涼宮ハルヒの追付

第四章

 ……俺は思わず、凍りついたかのように固まった。
 喫茶店の中央で、威風堂々という言葉を体現するかのように、男が一人、仁王立ちしていた。
 自信に溢れた表情と、決して揺らぐことのない双眸。何が起ころうとも、いつだって余裕の雰囲気を漂わせることができるであろう、口の端に浮かんだ笑み。黒いマジックで書かれた「店長」という赤色の腕章を右腕につけており、頭に黄色いバンダナをつけたその男は……
「久しぶりだな、キョン。会いたかったぜ?」
 その男――涼宮ハルヒコは口を開いた。更に俺を驚かせたのは、カウンター席のスツールに腰掛けて、コーヒーを飲んでいたのが……
「やあ、久しぶり。元気だったかい?」
 朝倉涼だったことである。
 いや……というより、俺は……何故、涼宮ハルヒコという男と、朝倉涼という男の存在を、知っているのだろうか? 会ったことがないはずであるのに、どうして、俺はこの二人の男の名前を、こうもはっきりと知っているのだろう?
 ……その問いが愚問だということを、俺が気付くのに、数秒もかからなかった。昨日、古泉たちが言っていたではないか。俺は既に、答えを知っているはずだ、と。
 その言葉は正しかった。そう、俺は確かに、涼宮ハルヒコも、朝倉涼も、知っているのだ。知っているはずなのに、存在を忘れていた、忘れさせられていた。
 ハルヒコや涼の顔を見て、俺は忘れていたものを全部、思い出すことができた。そして、俺が今まで感じていた様々な違和感の正体にも、俺は気がついた。
 俺は海音寺と古泉の顔を見比べた。古泉はいつものように微笑を浮かべており、海音寺は「これが、答えだ」とでも言いたげな、したり顔をしていた。



「ひとまず、もやもやが無くなって、すっきりしたろ?」
 テーブルの対面に座っている海音寺が、俺にそう話しかけてきた。俺は「まあ、な」と答えた。
 夏休み明けから感じていた、何かが足りないような感覚。それは、ハルヒコが北高からいなくなったから感じていたんだと、今なら理解できる。
 そして、夏休みの記憶に関しても、どことなく違和感を覚えていたが、それも、同じようにして説明ができる。
 俺たちは夏に、夏祭りにも、カラオケにも、映画にも、花火大会にも行った。当初、俺は、それらを提案したのはハルヒだと記憶していたが、今なら、それが間違いだったと断言できる。それらを提案したのは、ハルヒコだったのだから。
 ついでに言えば、それは夏休み後半の活動である。夏休みの前半は……そう、去年と同じく、孤島に行ったんだった。その孤島で、古泉たちの所属している機関と、長門の親玉である情報統合思念体、それぞれのドラスティックな集団が、ハルヒの不思議パワーを求めて、アサルトライフル片手に強襲してきたのだった。
「その件は、心からお詫び申し上げます」
 俺の斜向かいに座っている古泉が、そう言って頭を下げた。
「一時期、機関の強硬派を、押さえつけることが難しくなりまして。今後は、そのようなことが起こらないよう、機関の者に徹底させますので」
「まあ、その件に関しては、こっちにも問題があったことも事実。僕からも君に謝っておくよ」
 古泉に続き、涼も頭を下げた。しかし、俺は別に、古泉や涼を責めるつもりなどなかった。こいつらは、こいつらなりのやり方で、俺とSOS団を救ってくれたのだから、むしろ俺は古泉にも涼にも感謝しているくらいである。
 ちなみに、朝倉涼とは、長門有希や朝倉涼子と同じく、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースだそうである。オリジナルのインターフェースである朝倉涼子を元に、長門の親玉の穏健派が、長門のサポーターとして作ったのだと、初めて会った時に、涼は俺に語ってくれた。
 それらが、俺の夏休みの記憶である。では、夏休み以前に、何があっただろう? もう少し、思い返してみることにする。
 一学期の期末試験があり、それが終了すると、確かハルヒは夏休みの予定を空けておけ、と言った。それは、前述のとおり、孤島への旅行のためである。
 期末試験の前は、梅雨時の六月で、確か、草野球大会に参加したはずである。そして、その前は……
 そう、その前は、涼宮ハルヒが世界を修正したのだった。三月くらいに、俺がハルヒに余計なことを聞いてしまい、それに漬け込んで、海音寺が異世界からワープしてきて、俺の周囲の環境が、色々と変化してしまったのだった。
 その変化を具体的に挙げるならば、キョン子という少女の存在を挙げることができる。そして、古泉一樹が古泉一姫に変身し、新たなる古泉一樹が存在するようになった。俺が二年生であるにもかかわらず、ハルヒを筆頭に、俺の知り合いの人間のほとんどが一年生になってしまったり、涼宮ハルヒコという三年生が出現したりしたわけである。
 そこまでは、思い出すことができた。俺が、夏休みの直後から感じていた違和感も、説明がついたことで、解消した。
 しかし、ここで新たな問題がいくつか浮上する。
 ハルヒやキョン子は、確か、夏休みの間は一年生だったはずである。何故、夏休み終了と同時に、二年生になっているのだろうか?
