学校の会議室に呼び出された潤は、久しぶり、と声を掛けてきた兄と対面した。
「少し見ない間に、背が伸びたんじゃないか?」
随分と歳の違う長兄ではあったが、兄はいつも通り、気さくな声を掛けてきた。
「でも、兄さんには敵わないよ、まだまだ」
「まぁな。でも、いずれは兄さんを追い越して欲しいものだな」
そう言う兄の言葉の裏側には、身長という単語以外の意味が含まれているのを、潤は感じた。
わざわざ終業式も終わった学校を訪ねてきたくらいなのだ。これは何かあるな、と思った潤は「それで?」と話を切り出した。
「ぼくに何か用事?」
「まぁ、用事と言えば用事だな。お前、この春休みはどうするんだ?」
「どうするって、そりゃ、友達といろいろ遊ぶつもりだけど?」
「ああ、そういう意味じゃない」
そこで言葉を切ると、不意に兄は目を細くした。
「――実家に帰ってくる気はあるのか、と訊いたんだ」
「ああ、その……あまり、無いかな。ほら、友達と遊ぶのに忙しいし、それに、高校は春休みでも宿題とかあるしさ」
「なるほどなぁ。ま、青春ってヤツは忙しいものだ。別にそれを否定するつもりはないけど、だからといって学生寮に居残り続けるつもりか?」
「……そりゃ、まぁね」
「ほーう? お前みたいに、実家に帰りたがらないヤツの面倒を見るためだけに、学生寮の寮母は、たまの休みをオシャカにしないといけない、と。どうするつもりだ? 寮母さんには頭でも下げて、頼み込むつもりか?」
「……まぁね」
「なら、後で俺も、頭を下げに行かないとな。菓子折の一つでも持っていかないといけないし……言うことを素直に聞かない弟を持つと、兄貴は苦労するよなぁ?」
当てこするような物言いだった。
腹が立つ、という気持ちはあったが、同時に仕方がない、とも潤は思う。
現役のJBI捜査官相手に嘘を吐こうとしているのだから、潤とすれば冷や汗ものだった。
というか、JBIだの、捜査官だの、そんな問題以前に、自分はこの長兄には、いまだかつて嘘を貫き通せた経験が無かったのだが。
すると、不意に兄は笑顔を見せた。
「そこまで言うんだから、よっぽど実家に戻るのが嫌みたいだな、お前。ま、気持ちは分からんでもないよ。だが……たまには帰ってこい。父さんが寂しがる」
「父さんには、兄さんがいるじゃないか?」
「末っ子ってのは別物らしいぞ、親というやつはな」
適当に椅子を見繕い、兄はそこに腰掛ける。
「ま、お前も座れ」
椅子を勧められ、潤は兄の向かいに腰を下ろした。
兄は言葉を続ける。
「いざ帰ってみても、父さんも俺も、家にいないことも多い。……母さんもいなくなったし、修司も死んでしまった。家に、家族がいなけりゃ、帰ったところで仕方ない、っていう気持ちも分かる」
「……分かってるなら、引き留めないで欲しいよ」
口を尖らせる潤に、兄は柔和な笑みを浮かべる。
「それでも、一度は戻って来い。母さんも修司もいなくなって、お前まで家に寄りつかなくなったら、父さんが本当に寂しがる」
父さんを独りにしちゃいけないんだ……という兄の声は、どことなく悲痛だった。
「父さんを独りって……兄さんがいるじゃないか?」
「あ、いや、そういう意味じゃない」
そう言って、兄は笑った。
その笑みは、どことなく、ふとした失言をごまかしている、といった様子だった。
「……そういう意味じゃ、ないんだ……」
「本当に、大丈夫? なんか、顔色悪いよ、兄さん」
「ん? あ、ああ……。ちょっと大きな事件を抱えていて、最近、家に帰るヒマも無いくらい、忙しくて。だから、最近、父さん、ずっと家じゃ独りなんだよ」
「それで、ぼくに家に帰ってこいって?」
