West area

ナインズの攻防 ‐ Scene 3

「おいおい……冗談じゃねぇぞ」
 栄斗はその時、中央地区にいた。
 いくつかあるうちのビルの屋上に立ち、そこから双眼鏡で西地区を眺めていた。
「JBIは、ココに来るんじゃなかったのかよォ」
 栄斗の呟きに「本来ならな」と答える声があった。
 声の主のほうを、栄斗は振り返る。
 男が屋上の中央に立っていた。
「誰だ、テメェ?」
 怪訝そうな面持ちで、栄斗は尋ねた。
 男は答える。
「名乗る前に、一つ尋ねたい。良いか?」
「なんだ?」
「『神坂修司』というヤツを知ってるか?」
「あン? 誰だよ、ソイツ」
 聞き覚えの無い名前だった。
 しばしの間、男はこちらを観察していたが、やがて溜息を吐いた。
「……やはり、知らないか」
 そう言って、男は後頭部をポリポリと掻いた。
「赤羽真澄が嘘を吐いたとも思えないし……こいつは、おそらく……“ヤツ”なりの保険にして、トカゲの尻尾、ということか」
 ふむ、と鼻を鳴らした男に対し、栄斗は眉間に眉を寄せる。
「ごちゃごちゃうっせぇなぁ……なんなんだよ、テメェは?」
「あぁ、俺か? 名乗っても良いが……お前が知る必要はないよ」
「……あんまり、調子に乗ってんなよォ……。俺様はあんまり、気が長くねぇんだ」
「だから?」
「気をつけろよ? 俺様はなぁ……暴れることが――」
「大好き、なんだろ? 知ってるさ」
「あ?」
「雰囲気で、だいたい分かるよ。俺も同類だからな」
「……ほー? そりゃ結構なこった。それじゃぁよ……」
 刹那、栄斗は地面を蹴った。
 大きく前へと踏み込み、右の拳を男の顔面に叩き込んだ……ように見せかけ、左の拳を振り上げる。
 強烈なリバーブローが、男の左脇腹を突き上げた、かに見えた。
 男は右腕をたたみ、右の前腕で栄斗のパンチをガードしていた。
「……殴られても、文句は言えねぇよなぁ?」
「セリフを返すぞ」
 そう言って、男は左フックを飛ばす。
 栄斗はダッキングでそれをかわしてから、頭を振り上げた。頭のてっぺんで男の顎を狙う。
 男はスウェーバックで、栄斗の頭突きをかわした。
 男は右の掌底で、栄斗の顎を突き上げようとする。
 栄斗はヘッドスリップで男の掌底をやり過ごし、カウンターの右ストレートを叩きつけようとした。
 しかし、男もヘッドスリップで、栄斗のナックルを紙一重でかわしていた。
 栄斗と男の右腕が絡み合った。
 先に動いたのは、男の方だった。
 腕をひっかけたまま、男は栄斗の足を払う。すると、栄斗の視界がくるりと回った。
 気がついた時には、栄斗は背中を強かにぶつけていた。
「がっ……!」
 ひしゃげた悲鳴が、口から漏れた。
 素手でやり合っただけだが、栄斗はこの男の力量を正確に理解してしまった。
 この男は、栄斗に匹敵するか、それ以上に強い、と。
 だが、それは栄斗にとって恐怖とはならない。
 むしろ、栄斗にとっては、喜びへとつながる。
「面白ぇ……!」
 栄斗は体を跳ね起こし、足首に隠しておいた拳銃を引っこ抜く。
 抜き払いざまに、照準を定め、引き金を引いた。
 パン、パン! と連続して、破裂音が響いた。
 だが、男は一カ所に立ち止まってはいなかった。
 栄斗を中心に、円を描くように男は走っていた。
「チッ! ちょこまかとよぉ!」
 吐き捨てつつも、栄斗の口には歪んだ笑みが浮かんでいた。
 姿勢を立て直しつつ、栄斗も横へ飛びつつ、体を捻る。
 男の背中に銃口を向けることができた時、栄斗は自身の勝ちを確信する。
 その時、栄斗の目に、信じがたいものが映った。
 男は一度、体を低く沈め、強く地面を蹴り飛ばす。
 男は自分の身長を上回る高さにまでジャンプし、宙返りした。
 逆さまになった状態だったが、男の右手に銃が握られているのを、栄斗は見た。
 栄斗は銃を持つ手を上空に向ける。
 男の頭を狙い、栄斗は銃を撃つ。
 男も栄斗を狙って、続けざまに三度、引き金を絞った。
 栄斗が放った銃弾は、狙いが逸れた。男の脇を通り過ぎていったため、男にダメージはなかった。
