ヤマシロ中央病院の十三階。
そこの病棟に、風原透真は入院していた。
学園内の廊下で、ゲリラグループの一味と思われる東条一機とやり合って、そろそろ一ヶ月になろうとしている。
事件直後の混乱もあって、廊下で昏倒していた風原は病院に搬送された。
スタングレネードで気を失っていたため、そこまで大事には至らなかったのだが、念には念を、ということで検査入院をすることになった。
その結果、風原の体に埋め込まれた“呪い”に医者が気付いてしまった、というわけである。
呪いを掛けられた当時の研究は凍結されたことになっている。資料や研究成果が破棄された、とは思わないが、それにしても大企業が自分たちの血と汗と涙の結晶の中身をおいそれと企業の外側の人間達に吹聴してまわっているとも思えない。
詰まるところ、風原の体は「普通とは違うのだが、具体的にどう違っているのか、説明が難しい」ということになるのであった。
科学者の興味によるものか、あるいは医者としての矜恃によるものか、風原はどこが悪いわけでもないのに、いまだに入院生活を余儀なくされている。
謎のウィルスに感染しているかもしれない、という判断なら、医者としては褒めるべき行為かもしれないところだが……摩訶不思議な肉体に興味を抱く科学者が相手なら、話は変わってくる。これでは自分はモルモットと同等の扱いではないか。
主治医に“カラクリ”を話せば、自分は解放されるのだろうか? 逡巡するが、その考えを風原はすぐに打ち消した。種を明かしたからといって、自由の身に戻れそうな気がしない。むしろ、より一層、科学者の興味をあおるだけのような気すらしていた風原は、深々とした溜息を吐いた。
既に“あの研究”から十六年近くの歳月が流れようとしている。ヤマシロの西地区でテロが起こったのが十一年は前ということを思い返せば、かなり昔のことになる。
次の梅雨が明ければ、風原は二十九歳になる。人生の節目を目前にしていると言うのに、自分に掛けられた呪いは未だに消えない。いや、呪いであるからこそ、生涯を共に歩まなければならない、ということなのだろうか。
医者達の治療では、おそらく治せない。少なくとも、KAMUIグループが隠し持っている“あの技術”がなければ。いや、KAMUIの技術が開示されたとして、それを治療に応用できるかどうかは別問題。やはり、この呪いはとけない運命、か……ということを再確認してしまえば、自ずと風原の溜息と気は重くなるばかりだった。
こんこん、と出入り口のドアを叩く音が聞こえた。風原は「どうぞー?」とそちらに声を張ると、白衣の男が部屋にやって来た。
検診に来た医者か、と思ったが、よく顔を見て風原は驚いた。
「御前……? お前、御前か?」
御前――御前俊雄(みさき としお)が無精髭の浮いた口元に笑みを浮かべていた。
「よー、久しぶりだなぁ、ふうちゃん」
昔のあだ名を使われ、一瞬、風原は顔をしかめたが、すぐに顔に笑みを浮かべる。つけられた当時は気に入らないと思っていたあだ名だったが、過ぎ去った今となっては懐かしさの方が大きかった。
おそらく、読み方を知らなければ呼べない名字をしているのが御前だろう。風原もまたそんな人間の一人であり、御前本人の口から読み方を教わらなければ、もしかすると御前という名字を『ミサキ』と読むことを知らないままだったかもしれない。
尤も、当人は自分の名字を余り気に入ってはいないらしい。知らなければ読めない名字なぞ名字じゃねぇ、というのが御前の持論らしく、将来は絶対に婿入りだ、と学生時代に酒に酔った勢いで豪語していたことがあった。
「聞いたよ、一ヶ月もここにカンヅメなんだって?」
気さくに話しかけてくる御前は、ベッドの脇に置いてある椅子に座った。
「ああ。正直言って、参っている」
「何をしでかした? 病院の外にほっぽり出せないくらいの異常者にでもなっちまったか?」
「まさか。大きなお世話だよ」
「ほー? まぁ、それだけ減らず口が叩けるあたり、身も心も健康その物だな。結構なこった!」
口を大きく開けて笑う御前だった。
風原は尋ねる。
「ところで、いつ、ここに転勤になったんだ? 近くに来たのなら、挨拶くらいしてくれても良かっただろうに」
