West area

リーダーの苦悩 ‐ Scene 1

 夢ならば、醒めて欲しい。
 素直に、そう思った。
 まったくもって、縁起でもないだろうが、六木本劾め。

 お前の葬式の夢など――



「会長」
 名を呼ばれた桐原綾華は我に返る。
 どうやら、少し寝ていたらしい。焦点の定まらない目をこすりつつ、綾華は「どうした、六木本」と尋ねた。
「え? あ、あの、会長? 劾さんは……その……」
 さも言いにくそうな口ぶりである。そこに立っている男を注視した綾華は、はたと気付いた。
 先日、六木本劾に代わって、副会長になった男が、そこに立っていることに。
 そして綾華は思い出す。
 もう、この世には、六木本劾という男はいないのだ、ということを。
 あの夢は、幻想ではなく、現実だったっけ、と綾華は思い出した。
「……いや、良い。間違えた私が悪かった」
 ひとまず、その場を取り繕う声を発した綾華。そんな彼女に、副会長の男は言う。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫、とは?」
「いえ、会長が居眠りするなんて、今までだったらあり得なかったことですから」
 副会長の言葉は綾華の心をドキリとさせた。
 副会長は言葉を続ける。
「疲れてるのなら、今日はもう、家に帰って、体を休めたらどうですか?」
「そうもいかんだろう? 二月祭が終わったばかりで、費用の決算やらなにやらで、まだまだ忙しいというのに……」
「それくらい、任せてくださいよ。我々、下の人間に」
 そう言って、にっと笑う副会長。
 綾華には副会長のその顔が、死んだはずの六木本劾と重なって見えた。
(疲れている、のかも……)
 目頭を揉み、重い息を吐く。今日の所は、副会長の言葉に甘えることにしよう、と綾華は決めた。



 波乱に富んだ二月祭だった。
 二月祭の初日に、レッドフェザーを名乗るゲリラグループが白百合学園を訪れた。そして彼らは白百合学園で暴れるだけ暴れて、音もなく消えていった。
 阿鼻叫喚の嵐が巻き起こったため、もはやお祭りムードではなくなってしまったようで、三日間にわたって開催されるはずの二月祭だったのだが、二日目と三日目は中止とされた。
 降って湧いた休日となった二日目と三日目だったが、それを素直に喜べる生徒は白百合学園には一人としていなかった。
 二日間の休みが明け、学校へと戻ってきた神坂潤は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 今は授業中なので、当然ながら、先生の話に耳を傾けなければならないはずである。一応、クラスのみんなは、表向きは授業を聞いているフリをしているが、実際の所は誰も授業など聞いていなかった。そして、それは教壇に立っている教師にしても同じなようで、いつもなら、教えようとする熱意がもう少し伝わってくるところなのに、おざなりな講義をしているに過ぎなかった。
 言ってしまえば、先生も生徒も授業どころではない、ということだ。
(そりゃ、そうだよな……)
 無理もない。白昼堂々、自分たちのテリトリーのど真ん中で、テロが起こったのだ。その衝撃から立ち直るには、まだまだ時間がかかるのだろう。
 何とも言えない倦怠感に包まれた教室に、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。先生は最後に「じゃ、今日の所、復習しておくように」という常套句を述べたが、中身のない授業を復習する意味などあるのだろうか、と潤は思った。
「復習か。こんな時に、やる気になんねぇよなぁ……」
 先生が教室から出て行った後、潤の横に座っている世田谷翔が話しかけてきた。概ね、潤は世田谷に賛成しているが、世田谷の場合、常時やる気が無い気がする。
「で、潤。どーすんだ?」
「何を?」
「ぶ・か・つ。なんつーか、部活やろう、っていう気分でもなけりゃ、雰囲気でもねーだろ。家庭科部、行くのか?」
「そう言う、世田谷は?」
「ああ、俺はパス。そんな気分じゃねーし」
 じゃ、また明日な、と言い残し、世田谷は教室から出て行った。
 ……いや、待て。
「ホームルームまだ終わってないよっ!」
 潤は叫んだが、世田谷が教室に戻ってくることは無かった。