「あ、ああ。このヤマはちょっと、しばらくかかりそうなんだ。だから、春休みの間だけで良いから、父さんに顔を見せてやってくれないか?」
潤は違和感を覚えた。
普段、潤のついた嘘をいとも簡単に見破ってしまうのが、自分の兄――神坂誠(かんざか まこと)という男だったはず。
まさに名前の通り『誠』に生きるこの男は、正義を貫くため、なるべくしてJBIの捜査官となった。
敵わない存在、であると同時に、潤にとっては一つの憧れでもあった兄。
その兄が、潤に嘘を吐こうとしている。
なにか、よっぽどの理由があるのだろう、と思った潤は敢えて何も訊かないことにした。
「……わかった。近いうちに、一度、実家に帰るよ」
潤の言葉を耳にした誠は、心底嬉しそうな顔をした。
その笑顔の裏に、ただならぬものがありそうな気がした潤は、どことなくスッキリしない気分だった。
「よぉ、潤。こんなとこにいたのかよ」
会議室を離れ、校舎の昇降口に戻ってきたときだった。
世田谷と桜井のコンビが、潤の背中から声を掛けてきた。
「すっかり忘れてたんだけどよ、カラオケ行こうぜ、カラオケ!」
「春休みに入るんだから、ここらでパーッと憂さ晴らしでもしようじゃねーか」
「桜井。お前、どーせアニソンしか歌わないんだろ?」
「そう言う世田谷はどーなんよ? ラバーズ歌うのは良いけど、寒いのに十八番とか言うんじゃねぇぜ?」
「よぉし、俺の美声に聴き惚れろ。話はそれからだ」
「良いぜ、お前の耳を孕ませてくれる!」
またもやヒートアップしていく二人だった。
しかし、苦悩する兄の顔が、脳裏にこびりついて離れない潤は、カラオケに行く気分にはなれなかった。
「ごめん、ぼくはちょっとパス」
「ん? どした? どっか具合でも悪いのか?」
虚を突かれた顔をしつつも、桜井が尋ねてきた。
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど。でも、ちょっと用事があって」
「そうか、用事じゃ、仕方ないか」
「でもよー」
納得したような声を発した世田谷に比べ、桜井は食い下がってきた。
「季節休みは基本的に、寮が閉鎖だろ? 下宿組はともかく、寮生は帰省しないといけないんだ。しばらく会えなくなるんだし、今日くらい遊んでおいたって良いんじゃないか?」
そんな今生の別れでもあるまいに、と潤は思うのだが、桜井の言葉に「それもそうだな」と世田谷が共感していた。
「あれ? 潤ちゃん、何してるの?」
割って入ってくる声に、潤たちはそちらを振り返った。
御浜結衣を筆頭に、家庭科部の面々がこちらに近づいてくるところだった。
「教室にいなかったから、もう帰ったのかと思ったよ」
「御浜さんこそ、ぼくに何か用事?」
潤が訊き返すと、八重歯をキラリと反射させて、結衣は言う。
「いや、さっき悠ちゃんや、永久っちとかと話してたんだけど、みんなでこれから、どっか遊びにいかないか、って思ってたんだけど……潤ちゃんも来る?」
ああ、ぼくはちょっと用事が、と断りの句を述べようとした矢先だった。
両側から、世田谷と桜井に、左右の肩をがっしりと掴まれる。
潤が何かを言うより先に、二人が結衣に言った。
「そりゃ勿論!」
「ご一緒させて頂きますとも!」
調子の良いことを言って、ニカッと笑う世田谷と桜井だった。
何か反論しようと潤は口を開こうとしたのだが、首をくるりとこちらに向けてきた桜井と世田谷の「なぁ?」「潤?」という言葉は、確認というよりは恫喝に近かった。
反論を許されなかった潤は「う、うん」と、勢いで頷かざるをえなかった。
潤、世田谷、桜井という男のメンツに加え、羽住姉妹と御浜結衣、そして桜ノ宮永久という女子のメンツ。そこへさらに、生徒会役員の桐原綾華と猪狩進太郎も参加することになり、一行はそこそこの所帯となって、カラオケ屋へとやってきた。