「あ? ああ、ちがうちがう。ここの病院長とは、実はちょっとした知り合いでな。風ちゃんが入院してるって聞いたもんだから、見舞いに来たんだよ」
「ん? それじゃ、お前は今も、大学にいるのか?」
「ああ。落ちこぼれの二年生は、自分の子飼いにしとかないと何しでかすか分からん、ってのが教授の言い分だ」
二年生――すなわち、大学の医学部を卒業し、国家試験をパスし、晴れて大学付属の病院勤務となって二年目、ということを意味している。
風原と御前は大学が同じだった。とはいえ、同じだったのは大学だけで、風原は理学部だったのだが。
付け加えるなら、風原は現役で大学に合格し、四年で卒業した身だが、御前は受験に二度失敗した上に、二回生から三回生に上がることができずに一流した曰く付きの身だった。
風原が二十二歳で理学部を卒業する頃、御前は二十四歳の三回生だったことになる。
こういうことは医学部の世界では珍しい話ではないらしいが、御前は何故か教授から目を付けられているようなフシがある。御前が影で落ちこぼれ、と称されるのは、成績云々ではなく素行の方に問題があるのでは、と風原は思わなくもない。
「にしても、だ……」
御前は続ける。「今は、教師をしてるんだっけ?」
「ああ。白百合学園に勤務している」
「風原先生ってワケか〜。あ、俺も医者だから、『御前先生』だったか?」
「そっちは二年だろう? 悪いが、こっちは既に六年は勤務している」
「先生としての年季が違うってわけかい」
大卒と高卒のプロ野球選手みてぇだな、と談笑する御前に「その例えもどうかと思うぞ」と風原は返す。
「まぁ、風ちゃん、学生時代から優秀だったみたいだしな。年だけ食ったロートルの俺なんかじゃ、ハナから風ちゃんに勝ち目は無いか」
何がロートルだ、と風原は内心にのみ呟く。
御前はロートルなどではなく、老獪という単語の方が妙に馴染む。
学生時代の御前は――いや、もしかすると今も、かもしれないが――サボりの天才で、そのくせ抜け目がない。もっとまっとうな手段で、まっとうなことをしていれば、風原の手の及ばぬことをしでかしていた可能性があったのでは、と風原は思うのだった。特異な才能を持つ者は、何かが欠けている者である、と誰かが言っていたような気がするが、それはあながち間違ってもいないだろう、と風原は考える。
しかし、御前は
「それだけ優秀なんだから、学卒で医学部に来れたんじゃねぇの、風ちゃん?」
というようなことを、いけしゃあしゃあと言ってのける男なのであった。
風原は言い返す。
「冗談じゃない。僕を医学部に引っ張り込んで、厄介事は全部僕に押しつけて、自分はサボろうっていう腹だったんだろう?」
「そりゃ、まーな? 風ちゃんが医学部に入れば、風ちゃん一回生、俺四回生。四回が一回をこき使うのは当然だろ?」
「そういうのを横暴って言うんだ。知ってるか?」
「さすが学校の先生。難しい単語を知っていらっしゃる」
茶化してくる御前に風原は「世間で普通に使う単語だぞ」と言ってやる。
「世間かぁ」
案の定、御前は混ぜっ返す。「生憎、俺は世間知らずなんだ」
こりゃ、下手に口を開く方が損、か……。そう思った風原は余計なことを言わないことにした。
思えば、御前とは学生時代から、こんな馬鹿げたやり取りしかしなかったような気がする。
忘れもしない、一般教養での授業。
大学に入ったばかりで、右も左もよく分かっていなかった自分の隣りの席に座り、気さくに声を掛けてきた年上の男。
二つも年上だと言うから、てっきり三回生だと思ったが、話をする内に二浪していることを暴露し、それにより自分と同じ一回生ということが判明した時には、開いた口が塞がらなかった。
一浪している知り合いなら何人かいたが、二浪している知り合いなど御前が初めてだった。後になって聞けば、医学部ではザラとのことだったが。
「それで、御前」
「何だ?」
「見舞いにきてくれたのは嬉しいが、なにか用事でもあったのだろう?」
「おいおい……学生時代からのマブダチがテロに巻き込まれて入院してるって聞かされたんだぞ、こっちは? 心配して、飛んできてやったのによ」