「――てなことがあったんだけど」
「へぇ?」
 放課後の家庭科室。潤はホームルーム直前の世田谷の行動を、羽住悠里に語っていた。
 羽住悠奈は掃除当番なので、しばらくしないと家庭科室にはやって来ないだろう。御浜結衣は、今日はバイトがあると言っていたから、おそらく来ない。そして、世田谷はあんな調子だったし、いつもより少し寂しい家庭科室の風景だった。
 二月祭の直前までは、その準備に追われていたこともあり、この家庭科室も割と賑やかだった。そして、剣道部と合同で出店することになっていたため、剣道部の人間――主に、桜ノ宮永久など――が、よく家庭科室に出入りしていた。
 二月祭が終われば、剣道部と家庭科部との間に、特に関係らしい関係は残らなかった。剣道部の面々は今頃、体育館で竹刀を振っていることだろう。
「なんか、すっかり、静かになっちゃったよね」
 家庭科室をぐるりと見回し、潤はそう言った。すると悠里も家庭科室を見渡し「ホントよね」と同意する。
 潤は言う。
「二月祭も……あんなことになっちゃったとは言え、終わったことは終わったわけだし。残ってるのは、期末試験くらい、か」
「そうね……。気付けば、もう一年間が終わっちゃうんだよね」
「速い、よね。時間の流れって」
「ねえ、潤くん」
「何?」
「一年間、白百合学園で過ごして、どうだった?」
 悠里の問いに、潤はすぐには答えられなかった。少しの間、視線を宙に彷徨わせた後、潤は言う。
「……どうだろう。なんか、一年間が過ぎるのって、速いなぁ……って思うくらいで、特に感想らしい感想も無い、かなぁ……。そう言う、悠ねえは?」
「私? 私は胸を張って言えるわ。今年一年は、楽しかった、って」
 言って、悠里はにこやかに笑った。
「では、その張った胸を、是非とも揉ませておくれよ、悠里」
「……って、会長さんっ!?」
「ひゃ、わっ? あ、綾華、いったい、どこから!?」
 瞬間移動でもできるのか、悠里の背後にいつの間にやら桐原綾華がいた。そして綾華は悠里の脇の下に手を伸ばし、二つの山を鷲掴みにしていた。
「いつ触っても、見事な乳だ、うん。いやー、やっぱり、邪魔する人間がいないってのは良いもんよね、いつまでも触ってられるし」
「も、揉まないでよ、綾華! あうぅ……」
 止めたほうが良いのだろうか。そう思い、潤が腰を浮かせた時だった。もぞりもぞりと動いていた綾華の指が、ピタリと制止した。
「なんだろう。なんか、満たされない……」
 そう呟くと、綾華は悠里の胸から手を離した。
 綾華から解放された悠里は、涙目になりながらも「満たされないって、何が?」と訊いた。
「うーん……なんだろうな……。なあ、神坂」
 綾華に名を呼ばれた潤は「はい?」と間の抜けた声を出した。
「分かるか、お前?」
「……何を分かれ、と?」
「いや、私が、悠里の乳を揉んでも、ちっとも満たされない理由が、だ」
 そんなもん知らん、と言いそうになった潤だったが、綾華が目上の人間だったことを思い出し「知るわけないでしょう、ぼくが」と答えた。
「どうしても、分からんか?」
 再度、綾華は尋ねてきた。
「どうしても、分かりません」
「なら、揉んでみろ」
「は?」
「お前も悠里の胸を揉んでみろ」
「……は?」
「お前も揉めば良い。そうすれば、私の満たされない気持ちが分かるはずだ!」
 妙な力説をしてくる綾華に潤は「あんた、バカですかっ!?」と叫んでしまっていた。
「白百合学園始まって以来の秀才って言われてますけど、会長さん、あんた実は、結構なバカでしょっ!?」
「そこまで過剰な反応を示すとは……。神坂、お前、さては、悠里の胸を揉むことに恥じらいを覚えるお年頃か?」
「恥じらい以前に、もっと大きな問題があるでしょうがっ!」
 言うだけ言って、潤は肩を上下させる。そして潤は深い溜息を吐いた。
 この会長の相手をするのは疲れる。よくもまぁ、六木本劾という男は、この会長を制御できたものだ、と潤は素直に感心した。
 それだけでも、劾という人材は貴重だったと言える。失ってしまうには、余りに貴重な人材であった、と。
 必要としたい人間は、必要な時には消えている。
 そんなことを、潤は考えてしまっていた。