 だが、男の銃撃は、恐ろしく正確だった。
 銃弾が、栄斗の太股と両肩を貫通する。
 栄斗の体から、ぱっと血が飛んだ。
「う……ッ!」
 呻き声を漏らした後、栄斗は糸の切れた人形のように、地面に倒れた。
 くるりと体を反転させ、華麗な着地を男が決めたのを、栄斗は視界の端で捉えていた。
 男が着地した瞬間を、栄斗は狙い撃とうとした。
 しかし、肩が焼けるように痛み、腕を動かすことができない。また、立ち上がろうとしても、右足が思うように動かなかった。
 しかし、撃ち抜かれた部分を見やると、迸るような出血はしていなかった。
 動脈を撃ち抜くことなく、それでいて敵の動きを封じ、無力化する。
 急所を貫くことより、よほど難しい射撃術だった。
 こんな高等な射撃技術は、単なる軍関係者には不可能だと言える。陸部の特殊部隊ですら、できるかどうか怪しいだろう。
 ということはつまり……
「テメェ……JBIか……?」
 栄斗は苦痛に顔を歪ませつつ、男に尋ねた。
 男は、こちらを振り返る。
「ああ。まぁ、正しくは『元』JBIだが」
「それも、テメェ……捜査官の類じゃねぇな? 特殊部隊の出身だろ……?」
「ああ、そうだ」
 やはり、な……と栄斗は口中に言葉を転がした。
 急所や動脈を外し、敵の動きを封じる。
 俗に『外科的射撃術(サージカル・シューティング)』と呼ばれる技術だった。
 被疑者を殺さず、しかし、大人しくさせる方法として、法執行機関が好む射撃方法だった。とはいえ、やれと言われて、誰にでもできることではない。
 だが、あの男は平然とした顔でやってのけた。
 それも、宙返りをしながら撃ってきたのだから、もはや人間離れしているとしか言い様がない。
 男はゆっくりと近寄ってきた。
 視線と一体化した拳銃を、こちらにひたと据えたまま、男は栄斗の右手を踏みつけてきた。
 栄斗の右手から、ピストルがこぼれ落ちる。
 男は栄斗の手から離れた拳銃を、つま先で蹴った。
「……とんでもねぇ、センスだな。俺様なんかじゃ、足下にも及ばねぇ……」
 珍しいことだったが、栄斗は素直に負けを認めていた。
 あんなアクロバティックな射撃を見せつけられれば、頭を垂れるより他はない、と栄斗は思う。
「で、テメェ、どうするんだ?」
 栄斗は男に尋ねた。
「どうする、とは?」
「ここから先は、お決まりの展開か? 決闘に負けた俺様は、銃で頭を撃ち抜かれて死ぬっつゥわけか?」
「当初は、そのつもりだった」
 男は栄斗にそう言いつつ、懐から手錠を取り出した。
 栄斗の手を背後に回し、男は栄斗の手に手錠をかける。
「お前が、神坂修司の名前を騙り、何かをしでかそうとしているのなら……個人的に決着をつけるつもりだった。だが、お前は何も知らないらしい。なら、カタをつける必要もなくなった」
「あン? どういうこったよ?」
「分からなくて良い。説明するのも、面倒だ」
「おい待てよ……いくら面倒だからって、こっちにゃ訊きてぇことはあるんだぞ?」
「言葉を返そうか。こっちにも、言いたくないことがある」
 思いの外、ドスの利いた声で、男はそう言った。
「分かったな? 余計なことは訊かないで――」
「果たして、本当にそうかな?」
 降って湧いた機械音声に、男も栄斗も、声のした方に首を向ける。
「久しぶりだな、栄斗。そして……修司」
 小柄な体躯に、黒いマント。
 顔につけた仮面のせいで、表情は伺えない。
 レッドフェザーで作戦立案と諜報活動を総括していたガルマンが、出入り口の扉付近に立っていた。
「言いたくないのなら、なぜ、こんな回りくどい真似をしたんだ、修司?」
「……何が言いたい、ガルマン?」
「そもそもの発端は、赤羽が、霧島栄斗と神坂修司とが同一人物である、と思い込んでしまったことだ」
「それで?」
「レッドフェザーがヤマシロ上層部と手を取り合ってしまえば、いずれ平和な世の中が訪れる。それを良しとしない栄斗が、レッドフェザーを離れた後……どんな行動に出るか。それが予想できた赤羽は先読みし、JBIに取引きを持ちかけた」
「だろうな」
 男――修司が相槌を打つと、ガルマンは語りを続ける。