適当に分かれるか、と誰かが言い出し、それによって二つにグループが分けられた。
片方は、潤に桜井、羽住悠奈に桜ノ宮永久と御浜結衣。
もう片方は、世田谷に猪狩、羽住悠里と桐原綾華といった班であった。
世田谷のグループでは、世田谷がいきなりラバーズを熱唱し、初っ端からそれは無いだろう、と生徒会コンビにひんしゅくを買っていた。
一方、潤たちの部屋では、
『うぉ〜うぉ〜♪ 宇宙はぁ〜♪ スペース・ダイナマイツ! (オゥイェイ!)』
マイクを力強く握りしめ、桜井が声を大にして熱唱していた。
「なにこれ? アニソン?」
悠奈の問いに潤は「たぶん」と答えておいた。
「でも、聴いたことないかなぁ」
「あ、永遠ちゃんも?」
潤に悠奈、永久の三人は、分からないなりに、桜井の歌を聴いていた。
「お〜、歌上手いね、みつるん」
桜井のアニソンメドレーを理解した上でついていけてるのは御浜結衣くらいのものだった。結衣は案外、歌のレパートリーが広いのかも知れない。
「ふぃー……どら、何点だ?」
歌い終わった桜井は、ディスプレイに表示された点数に視線を向ける。
七十六点、と出ていた。
「可もなく、不可もなく、か。まぁ、有名どころだし、こんなもんか」
「え? それ、有名な曲だったの?」
びっくりした潤は、思わず桜井を問い質していた。
すると、桜井はきょとんとした顔になる。
「え? 知らない? 『最強! トンガリ宇宙マン』って、有名どころだと思ってたんだけどな」
「……聞いたことないわね」
どうでもよさそうな調子で、悠奈がそう言った。
「ま、俺たちの業界じゃ、有名な曲なんだぜ。つっても、ちょっと古いんだけど」
「古いって、いつの曲?」
「ん〜……確か、二十年近く前」
「いや、それ、生まれてないよね、ぼく達!?」
ツッコミを入れてやると、桜井はポリポリと頭をかいた。
「……ロボットアニメも、なんだかんだで、俺たちが生まれる前からあったしな。生まれてないからって、知らなくて当然、っていう認識は、なんか違わないか?」
「そりゃ、そうかも、だけどさ……。でも、その、なんだっけ? 『最高! ナントカ銀河さん』だっけ?」
「最初と最後くらいしか合ってねぇぞ、それ」
ま、知らないんじゃしょうがないか、と言って、桜井は潤の隣りのソファに腰を下ろした。
「次、誰歌うよ?」
選曲用リモコンを手に持ちつつ、桜井が一同を見渡した。
すると「ほんじゃ、私が」と結衣が名乗り出た。
桜井は結衣にリモコンを手渡すと「そういえば」と潤に話しかけてきた。
「神坂、お前、なんか用事あったとか言ってたよな?」
潤は飲んでいたウーロン茶を吹き出しそうになった。
口から漏れ出そうになるのをどうにかして堪え、ウーロン茶を飲み干してから桜井に言った。
「い……今さら、それを訊くの?」
「いや、ふと思い出したから」
「ああ、まぁ、急ぐわけでもないし、別に良いよ」
ここに来て良かったのかもしれない、と潤は考えを改めていた。
カラオケに来たことで、少しは気も紛れたのは事実だったのだから。
兄との再会が潤の気分を少し重くしたのだったが、何よりも潤にとって気がかりとなったのが、兄が潤に嘘を吐こうとしたことだった。
誠、という名を与えられた兄は、文字通り正直な男だった。
それ故、嘘を吐いたことも、おそらく無かっただろうと潤は信じている。
そんな兄が、何故、潤に嘘を吐こうとしたのか。理由も無く嘘を吐くはずがないとは思うので、そこには何かしら理由があったのだと、潤は思う。
兄が誠実さと引き替えにしてまで、吐かなければならなかった嘘とは何なのか。そこまでして、潤を実家に連れ戻そうとしたのは何故なのか。