 肩を怒らせて、声を張り上げる神坂を眺めていた綾華だったが、後輩に暴言を吐かれたことに気分を害したりはしなかった。

 いや、むしろ……

 自分を叱責するその姿が、自分の片腕だった男の姿に酷似しており、綾華は思わず目をしばたたく。
 次の瞬間、神坂の顔と、六木本劾の顔とが重なって見えた。
「六木本……?」
 死んだはずの男の名を呟いた時、綾華は強烈な目眩に見舞われた。

「綾華?」
「会長さんっ!」

 悠里と神坂の声が、綾華の耳に届く頃には、綾華は床に倒れていた。



 昼休みの教室で、潤は悠奈と共に弁当を囲んでいた。
 そんなのどかな雰囲気をぶち壊しにするかのように、
「倒れたぁ!?」
 と目を丸くして叫んだのは悠奈だった。
「ちょっと、潤! それ、本当なの?」
「うん……というか、悠奈、知らなかったの?」
「知るわけないでしょ! あのパーフェクト人間の代表みたいな綾華さんが、ぶっ倒れたなんて、あたしは初耳よ!」
 椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、悠奈は潤にそう言った。
「悠ねえから聞いてなかったの?」
 潤が尋ねると、悠奈は「聞いてないわよ。お姉ちゃん、何も言ってなかったし」と答えた。
 潤はパンを囓りつつ、悠奈に言う。
「なんでも……過労らしいよ。二月祭が終わってから、生徒会が忙しかったとかなんとか」
「でも……過労っていうのも、何かおかしくない?」
「おかしい? どこが?」
「忙しいのは、会長の綾華さんだけじゃないでしょ? 倒れるくらい忙しいなら、他の生徒会の役員だって、倒れていてもおかしくないし」
 綾華さん、見た目によらず、結構タフらしいしね、と付け加えた悠奈は弁当箱のゆで卵を口に含んだ。
 卵焼きを飲み込んでから、悠奈は続ける。
「それだけタフな人が倒れるくらいだもん、他の人だって倒れていたっておかしくないし。でも、他の人は倒れてないんでしょ?」
「うん。他の役員が倒れたっていう話はぼくも聞いてない」
「でしょ? ということは、単なる過労ってわけじゃ、ないんじゃない?」
 悠奈の推測には、納得できるところがあるな、と潤は思った。
「ねぇ、潤」
「ん?」
「せっかくだし、綾華さんのお見舞い、行かない?」
「お見舞い? うん、そうだね……。二月祭じゃ、お世話になったんだし」
 潤は悠奈の提案に賛成した。