「JBIには『とある不祥事』がある。JBIは、神坂修司が過去に起こした事件のことを、何としても伏せておきたいと思っている。そのため、死んだと思われていた神坂修司が生きていたと知れば……JBIは、顔を青くするだろう。躍起になって、神坂修司の抹殺に乗り出してくるし、事実、タクティカル・チームを出動させた」
 一拍置いてから、ガルマンは続ける。
「赤羽の口添えによって、JBIは、神坂修司が霧島栄斗と同一人物であり、霧島栄斗を抹殺することで、JBIの安寧に繋がると考えた。また、栄斗の心理を考えれば、人の多い場所にこそ出没する。なぜなら、栄斗は、どうせなら目立つ場所で派手に暴れたがるからな」
 だろう、とガルマンはこちらに一瞥を寄越してきた。
 内心を見透かされたため、栄斗はむすっとした顔になって、そっぽを向いた。
「だから、赤羽はJBIに、タクティカル・チームはヤマシロの中央地区に向かわせるように、と進言したはずだ。ところが、だ……ここで情報伝達に齟齬が発生した。修司、キミの手によって」
「ほう? 俺の手の内を分かっていたとは、さすがはガルマン」
 言葉こそ、相手を褒めるものだが、口調からは憎々しい響きしか感じられなかった。
 ガルマンは言った。
「キミがタクティカル・チームへ伝わるはずだった『中央地区強襲作戦』を『西地区強襲作戦』に変えた。これにより、タクティカル・チームは西地区の工事現場を襲撃した。しかし、そこには修司の仕掛けた罠があり、タクティカル・チームの人間たちは散々な目に遭っている」
「連中には、ささやかな“お返し”をしたまでだ」
 淡々とした声で、修司は答える。
 ガルマンは言葉を紡ぐ。
「いずれにしても、JBIの目は西地区へと向いていた。その隙に、キミは個人的に、霧島栄斗へと接触した。霧島栄斗が、神坂修司を騙っていたのか否かを調べるために。もっと言うなら、赤羽を騙していたのは、栄斗だったのか、それとも」
「お前であるかを確認する」
 ガルマンの言葉尻を、修司が引き取った。
「結論は出た。霧島栄斗はシロだった。案の定と言うべきか、クロはお前だったわけだ、ガルマン」
「まぁな。赤羽に『霧島栄斗の本名が神坂修司』だと吹き込んだのは、私だよ」
「神坂修司の名前が出れば、それも生きていたとなれば、JBIは赤羽と取引きせざるをえない。結果、赤羽を除いたレッドフェザーのメンバーは事実上の無罪放免となり、赤羽の望みは叶う。事実無根であるにもかかわらず、だ。これがお前の書いた筋書きだということまでは分かるが、何が目的だ、ガルマン?」
「それは、こちらの質問でもある。そちらこそ、JBIのタクティカル・チームにデマを流し、霧島栄斗に接触したのは、何故だ? 神坂修司」
 栄斗の頭越しに、栄斗の理解が追いつかないやり取りが飛び交っていた。
 体も満足に動かず、話も理解できないとなれば、栄斗は口をぽかんと開けたまま固まるより他はなかった。
 ガルマンは言う。
「私だって……まさか“本当に”キミが生きているとは思わなかった。だからこそ、JBIに揺さぶりを掛けるための方便として、赤羽と引き替えに、レッドフェザーの面々を釈放させるための方便として、神坂修司という名前を活用した」
「何のために? 何のために、レッドフェザーのメンバーが必要になる?」
「赤羽の望みを叶えてやるための釈放、では不満かな?」
「それはあくまで、赤羽という男の望みでしかない。お前の願望が含まれているとは、俺には思えない」
「確かに、キミの言う通りかもしれないな。でも……それじゃあ、キミはどうなんだ? キミは、何が目的で、JBIを出し抜いてまで、栄斗に接触してきたのかな?」
「……一つ、前置きしておくが」
 修司はそう言うと、少し間を置いた。
 それから言う。
「俺は、根本的には、何もしていない」
「今さら、ぬけぬけと何を言う?」
「本当だ」
「当時は、キミが事件現場にいたという証拠も見つかっているし、事件が起こったと思われる時間帯のアリバイが、キミには無かった」
「あの時間帯に、俺が事件現場にいたことも事実だし、事件を目撃したのも事実だ。だが、それでも俺は、やってない」