それを確認するためにも、実家に戻る必要がある。問い質す相手は、兄本人か、あるいは……父親か。
父親のことを考える度に、潤は憂鬱になる。
二番目の兄がいなくなってから、家族の歯車は狂い始めた。
家を飛び出し、消息が分からなくなったかと思えば、遺体となって発見された。
次男の死がきっかけで、病気がちだった母親は一気に弱り込んでしまった。日に日に体力も衰えていき、次男に続き、母親までもが息を引き取った。
次男と妻を一度に亡くしたというのに、動じた素振りも見せなかった父。残った息子二人と一緒になって泣き崩れていては、家庭が立ちゆかない、とでも父親は思っていたのか。いずれにせよ、毅然とした態度を崩さなかったのが父親だったが、まだ十代も前半だった潤にとって、そんな父親の姿は冷酷にさえ思えた。
思えば、父とはしばらくロクに口を聞いていない。父が仕事で忙しく、家にいないことも原因だったが、家に父がいたとしても、敢えて自分は避けていたような気がする。
そんな父と、面と向かって話をする。
それを考えると、どうしても気分が滅入ってくる。
……本当に、自分はカラオケに来て正解だったのだろうか?
兄や父のことを考えると、少しは晴れたはずの気分が、塞ぎ込んでくる。それなら、最初から来ない方が良かったかも……と弱気な考えが頭を巡りかけた時だった。
「じゅーん?」
名を呼ばれ、首を横に向ける。
存外、近い位置に悠奈の端正な顔があった。
「な、なに?」
至近距離でこちらの顔を覗き込んでくる悠奈に、潤はドキリとするものがあった。
「何か悩み事?」
「いや、そんな……大したことじゃないよ」
潤は誤魔化そうとしたが、悠奈は「ふーん?」と言って、こちらをジロと見上げてくる。
明らかに、信用していない顔つきだった。
リモコンを操作し、「よーし、お次はこれだっ!」と結衣が選曲を終える。
すると、スピーカーから軽快なメロディが流れはじめ、結衣はマイクを手にして立ち上がる。
『あーゆぅ、れでぃ!? 深夜のモニターにぃ♪』
凛とした結衣の歌声が部屋を満たしていく。
それをバックサウンドにして聞き流しつつ、潤は悠奈に言った。
「ちょっと、家のこととかでさ」
「家? ああ、なるほど……」
付き合いの長い悠奈には、潤が『家』と言うだけで通じるものがある。
潤にとって、家に関する話は、あまり楽しいものとはならないことを熟知している悠奈は、必要以上にこちらを詮索してこようとはしない。
しかし、潤が自分の口で『家』と語ってしまったのだから悠奈は、
「ま、深くは訊かないけど……『ちょっと』じゃなそうね」
と言ってきた。
こちらを心配してくれている声音だったが、言葉の裏に「なぜ、あたしには打ち明けてくれないのか」という悠奈の批難も潤には感じ取れた。
幼馴染みなのに水くさい、と悠奈は横顔で語っていたが、こればっかりは潤にだって口を割る気にはなれない。
潤を気遣ってくれている悠奈の思いが、この時ばかりは、潤には痛かった。
セントラル・クロスから少し離れたところには橋が架かっており、その下を川が流れていく。
その川は西へと続いていき、西地区を北側の地域、南側の地域と区分けしており、やがて臨海地域へと流れ着く。
橋の欄干に背を預け、神坂誠は物思いに耽っていた。
日は暮れかかっており、長くなった自分自身の影を見るとも無しに見つつ、誠は煙草を吹かしていた。
久しぶりに見た弟は、随分と男らしい顔つきになっていた。少し前まで、幼顔にしか思えなかったあの弟が、いつの間にか、それでいて着実に、大人への階段を昇っている。
成長した弟の姿を見ることができたのは、兄として喜ばしいと思う。
その反面……自分はどうだろう?