 放課後、潤は悠奈、悠里の姉妹と一緒に、ヤマシロ中央病院へとやって来た。
 三人で綾華の病室に入ろうとした時だった。病室の扉が開き、中から一人の男が姿を現した。
「お?」
 その男はこちらに気付いたらしい。にこやかな笑みを浮かべて、歩み寄ってきた。
「会長のお見舞いかな?」
「はい……そうですけど……」
 潤は相手の男を観察した。着ている制服は、自分たちと同じだったので、この男は白百合学園の生徒なのだろう。
 しかし、見覚えのある顔ではない。それは悠奈や悠里にしても同じらしく、二人とも、目の前の男に訝かしむような目を向けていた。
「ああ、そうか。俺のこと、知らないんだったっけな、君たち」
 そんな三人の目を見た男は、微笑みを絶やすことなく、言葉を続ける。
「俺は猪狩進太郎(いかり しんたろう)。生徒会の副会長だよ」
 そう言って、猪狩は潤に手を差し出してきた。どうやら、握手を求めているらしい。
 拒絶する理由も無かったので、潤はその手を「はぁ、どうも」と言いつつ、握りかえした。
 スラリとした長身と、爽やかな顔立ち。劾と違い、精悍さは感じられないが、頼りになりそうな雰囲気を醸し出しているところに関しては、劾に引けを取っていない。誰が選んだのかは分からないが、生徒会の副会長としては、適切な人選だと、潤には思えた。
 潤は尋ねる。
「猪狩さんも、会長さんのお見舞いですか?」
「ああ。ついでに、生徒会での報告も兼ねてね。その報告も終わったし、今から俺は帰るところだよ」
「それじゃ、ぼく達とは入れ違いになりますね」
 言いつつ、潤は病室の戸に手を掛ける。すると猪狩は「あ、ちょっと待った」と言った。
「一応、忠告しておきたいんだが……」
「はい?」
「会長、今、すごく機嫌が悪い」
「……はぁ、それで?」
 猪狩が何を言わんとしているのか、分からなかった潤はそう訊き返した。
 行動的な、あの会長のことだ。入院中は何もすることがなく、退屈しているのだろう。そりゃ、機嫌だって悪くなるなるだろうな、と潤は解釈した。
 そこをわざわざ忠告してくる猪狩の意図を潤は尋ねたつもりだった。
 すると、猪狩は潤にだけに聞こえる声で、
「……なぁ、神坂。君さ、あの会長の“性癖”に関して、何か知ってるか?」
「性癖? 度を過ぎた女好き、っていうことは知ってますけど……」
「なんだ、知ってるんじゃないか。まさにそれだよ、それ」
「あの……その女好きっていうところの、いったい何が、問題なんです?」
「……神坂って、意外とニブいのな……」
 溜息と一緒にそう呟いてから、猪狩は潤に言う。
「いいか? お前と一緒にここに来た二人の女子。その二人は、言うなれば、ウサギ二匹だ」
「ウサギ?」
「そう、ウサギ。で、会長はさしずめ、飢えたライオンといったところだろう。さて、神坂。飢えたライオンの檻の中に、ウサギ二匹を放り込んだらどうなると思う?」
「そりゃ、食われるでしょ……ん?」
「気付いたか? 会長の機嫌が悪い時ってのは大抵の場合、女に飢えてる時だ。で、今がその時だと、俺は言ったつもりだったんだが――」
「ひぎゃぁぁぁぁぁ!」
 突然の絶叫に、猪狩と潤は驚いて振り返る。
 いつの間にか、悠里と悠奈は、綾華の病室の中に入っていたらしい。
 今のは、悠里の声だよな、と思った潤は猪狩と顔を見合わせた。
 猪狩は一言、呟いた。
「遅かったらしい……」
「みたい」
 潤は賛同した。