「……どうだろうな。しかし、捜査線上にキミという存在が浮上してきた時、JBIが顔色を変えたことは間違いない。JBI局長の次男にして、JBI捜査官の弟でもあり、JBIタクティカル・チームの隊員でもあったキミが、連続殺人事件の容疑者として浮かび上がってきたとなれば、な」
「あくまでも、容疑者だっただけだ。俺は、何もしちゃいない」
「だが、他に容疑者が浮かび上がってきたわけでもない。そうなれば、JBIの取るべき選択肢は二つ。身内の醜聞を世間に公表し、世間の槍玉となるか。全てを隠蔽し、適当な人間を犯人に仕立て上げてから、裏でこっそりと処理するか」
「JBIは、後者を選んだ。おかげで、殺されかけたぞ、あの時は……」
「まさか生きていたとは、誰も思うまい。いや、私ですら、思わなかったのだから、JBIじゃまず無理だろう……。ん? ということは、あれか? 修司、キミはまさか……JBIへの復讐をするために、栄斗へ接触してきたのかい?」
「ま、その一環といったところだな」
「やめておけ、無謀にも程がある」
 にべもなく、ガルマンは一蹴した。
「キミは元々、特殊部隊の隊員だったに過ぎない。捜査に関しては素人だ」
「だが、やらないわけにはいかない。デマだったとは言え、JBIは『神坂修司が生きている』と思っている。死んだままにしておいてくれれば、色々と動きやすかったものを……」
「そうなると、ますます、身の潔白を証明しないといけないわけだ。JBIの嗅覚は見事なものだよ。いずれキミは見つかって、極秘裏に処理される。そして今度ばかりは、彼らに失敗の二文字はない」
「ああ。だから、真犯人を捜し出して、真実を公表する」
「……これは、神坂家を敵に回す、ということでもあるぞ?」
「躊躇なく肉親を闇に葬ることができるような連中を、果たして家族と呼べるか?」
「家族だからこそ、非情にも冷酷にもなるのさ。『身から出たサビ』の始末だからな」
「何だって構わん。どうせ、俺のやることは変わらない。それで、ガルマン? 俺は、自分の置かれた状況と、俺自身の目的は、あらかた語っちまったつもりだが、お前はどうなんだ?」
「そうだな、これだけ言わせてしまえば、こちらも語らなければ、フェアじゃない」
 そう言うと、ガルマンは顔を覆うマスクに手を掛ける。
 空いている方の手で首もとのスイッチに触れる。すると、プシューという空気の抜ける音が聞こえた。
 ガルマンの顔から、マスクが外れた。
 外したマスクをガルマンは小脇に抱える。
 栄斗はここで初めて、ガルマンの素顔を見た。
「はじめまして、かしら」
 仮面の奥から現れたのは、女性だった。
 それも、少女だった。
 あどけなさの残る、丸みを帯びた顔立ちは、十代半ばと言っても通用する。
 そして何より、栄斗はこの顔を知っている。
 一ヶ月前、二月祭を襲撃した時、ターゲットとして拘束するように言われた人物。
 そう、確か――
「織宮、麗……」
 口をついて出た栄斗の声に、ガルマンはこちらを見た。
 そして、ガルマンは優しい笑みを見せた。
「やっぱり、そう見えるのね……」
「おい、織宮って確か……うちの潤の……」
 ここで初めて、少し逡巡したような声を発した修司に、ガルマンは視線を戻す。
「そう。織宮麗は、キミの弟である神坂潤の通う白百合学園の非常勤講師。ま、あっちはあっちで別の顔もあるんだけど、今はどうでも良いわよね、仮にも別人だし」
「別人だと? それにしちゃ、似すぎてねぇか?」
 栄斗が訊くと、ガルマンは答える。
「ある意味で当然よ、それは。だって、双子なんだし」
「双子?」
「ええ、そう。私は織宮美砂花(おりみや みさか)よ」
「それじゃ、テメェ……あの時、俺様たちに、実の姉を捕まえるような作戦を組んだのか?」
「妹よ、あっちは。姉は私」
「どっちだって良いだろ、今」
「そうね……ま、そうなるかしら」
「……妙な趣味持ってる俺様が言うのもナンだけどよ……テメェのやったことも大概だぞ?」