実の弟に、嘘を吐いた、という実感はない。
しかし、誤魔化したことは事実だった。
弟の潤は、兄である誠のことを「嘘を見抜く達人」と思っているようなフシがあるが、それは間違いだと誠は思う。
誠が嘘を見抜くのが上手いのではなく、単に潤が嘘を吐くことが下手なだけなのだ。だから、誠にはいとも簡単に潤の嘘を見抜くことができた。
潤は、根が正直なのだろう。嘘が吐けない、ということもそうだが、ああ見えて芯がある。
自分の心に正直である、という芯が、潤にはある。
それで良い、と誠は思う。
自分や、あるいはもう一人の弟である修司は、見るに堪えないほどに汚れきっている。愚かな兄二人では、これから老いを迎えていく父親の面倒を見ることができない。
真っ直ぐで、そして誠実な潤だからこそ、誠は父を任せたいという思いがあった。
そのためには、潤と父親の仲を取り持つ必要がある。別に、険悪な仲、というわけでもなかったが、それでも両者の間には、詰めようとすると詰まらない、という溝がある。
その溝を埋めてやるためにも、誠は潤に、一度は実家に戻って来い、と言ったのだが……いささか、強引だったかもしれない、と誠は思い始めていた。
だが、余り猶予もない。
組織に仕える歯車として、果たすべき役割がある。その役割を果たせなければ、組織は終わる。
組織の瓦解だけは、なんとしても防がなければならない。
組織の崩壊を食い止める守護神。
それが、誠に課せられた責務である。
「……守護神、か……」
口中にその単語を転がしてみた。
どことなく空々しい響きを伴っていたが、それも無理からぬことだろうな、と誠は思う。
自分自身、守護神という単語を信じてなどいないのだから。
聞こえを良くしているだけで、実際はただの生け贄だった。
いや、生け贄にされるなら、ある意味で、まだマシかもしれない。自分が命を落とすことで、全てが解決できるなら、それも良い。
組織は、誠に同胞殺しを要求しているのだから、始末の悪いことこの上なかった。
血を分けた実の兄弟の命を奪うこと。
それが、組織の崩壊を防ぐ唯一の方法だった。
そこまでして守らなければならない組織とは何なのか。それとも、それほどまでに人の命とは軽いのか。
頭に浮かんでは消える、疑問符の数々。
敢えて、考えないようにし、見て見ぬ振りを続けてきた自分自身を省みて、いったいこれのどこが『誠』なのだろうか、と彼は嘆息した。
もし、潤だったら、どうするのだろうか?