 さらに言えば、涼宮ハルヒコが北高から消えてしまったのは何故なのか?
 そして……ここが一番の問題なのだが、何故、俺を含め、ほとんどの人間の記憶が、書き換えられてしまったのか?
 八月三十一日を境に、何かしらの変化が起こったことは、間違いない。では、その変化とは? 俺はまだ、それが分からないし、それが分からないことには、「答え」が分かったとは言いがたい。
 俺は身を乗り出すようにして、一同に尋ねた。
「聞かせてくれないか? 夏休みの終了と同時に、いったい、何が起こったのかを」
 俺の問いに対し、言葉を返してきたのは古泉だった。
「涼宮さんが、世界を修正したことは、キョン君、あなたは覚えていますね?」
「ああ」
「世界は一度、涼宮さんによって、修正されてしまったわけです。しかし、それにもかかわらず、未来には何の影響もない。それは、未来人である朝比奈さんに確認済みですから、間違いありません。では、僕は逆にあなたに訊いてみたいのですが……未来に何の影響もないのは、何故でしょう?」
「訊かれても、俺に分かるわけがないだろう」
 俺がそう言うと、俺の横に座っている涼が口を開いた。
「分からないんじゃなくて、分かろうとしていないんだよ、キョン君。いいかい? 過去になにがしかの変化があったのに、未来には変化が起こらない。これはつまり、その未来へ時間的に追い付くより先に、その変化を打ち消すような変化が涼宮ハルヒの意志とは別に起こってしまった、と考えるより他は無い、ということさ」
 なんとも小難しい話だな……。内心でそんなことを思っていると、俺は朝比奈さん(大)が、こんなことを言っていたのを、ふと思い出した。
『今回の涼宮さんの世界修正は、時間的には非常に局地的な変化なの。そして、その変化が局地的なために、行き場を失った時間の波動はやがて空間に干渉して、時間、空間、双方に歪みができる。これら二つの歪みによって位相が変化し、干渉して、新しい波が発生して、その波が再び、時間と空間に干渉する。だから、未来がそのまま進行したとしても、結果として多少の変化は、変化していないものと近似されてしまう』
 ……あの人も、涼が今言ったのと同じくらい、小難しいことを言っていたわけであるが……要は、こういうことか?
「つまり、ハルヒは世界を修正したが、それはあくまでもハルヒが無理やり、世界を作り変えただけであって、世界そのものはハルヒの意志とは無関係に、元に戻っている、ということか?」
 俺の問いに対し、一同は首を縦に振った。状況をなんとか理解できた俺はひとまず安堵する。
 古泉は言った。
「世界が元に戻ってしまえば、確かに、未来への影響はありません。そして、世界が元に戻りつつあるのだと仮定すれば……先ほどの、あなたの疑問も、おのずと答えが見えてきます」
 古泉はそこで言葉を切り、海音寺がその後を引き継いだ。
「涼宮やキョン子が、夏休みまでは一年生だったが、夏休みを境に二年生になっちまったのは、涼宮の『元々』が二年生だったからだ。そして、ハルヒコが北高からいなくなったのも、北高には元から、ハルヒコという生徒は存在しなかったためだと言っていい。お前を含め、多くの人間の記憶が書き換えられたのも、ある意味では当然だよな。お前が、ハルヒコのことを忘れていたのは、元々は、ハルヒコという男は存在していなかったわけだし、存在していなかったものを記憶しておかなければならない理由はない、ということになるからな」
「……いや、待てよ」
 俺は反論した。「その『元々』っていう話を引っ張ってくるなら、一姫や、キョン子や、海音寺は、元々はいなかっただろう? それに、北高からはいなくなったが、ハルヒコなら、そこに突っ立ってるじゃないか? 本当に、その仮説は正しいのか?」
「素晴らしいアンチテーゼですね」
 古泉が答えた。
「確かに、涼宮くんは完全には消えていませんし、言うなれば、『半消失』というところでしょう。それに、一姫姉さんも、キョン子さんも、海音寺君も、消えてはいません。僕らの仮説は、一見すれば、否定されたように思えます。しかし……仮説が覆されたわけではないのですよ」
「どういうことだ?」
「簡単な話です。この世界の反発力が、涼宮さんの誇るパワーに比べて、圧倒的に小さかった、というだけのことですよ」
「……もう一度、訊こう。どういうことだ?」
 反発力だの、パワーだの、具体的な単語が出てくる割には、修飾語である「この世界」や「涼宮ハルヒ」がえらく抽象的で、かえって分かりにくいんだが。
「すなわち、涼宮さんが行なった世界修正は、一瞬のできごとであるのに対し、その修正に対して、この世界が自分自身を元に戻そうとする変化は、ひじょうにゆっくりとしたのもで、時間がかかっている、ということですよ」
 つまり……時間と共に、世界はゆっくりと、元に戻っていく、というわけ、か。俺はひとまず、納得した。
 ん? ということは……おい、まさか!