「妹の麗が、かなりの量の銃火器を抱えているという話は以前から耳にしていた。でも、その銃をどこから買い込んだのか、その出所が分からなかったの」
「ヤマシロには、特殊な教員免許として『射撃科教員免許』があっただろう?」
 ガルマン――美砂花と栄斗との会話に、修司が割って入ってきた。
「確か、特別優待価格で、銃の購入ができるとかいう……」
「いくら安く買うことができても、物を買うためには『物品』が必要になるでしょ。その物品は、どこから出ていたのか、考えたことある?」
「……ブラックマーケット?」
 修司の言葉に、美砂花は首を横に振る。
「ブラックマーケットに、特別優待価格、なんていうヤマシロが定めた制度を守らなければならない理由がない」
「個数が少なければ、専門店に行けば、安価で購入することはできる。しかし、大量に仕入れるとなると、ブラックマーケットくらいしか思いつかんが……」
「そもそも、考えてみたことある?」
「何をだ?」
「うちの妹は、本当に『自分の趣味』で銃火器を収拾していたと思う?」
「俺様は、趣味で集めてる、って聞いていたけどな?」
 違うのか、という意味を込めて、栄斗は美砂花に尋ねた。
「違うわよ」
 美砂花は否定した。「むしろ、逆。大量の銃火器収拾には裏がある。その裏側を隠し、取り繕うために、妹の麗は『自分の趣味』ということにしておいた」
「裏って、どういうことだ?」
 修司の問い掛けに、美砂花は言う。
「そうね、答えても良いんだけどね……」
 そこで言葉を切り、美砂花は視線を上に向ける。
 つられて、修司と栄斗もそちらを見た。
 この屋上に近づいてくるヘリコプターがあった。
 日は暮れているが、空の向こう側が赤紫色に染まっている。
 その赤紫を背にして、ヘリコプターが飛んできていた。
 民間機には見えなかった。
 機体に視線を向けたまま、美砂花は提案した。
「先に、ここから逃げない?」
「……名案だ」
 修司が首を縦に振った時だった。
 ヘリの下部についている投光器が、目映く輝いた。
 サーチライトが煌々と、ビルの屋上を白く染め上げる。
 ヘリの側面が横にスライドし、中から黒ずくめの男が身を乗り出した。
 男の手には、ライフルがあった。
 男がライフルを撃ち散らす頃には、美砂花と修司は、栄斗の体を抱えて、ビルの中へと飛び込んだ。
「というか、さっき、なんで足を撃ったのよ!?」
「条件反射だ!」
 美砂花の叫ぶような問いに、修司も叫び返した。
 いや、そもそも……
「どうして、俺様をあの場に残さなかった?」
 二人に体を預けつつも、懸命に足を動かして、栄斗は階段を降りる。
 降りつつ、栄斗は二人に尋ねてみた。
「俺様は正直なところ、生かしておいて、誰かが得をする人間じゃねぇ。むしろ、誰かを不幸にしかしてこなかった人間だ。助けるだけ、無駄だろうに?」
 修司は答える。
「この世に、死んで当然の人間なんかいない。だから、見殺しにはしなかった」
 続いて、美砂花も答える。
「それに、覚えておきなさい。死ってのは最も楽な方法よ。現実から目を背けて、逃げるという意味ではね。だから……死なせない。栄斗。あなたが今までにやってきたことの責任を、ちゃんと取りなさい」
「どうやって取れば良い? 俺様は、戦場でしか価値のない人間だぞ? それ以外じゃ、なんの価値も無い」
「価値の有無で、責任から逃れられるワケがないだろう」
 非常階段を三人で駆け下りつつ、修司がそう言った。
 栄斗は言う。
「……別に、償おうという意識も無いんだがな」
「なら考え方を変えてみろ。戦場でしか生きることができないと言うのなら、戦場での貢献が、誰かへの貢献に繋がるようなことを、してみろ」
「たとえば?」
「自分で考えろ、そんなもん」
 ぴしゃりとした声で、修司が言い放った。
 自分で考えろ、か……。
 考えてみれば、誰かのために戦ったことなど一度もない。
 全ては、自分の本能に従ったまで。
 戦場に身を置き、自分の持てる技術、自分の培ってきた経験、それら全てを駆使し、敵対する連中を倒すこと。
 それが、何よりも痛快だった。
 刺激を求め、ゲリラ活動にも参加した。