ふと心に湧いた疑問に対し、少しは真剣に答えを探してみるか、と思った矢先だった。
スーツの内ポケットに入れてあった携帯電話が呼び出し音を鳴らした。
咥えていた煙草を指の間に挟み、地面に放り捨てるまでに、呼び出し音が二回。
靴底で火を消しつつ、懐に手を入れる間に、呼び出し音が一回。
携帯を取り出し、画面を開く間に、呼び出し音が一回。
五回目のコール音を待たず、誠は電話に出た。
「はい」
『赤羽が口を割った』
直属の上司にして、パートナーでもある津堂洋一の声だった。
『マルSを“処理”する』
マルS――神坂修司の下の名前である修司の頭文字をとって付けられた符牒のことである――の“処理”が決定し、誠は一度目を閉じた。
――やはり……生きていた。
以前、極秘裏に処理を済ませたはずなのに、修司は生き延びていた。当時の記録を読み返せば、修司を“処理”した瞬間は、曖昧にしか残っていなかった。
生存している可能性はあったが、一刻も早く事態を解決したかった組織は、修司の死亡を断言し、状況の終了を宣告した。
それが、ここに来て裏目に出た。
誠は目を開ける。
「決行は、いつです?」
『今夜だ』
「場所は?」
『GPS情報を送るから、それで確認しろ。要撃部隊を回すから、現地で合流しろ』
「わかりました」
やるしかない。
腹を括った声を発した誠に、津堂が『誠』と名前を呼んできた。
『……良いんだな?』
「良いも何も、やらなければいけません。でしょう?」
『そうじゃない。今度は、しくじるな』
「はい、勿論です」
津堂の念押しに、誠は、迷いを吹き飛ばすような強い口調で応じた。
それならいい、と津堂が返事を寄越してきた時、
太陽が地平線の向こう側に姿を消した。
夜が、幕を開けた。
見た目こそスクールバスのような形状をしているが、黒一色のカラーリングから感じられるのは物々しさだった。
窓には、外側から車内を覗き込むことができないようにフィルムを貼り付けてある。また、その窓にしても、銃弾の衝撃に耐えることができるような対策を施してあった。
黒塗りのバスは西地区の工事現場の傍で停車した。
赤羽真澄がJBIに、霧島栄斗が潜伏している可能性のある場所として、そこを伝えたのである。
バスの出入り口が開き、そこからわらわらとフル装備の男達が降りてきた。
彼らは夜間戦闘に備え、暗視ゴーグルを顔に装着し、パラクラバを被っている。
防弾ベストを身にまとい、サブマシンガンを抱えた彼らは、余計な言葉を一切かわすことなく、ボディランゲージと目の合図のみで意思の疎通を行なった。
数人ごとにグループを形成し、彼らは工事現場の入り口から、中へと入っていった。
積み上げられた鉄骨の間を、彼らは用心深く、しかし素早く、進んでいく。
バスの脇に立ち、状況を見守っていた指揮官の男は、直に状況は終了するだろう、と踏んでいた。
その時、バスの後ろに、一台のセダンが停車した。ちらとそちらに目をやると、JBIの捜査員が車から降りてきた。
こちらに近寄ってきた神坂誠が、指揮官の男に声を掛ける。
「どうですか?」
「始めたばかりだ。ま、すぐに終わるだろうが……」
言いかけて、指揮官は口を噤む。
銃声も聞こえなければ、怒号も聞こえない。
サイレンサー付きのサブマシンガンとはいえ、その消音性能は完璧ではない。ある程度、近い位置に立っていると、銃声は筒抜けとなる。
だが、聞こえない、ということは、誰も銃を撃っていない、ということだ。
神坂修司は、いないのか?
まさかブラフじゃなかろうな……?
疑念が指揮官の頭をかすめたが、その可能性は大いにあり得るかもな、と指揮官は思った。
裏付けを取ることなく、赤羽真澄から聞き出した情報を元に、現場に駆けつけたのが自分たちなのだ。本当に、神坂修司がそこにいるのかどうかを確かめるヒマがあったはずもない。
行き当たりばったりなのだから、無駄足に終わるかもしれない。
指揮官は無線封鎖を中断し、中にいる隊員の一人に「いたか?」と尋ねた。
『いえ、いません』
部下の簡潔な応答を耳にした指揮官は、誠の方に首を巡らせる。
「ブラフを掴まされたのか?」
「情報提供者は信用に足りますよ」
「……ゲリラグループのリーダーだと聞いているが?」
「それでも、信用できる男です」
そこまで言い切るのだから、そうなのだろうな、と指揮官の男は判断した。
しかし、JBIの情報が漏れていたとも思えない。
それなのに、神坂修司が見当たらない。
逃げたのだろうか?
