階って確か……」
俺はビルの壁に立てかけられている看板を見た。俺の目が狂っていない限り、その看板によると、二階に入っているテナントは……なんてこったい、さっき、道をすれ違った男が、話の種にしていた、緑色の店舗ではないか。
ところで、どうでも良いが、そのすれ違った男。頭に旋毛が二つあったんだが……あれは、天然物だろうか? 俺は生まれて初めて、頭に旋毛が二つある人間を見たんだが……まあ、その話はさておき。
「二階の店に行くのは良いとして、だ。入り口はどこだ?」
「確かに、ちょっと分からないかもね、初めて来た時は。あたしも、最初はここの入り口、分かんなかったし」
「ほー? お前、ここに来たことがあるのか?」
俺がそう言うと、キョン子は「まあね」と答えつつ、俺を手招きした。
誘われるがまま、俺はキョン子の後ろをついていく。すると、人一人が入れるようなスペースの入り口があり、そこをくぐると、右手に二階へと続くエスカレーターがあった。
キョン子は言う。
「知ってないと、ちょっと分かんないでしょ?」
どことなく得意そうに語るキョン子に、俺は「ああ」と同調した。
「ところで、キョン子。具体的に……ここの二階、なんの店なんだ?」
「うーん……それを訊かれると、答えに困るのよねぇ……」
形の良い顎に手をやり、うーん、と考え込むキョン子。俺は首を傾げて「なぜだ?」と訊き返した。
「何を売っているかと言われると、まあ、何でも売ってるわよ、と答えることができるから」
「何でも屋か?」
「ま、そうとも言うかも」
そう言って、キョン子はエスカレーターを降りた。彼女に続いて、俺もエスカレーターを降りる。そして左に顔を向けた途端……
キョン子が消えた。そう、思わされるほど、忽然と姿を消してしまったために、俺は「キョン子?」と彼女の名を呼んでしまった。
「はやくはやく、こっちこっち!」
万引き防止のゲートの向こう側で、キョン子が俺を手招きしていた。俺がそちらに一歩を踏み出す頃には、キョン子は、ハルヒ並みの勢いで店の奥へ、奥へと歩いていった。
あの勢いの良さから察するに、なにか、欲しいものでもあったのだろうか。陳列されている商品を見るに、この店はどうやら、本を取り扱っているらしい。まあ、店の名前に、本の英単語が含まれているあたり、本屋っぽい店だな、とは思ったが。
寒い季節であり、出不精な連中が増えがちな時期であるにもかかわらず、この店には結構な客が入っていた。俺は、陳列棚だけではなく、そういった客連中の間を縫うようにして歩き続けているうち、キョン子の後姿を見つけることができた。
キョン子は赤い背表紙の文庫本が並んでいる本棚を睨むようにして見つめていた。
「どうした? 欲しい本でもあったか?」
俺が訊くと、キョン子は少しばかり残念そうな顔になって「逆ね」と答えた。
「欲しい本が、無いのよ」
「無い?」
「うん。読みたいラノベのシリーズがあるんだけど、それを書いてる作者が、いまだに新刊を出さないのよ」
「まあ……読みたい本ってのは、発売日が待ち遠しいからな」
「その発売日すら、延期しすぎて、うやむやになってるんだけどね」
それは、作家としてどうなのだろう? 物書きの気持ちなど、経験のない俺が語れるはずもないが、それでも、楽しみにしている人達の困っている顔を眺めるのが楽しい作者など、いるはずがないと俺は思うのだが……。
しんみりした気分に浸っていた俺に、キョン子は「ま、慣れたけどね、もう」と言った。
「え?」
「いつか、出してくれると、信じて、待つ。あたし達、読み手にはそれしかできないけど、次の話がどうなるのか、自由に想像することはできるし、それをする権利くらい、あたし達にだって、あると思わない?」
「ま……あっても良いとは思う、かな」
「でしょ? ……あ、ところで、キョン。物は相談なんだけど……」
「なんだ?」
「そっちの文庫本なんだけど、前々から、あたし、それ、読んでみたかったんだ」
そう言って、キョン子は俺に笑みを向けた。太陽、という単語を思い出さずにはいられないほどの笑顔だった。
……そんな顔で俺を見ている、ということは、あー……つまり、その……なんだ?
「俺に、買ってほしい、ってのか?」
「うん、まあ……そう」
そう言って、ぺろり、と舌を出すキョン子。まあ良い……。他でもない、キョン子のお願いなのだ。本の一冊や二冊、欲しいと言うなら、買ってやっても良かろう。
キョン子が指差している本の背表紙に、俺が手を触れた時だった。庇護欲という言葉が、ふと、俺の脳裏に浮かんだのであった。
その後、俺達は一度集合し、昼飯を食い、再び、クジによって班分けを行なった。
第一班が、ハルヒ、キョン子、長門、一姫。第二班が、俺、古泉、海音寺、といった具合である。
ハルヒは女性陣を引き連れて、さっさと飯屋から出て行ってしまった。見事に、男と女に分かれたわけだが、一人くらい、こっちに女がいても良かろうに、と俺が店の勘定を済ませながら、そんなことを考えていると、古泉が「好都合ですね」と言い出した。
「何が?」
俺が古泉の方を振り返る頃には、古泉は海音寺に「長門さんに、クジの操作でもしてもらいましたか?」と言っていた。
海音寺は答える。
「まあ、多少は頼んでおいたさ。まさか、ここまできれいに、男と女に分かれちまうとは……さすがに、予想していなかったけどな」
「おい、なんの話だよ?」
俺が二人に詰め寄ると、古泉が俺の問いかけに答える。
「おや、失礼。あなた抜きで話を進めてしまいましたね」
店の外に出ながら、俺達は会話を続ける。
「では、海音寺君。キョン君に説明をお願いしますよ」
「ま、そんな大層な説明なんて無いんだけど……ま、アレだ。簡単に言っちまえば、午後は、お前に会わせたいやつがいるから、そいつに会ってほしいんだよ」
「会わせたい? 誰だ?」
俺は訊いた。すると、海音寺は勿体ぶるように「今、教えてやっても良いんだけどなぁ……」と言った。
「どうせ、お前、誰のことか、見当もついてないだろう? なら、サプライズってことで、誰かは言わないでおいた方が、面白いかもな」
そう言って、海音寺は歩き始める。俺と古泉も海音寺を追うようにして歩き始めた。
その後、俺は海音寺の言う「会わせたい人」に会わせられたのだったが、確かに、海音寺が言うように、『サプライズ』としか言い様がなかった。俺が今まで頭の片隅に引っかかっていたもやもやを見事に、きれいさっぱり払拭してくれるくらいの、とんでもないサプライズだったのだから、今回の一件に関する謎は、その男が全て解決してくれたと言っても過言ではあるまい。
では、その男との出会いについて、述べねばなるまい。
そう、裏通りをくねくねと歩き続け、行きついたのは一件の喫茶店だった。
喫茶店の戸をくぐったその先に……