「その友人を何食わぬ顔で訪ねてくるんだから……医者ってやつはヒマなんだな?」
「まぁ、サボりは俺のオハコだからな〜って、何を言わせんだ、おいこら」
墓穴を掘るのもギャグのうち、とでも言いたげに御前は敢えて自爆する。
裏を返せば、何かを隠している、ということなのだが……果たして、それを問い詰めたところでこの老獪な男が口を割るかどうか。
「……っとまぁ、見た目はサボりなんだがな?」
風原は虚を突かれた。まさか、自分からあっさりと口を割るとは予想していなかった。
御前はトーンを変え、風原に近づき、囁くように言う。
「言ったろ。ここの病院長とは、ちょっとした知り合いだと」
「……ああ。それで?」
「うちの教授と、ここの病院長とは、古い知り合いなんだよ。そのツテもあって、俺はお使いを頼まれた」
「どんな?」
「言っちまえば、お前を、うちの大学に連れて帰るってことだ」
「何故?」
「表向きは、ここの病院じゃお前を検査できないってことになった」
「……実際は?」
「悪く思わないで欲しいんだが、まぁ、その……」
「僕をモルモットにするつもりか?」
「……ああ」
答えた御前の声は重かった。
しかし、御前はすぐに取り繕うような声になる。
「だが、悪い話ばかりじゃないぞ? 上手くすれば、お前の体質を改善……いや、完全に治療することができるかもしれない」
「知ってるのか? 僕の体を」
「見聞きした程度ではな……と言いたいが、スマン、嘘を吐いた」
「と言うと?」
「……ああ、実を言うと、だ。ここに来る前に、お前の過去をちょっと洗ってきたんだ」
ということは、十六年前に行なわれた実験と研究も御前にバレてしまった、ということか。
「調べて、驚いたよ」
御前は話を続ける。「十六年前の研究。それを主導していた科学者が、うちの大学の教授や、ここの病院長と知り合いだったんだからな」
「ということは、お前のところの教授や、ここの病院長も……当時の研究に?」
「いや、直接関わってはいないようだ。知り合いってだけみたいだぜ。だが……」
「だが、なんだ?」
続きを促すと、御前は答える。
「何より驚いたのは……お前が、研究に参加したのが、今から十六年前だろ?」
「ああ」
「お前、いくつだった?」
「ん? 今年、二十九になるから……当時は、十三歳か」
「花も恥じらう中学生だったんだよな……」
「それ“女子高生”につける修飾語じゃなかったか?」
風原が指摘すると、御前は薄く笑って「茶化したつもりはねぇよ」と言いつつ、
「俺なんかと出会う、ずっと前に、お前はあんな実験に付き合ったんだ。なのに……お前、大学に居た頃、そんな素振りは一度も見せなかっただろ」
「そりゃあ、見せびらかすものじゃないからな」
「それも、そうか」
そこで一度、言葉を句切った御前は、少し間を置いてから言う。
「べつに、うちの教授も、お前をモルモットにして終わり、ってわけじゃない。お前の体を調べて、そして、治療するって言っている。頼む、お前の体を、調べさせて欲しい」
「嫌だ、と言ったら?」
風原が尋ねると、御前は言葉を詰まらせる。
目を伏せて、御前は言う。
「……入院してる友人を、見舞った。それだけだ。何事もなく俺は帰るし、何事もなくお前の入院生活は続く」
牢獄からの脱出というお誘いを蹴れば、そうなるだろうな、と風原は思う。
しかし、これは同時に、別の牢獄に移されるだけ、という可能性があることも否定できない。
この特異体質は、文字通りに、既に自分の半身となっている。それは呪いであると同時に、自分だけの個性、でもある。
それを強引に体から引き裂くことが、果たして正しいことなのかどうか、風原には分からなかった。
即決できない、というのが本心だが……元々、見舞いでやって来たのが御前なのだ。即決以外に、ここから出る方法はない。
吉と出るか、凶と出るか。
謎の発電体質と銘打ってきたが、謎などではなく、根拠はある。
その根拠と、真っ正面から向き合う時が来たのだろう。
それならば、と風原は一つ、腹を括ることにした。
「返事は――」
「ん?」
「返事は、イエスだ」