顎に手をやり、少しの間、指揮官が思案した時だった。
ガガ、という無線機のノイズが耳を賑わせた後、部下の声が聞こえてきた。
『隊長。敷地の奥に、作業員の詰め所らしき建屋があります』
「作業員の詰め所、だと?」
ブリーフィングでは、作戦地域となる工事現場の地図に、作業員の詰め所らしき建屋は見当たらなかったが……。
「……中に潜んでいるかもしれん。慎重に、中を探ってみろ」
『了解』
部下の返事を聞いてから、指揮官は誠に言った。
「どう思う?」
「どう、とは?」
「作業員の詰め所だよ。地図に載ってなかったのは、どういうわけだろうな?」
「……工事が終われば、作業員の詰め所は潰すんでしょう? どうせ潰すのだから、地図に記載していなくても不思議はないのでは?」
「いや、それはない」
指揮官はにべもなく否定する。「人工衛星から地上を撮影した写真を元に、地図にしたんだ。ここでの『地図にない』とは文字通り、存在しないってことだ」
「地上を撮影したのって、いつです?」
「今日の昼間だよ」
「作業員の詰め所となると、それこそ、掘っ立て小屋みたいなものですよね?」
「だろうな」
「そんな粗末な建物とはいえ、いくら何でも、それを数時間で作れるものなのか……?」
そう独りごちると、誠は眉間に皺を寄せる。
建てたというよりは、どこかから持ってきた、と考えた方がしっくり来るな、と思った指揮官は無線機に尋ねる。
「おい、その詰め所っていうのは、どんな建物だ? 掘っ立て小屋か?」
『はい、そう見えますね』
「本当だろうな? 足下にタイヤがついてたりとかしないだろうな?」
『タイヤ、ですか?』
ちょっと待ってください、と部下が告げてから数秒後、同じ部下の声で返事があった。
『いや、見当たりませんね』
タイヤがない、ということは、どこかから移動してきた、というわけでもなさそうである。
トラックの荷台に積み込んで持ってきた、という可能性も無くはないが……そこまでを考慮する必要はないだろうな、と指揮官は判断した。
いずれにしても、こちらのすることに変わりはないのだから。
「まぁ、良い。中を調べてみろ」
『了解』
部下の応答に対し「慎重にな」と念押しした指揮官は「良いんですか?」という誠の声に振り向いた。
「何がだ?」
「そんな簡単に、中を調べろ、って言って、大丈夫か、って訊いたんですよ」
「あの掘っ立て小屋が、罠である可能性か?」
「ええ」
「ま、そう考えて当然だろうな。だが、ハナから罠だと疑ってかかれば、対処のしようはある」
「どうするんです?」
「映画とかで観たことないか? 小型カメラで室内の様子を探ったりとか、熱源探知センサーで中に人がいないか、とか。まぁ、他にも色々とあるが――」
刹那、ズドン! という轟音と、目映いフラッシュが飛んできた。
足下がぐらりと揺れ、指揮官と誠は思わず尻餅をついた。
視線を工事現場のほうに戻すと、敷地の一角で火の手が上がっていた。
罠の可能性があることは、部下だって分かっていたはず。それなのに、誰かがドジを踏んだのか?
いや、そんな間抜けは隊にいない、と指揮官は考え直す。
「どうしたっ!?」
「なんだっ!?」
部下たちの声が、無線機を介さずとも敷地から響いてくる。
指揮官もまた、無線機に「何が起こっている?」と吹き込んだ。
『分かりません、急に爆発が――』
再度、何かが爆発し、部下の声が途切れた。
ズドン、ズドン、ズドン、と爆発音が連続して響き渡る。
部下達の悲鳴や、呻き声が、指揮官の耳に聞こえていた。
「……どうなっている……?」
ただただ、状況に翻弄されるしかない指揮官だった。