「つーことは、アレか? いずれは、ハルヒコだって消えちまうし、それはつまり……一姫も、キョン子も、海音寺も、消えちまうってことじゃねえかよ?」
「ご名答です」
 そう言って、古泉はできのいい生徒を見るような目をした。
 ふざけるな、冗談じゃないぞ! かっとなった勢いでそう叫びそうになった俺だったが、それを制するかのようなタイミングで「へーい、コーヒーお待ち!」と、ハルヒコがやって来た。
「勘定は気にすんな、俺のおごりだからよ!」
 なんとも気前の良い男である。この気前の良さを、少しくらい、ハルヒも見習った方が良いのでは、とも思う。
 というより……この男は、何事につけても、泰然自若であり過ぎていると言って良い。いつの間にやら、この男は北高を追い出されてしまっているにもかかわらず、ハルヒコは、まるで何も起こらなかったかのように、落ち着いているようですらあった。
「ところで、あんた……なんでまた、こんな辺鄙なところで、喫茶店の店長なんてしてるんだ?」
 俺はハルヒコに尋ねた。
「んー? なんでだろうな? 俺にも分からん」
「分からんって……というより、あんたは確か、八月三十一日の時点では、まだ、北高の生徒だったんだよな?」
「ああ。それが、九月になるやいなや、いきなり、喫茶店の店長になっちまってた」
「いったい、なにが起こったんだ?」
「さっき、カウンターからお前らの話を聞かせてもらってたが、多分、お前らの推測の通りだろうよ。九月一日を境に、世界の方が、ハルヒの世界修正とやらに反発する格好で、変化を開始したんだろ? その変化に、俺が巻き込まれた結果が、今の俺、なんだろ」
「でも……お前、ハルヒの兄貴じゃなかったのか?」
「それは、ハルヒが自分の都合の良いように作ったシナリオの産物だろうが。元々の世界に、ハルヒにゃ兄貴なんていなかったわけだから、今の俺は、ハルヒの兄貴じゃあない。ただ……」
 ハルヒコは、まるで何かを躊躇するかのように、そこで一度言葉を切った。おれが「ただ?」と続きを促すと、ハルヒコは言った。
「そんな理屈だけで、割り切れるほど……簡単な話じゃないことは確かだ。正直なところ、俺はハルヒを自分の妹だと、思わずにはいられないからな……」
 そう言った時の、ハルヒコの目には、ありありと寂寥感が浮かんでいた。



 確かに謎は解けた。しかし、これで良いのだろうか? 事件が解決したとは、およそ言い難い現状に、俺はどうしたものかと頭を巡らせていた。
 俺は、あのハルヒコの寂しそうな目を見てしまった。見てしまったからには、もはや、知らんぷりをすることはできそうになかった。
 ハルヒが、自分の都合で生み出した存在が、涼宮ハルヒコである。しかし、その存在は、この世界にとって、相容れないものであるが故に、世界が元に戻ろうとする力によって、ハルヒコは今、存在を否定されつつある。
 おそらく、ハルヒコは無念の気持ちでいっぱいなのだろう。この世界に、自分が生きた証を何一つ残すことができないまま、この世界から消えなくてはならないのだから。
 そして、それらは、海音寺や、一姫や、キョン子にも当てはまる。彼らも、いずれはハルヒコと同じく、消えてしまうことだろう。自分の意志とは無関係に、消失してしまうことだろう。
 俺は、彼らが消えていくのを、ただ、指を咥えて見ているだけで良いのだろうか? というより、指を咥えて、見ていることしかできないのだろうか?
 自問してみたが、結局のところ、俺は、自分自身に対してすら、返す言葉を思いつけなかった。
 何かをしなければならないのだろう。しかし、何をすれば良い? 俺に、何ができる?
 俺には、分からなかった。
 喫茶店を出てからは、俺は海音寺や古泉と共に、ハルヒの指定した集合場所に向かっていた。その間の俺達は、ほとんど無言だった。
 いや、というより……俺が、その場の空気を重くしていたのかもしれない。俺が必要以上に、むっつりと黙りこくってしまったもんだから、海音寺も、古泉も、言葉を発することができなかったのだろう。
 だって、会話なんてできるかよ? こっちはとてもじゃないが、そんな気分にはなれそうもない。
 いつのまにか、ダチが、仲間が消えていくんだ。それも、下手をすれば、俺が気付かないうちに、ひっそりと、だ。そんな、寂しい話があるか? 悲しい話があるか? 理不尽な話があるか?
 そんなことを考えてばかりいたからだろうな。俺の気分は、塞ぐ一方だった。