「いやー、ごめんごめん。久しぶりに、女の子がお見舞いに来てくれたものだから、ちょっと、ね」
 顔を見るなり、ベッドのスプリングを最大限に活用した大ジャンプで跳びかかり、そのまま押し倒してきた行動の、具体的にどのあたりが“ちょっと”なのかしら、と悠奈は内心に独りごちる。
「それで?」
 悠奈は口を開く。「体のほうは、大丈夫なんですか?」
「うん、明日にでも退院できるみたい」
 綾華の言葉を聞いた悠里は、顔を輝かせる。
「そう、それは良かった! ホント、びっくりしたわよ? 急に倒れちゃうんだから」
「心配かけたみたいね。でも、もう大丈夫だから」
 そう言って、綾華は悠里に笑みを向ける。
 それから、綾華は悠奈に言った。
「悠奈さんにも、心配させちゃったわね」
「いえいえ、元気になったんなら、それで良いんですって」
 悠奈がそう言った時だった。綾華は目を丸くした後、顎に手をやった。
 うーん、と首を捻っている綾華に、悠奈は「どうかしました?」と尋ねた。
「いやね……」
 綾華は答える。「ちょっと、意外だな、って」
「意外? 何がですか?」
「悠奈さんって、素直じゃなさそうなイメージあったから」
「え? あたし、そんなイメージあります?」
 心当たりの無い悠奈はきょとんとした。
 綾華は続ける。
「うん。てっきり『べっ、別に心配なんてしてないんですからねっ』とか言うもんだとばっかり」
「……そんな捻くれたセリフ、言う人間いるんですか?」
 ジト目で、悠奈はそう答える。
 すると、綾華と悠里は互いの顔を見合わせる。その後、二人は堪えきれずに、ぷっと吹き出した。
 何が可笑しいのか、まったくもって分からない悠奈には、首を傾げるより他はなかった。



「ホレ」
 病棟の休憩室に置かれてあったソファに、潤が腰を下ろした時だった。潤の傍らに腰掛けた猪狩から缶ジュースを受け取りつつ「あ、ありがとうございます」と礼を述べる。
 すると、猪狩は苦笑混じりに「さっきから気になってたんだけどな」と切り出してきた。
「なんで、お前、俺に敬語なんだ?」
「え? だって、猪狩さんって、先輩でしょう?」
「なに言ってるんだ? タメだぞ、俺とお前」
「え? ……えぇぇぇっ!?」
 潤は仰天した。
「え、いや、だって……副会長じゃ!?」
「ああ」
「副会長って、生徒会の幹事ですよね!?」
「ああ」
「前の副会長の劾さんって、二年生でしたよねっ!?」
「だったな」
「副会長って、二年生じゃないと、なれないものじゃないですか?」
「……誰が決めたんだよ、ンなルール」
 呆れた口調になりつつも、顔には苦笑を滲ませた猪狩だった。
「なろうと思えば、なれるんだよ。一年生でも、副会長にはね。まぁ……面倒ごとを押しつけられたくないってんで、やりたがるやつはいないけどな」
「え、でも……猪狩さんは――」
「タメだ、つったろ?」
 言下に訂正され、潤は「じゃ、猪狩は」と言い直す。
「猪狩は、なりたくて、なったのか? 副会長に」
「まあな」
「どうして?」
「会長職への一番の近道だからだよ」
「会長に? 猪狩って、生徒会長になりたいの?」
「ああ」
「……どうして?」
「逐一、Whyで訊いてくるんだな、神坂は……。そりゃ、あれだよ。内申点のためだ」
「内申?」
「そ。やりたいことがあって、で、そのために、行きたい大学があってさ」
「へー……」
 潤は驚くと同時に感心した。まだ一年生だというのに、猪狩はもう、進学のことを考えているというのか。そんな猪狩に比べて、自分はいったい、何をしているのだろう?
 先を見据えて行動している猪狩を前にして、潤はなんともいたたまれない気分を味わった。
「なんか、すごいね、猪狩って」
「そうか?」
「うん。まだ一年なのに、先のことを考えているんだから……」
「そうでもないよ。俺はただ……」
「ただ?」
「どうしても、やりたいことがあるんだよ。その、“やりたい”っていう、自分の気持ちに正直になったら、もう行動していた、って感じ?」
 そこで言葉を句切り、猪狩は潤に、自嘲めいた笑みを向ける。
「つっても、やりたいことができる、なんて保証はどこにも無いけどな」
 それでも、行動している分だけ、猪狩のことをすごいと潤は思う。
(自分の気持ちに正直に……か)
 胸中に転がしてみた時、潤は、そういえば劾も似たようなことを言っていたっけ、と思い出していた。
 優しいが、それだけではない。優しい心に正直なところ。そこが、劾曰く、潤の良さであり、強さである、と。
 それが、どういうことなのか、潤には未だに分からない。分からないが、その答えは、猪狩を見ていると、なんとなく分かってきそうな気がした。
「そういえば……」
 潤は猪狩に話しかける。「猪狩のやりたいことって、何?」
「あー……。言ってもいいんだけどな、引くなよ?」
「笑ったりしないよ」
 潤がそう言うと、猪狩は少しの間、口を噤む。
 それから一つ息を吐き、語り始める。
「ジャピタロンを石油や原子力に取って代わるエネルギーとして使うだけではなく、加工することで新しい技術の確立や、未開の科学分野の発展と――」
「す、ストップ、ストップ!」
 潤は猪狩の言葉を遮った。
「なんだよ?」
「ジャピタロンって……何?」
「……知らないのか?」
「うん」
 首肯すると、猪狩は溜息を吐いた。
「だから、予防線を張っておいたのに……ま、良い。ジャピタロンってのは、だ。石油や原子力に取って代わる、新種のエネルギーとして注目されつつある、新しい鉱物資源のことだ」
「鉱物資源? 鉱物って、鉄とか、銅とか、そういった類の? あの、地理とかで習うやつだよね?」
「ああ」
「……でも聞いたことないよ、そんな、ジャピタロンとかいう物質」
「発見されたのは数年前だ。石油や原子力に比べて、熱効率が良いという話もある。だから、発電所で燃やす物を石油からジャピタロンに取り替えようという話も出てきている」
「へぇ……。詳しいんだね、随分」
「まぁ、な。だからこそ、もっともっと調べてみたいんだよ。なんか、こう、わくわくするんだよな。色々な、可能性が詰まっていそうな気がしてさ」
 言っていることの半分すら、理解できたのかどうか怪しい潤だったが、猪狩は嬉々として語っている。どうやら、猪狩は、ジャピタロンだとかいう鉱物資源に、随分とご執心らしい。
 やりたいことを見つけている人間は、楽しそうに毎日を過ごしていける。それは、家庭科部の部長となった悠里を見ていれば良く分かる。潤には、猪狩もまた、悠里と同じ側の人間であるように思えた。
 そんなことを潤がぼんやりと考えていると、猪狩は言葉を続けた。
「ま、要は、だ。俺は、ジャピタロンの研究をしてみたいんだよ。その研究をやらせてくれる大学があって、俺はそこを目指している」
「そのために、内申点を稼いでおこうってこと?」
「ま、そんなとこ。下世話な話かもしれないけど、そこはまぁ、多めに見てくれや」
 そう言って、口の端を歪めた猪狩だった。
 しかし、その途端に、猪狩は溜息を吐いた。
「……でもなぁ……。会長はよっぽど、俺達、生徒会の下っ端が頼りにならないらしい」
「頼りにならない?」
 潤は疑問に思った。自分のためとは言え、猪狩は先のことを見据えて行動している。そんなことができる人間が生徒会の中枢にいるというのに、そんな人間が頼りにならない、とは潤にはどうしても思えなかった。
「そりゃあさ。前の副会長の、劾さんは、優秀な人だったよ。でも、みんながみんな、劾さんみたいにはいかない。だから、劾さんには任せることができた仕事でも、俺達には任せられないって、会長本人が自分でやるようになった」
 だから自分が倒れるんだよ……と声にならない声で呟いた猪狩に、潤はかける言葉を見失っていた。
 二人の間に流れた静寂は、決して、心地よい物ではなかった。