 元は街中で喧嘩に明け暮れるだけのチンピラに過ぎなかった自分をスカウトしたのは、ガルマンだった。
 あの日、酒に酔っていたこともあり、足下がおぼつかなかった。
 うっかり水たまりで足を滑らせたとき、派手に裏路地のゴミ捨て場に体を突っ込ませてしまった。
 たまたま、捨てられていた、錆びて尖っていた鉄の棒に、強かに体を突き刺した。
 あの時、赤羽とガルマンがあの場を通りかかっていなければ、どうにもならなかったことだけは間違いない。
 赤羽の手を借り、自分は助け出された。
 結局、医師免許を持っているのかどうか怪しい――赤羽曰く『腕は確か』とのことだが――医者に厄介になり、怪我を治療した。
 その後、ガルマンが赤羽に何を吹き込んだのかは知る由もないが、いずれにしても自分はレッドフェザーというゲリラグループの構成員になった。
 使う道具が素手から拳銃にかわり、倒すべき相手が街のチンピラから、鎬を削り合うゲリラや、あるいは法執行機関や軍特殊部隊へとかわった。
 道具と相手に変化はあったが、基本的に自分が今までにやってきたことと、そこまで大きな変化はない。
 結局のところ、自分は自分の力を確認し、誇示する。それができれば、満足だった。
 それが、誰かのためにならないことも分かってはいる。だが、だからといって、今さら生き方を変えることができるわけでもない。
 そういう意味では、自分はどうしようもないクズなのかもしれない。
 それでも、べつに、かまわなかった。
 だが……こんなクズに目をかけ、命を救おうという“奇特な馬鹿野郎”が存在するというのなら……
 そんなヤツこそ、生きるに値する。
 こんなクソみたいなゴミ人間を、咄嗟の判断で銃撃から助け出したのだ。
 どうしようもないクソッタレなクズ人間に、説教までしてきたのだ。
 過去に何があったか知らないが、それでも栄斗は断言できる。
 神坂修司は間違いなく良いヤツであると。
 そんな善人が、死んで良いハズがない。
 栄斗は唇の端を歪めた。
 戦場での貢献が、誰かへの貢献となるようなこと。
 それを、栄斗は思いつくことができた。
 不意に、栄斗は足を踏ん張った。
「なんだ!?」
 急いで階段を降りようとしていた修司が、怒声と共に振り返る。
 美砂花も栄斗の方を振り返った。
 栄斗は言う。
「……俺様を、置いていけ」
「いいや、置いていかない」
「足手まといになるだけだ」
「ここはジャングルの奥地か? 都会のど真ん中だろう? 大丈夫、その気になればいくらでも逃げ切れる」
「テメェ、良い奴だな」
 出し抜けに話題を変えられたことで、修司は虚を突かれた顔になった。
「俺様が保証してやる。テメェは誰も殺してない。少なくとも、俺様と違って、快楽に身を任せた殺しや、意味のない殺しはしちゃいねぇ。ただ、強いヤツと喧嘩することが好きってだけだ。違うか?」
「褒めてくれるのは嬉しいが、後にしろ。まずは逃げるぞ」
「ああ、テメェは逃げろ。逃げて、生き延びろ」
「何言ってるんだ? お前も……」
「俺様が、どうにかして時間を稼ぐ。その間に、絶対に生き延びろ」
 絶対、の部分を栄斗は強調した。
 強い決意の籠もった声だったためか、修司は鼻白んだ。
「テメェみたいな良い奴が……死んで良いハズがねぇ。そんな世の中は、間違ってる」
 その時、ふと栄斗は赤羽の顔が脳裏に浮かんだ。
 ああ、赤羽もこんな気持ちだったんだろうな。
 間違っていると思ったからこそ、赤羽は十一年前からずっと戦ってきた。
 そして、その間違いを正す見込みがついたからこそ、赤羽は戦いの矛を収めた。
 そして、自分が犯してしまった罪を償うべく、赤羽は投獄されることを選んだ。
「やはり、死ぬんだったら……俺様みてぇなクズ野郎が先だ」
 栄斗の独白に、修司と美砂花は顔を見合わせた。
 それから、美砂花は言った。
「らしくないわね、栄斗? 良心の呵責なんて、あなたらしくもない」
「撃たれたから、かもな」
 美砂花の言葉に、栄斗は応える。「自慢じゃねぇが、俺様はこれまで、ロクに撃たれたことがないし、もっと言えば戦って負けたことはない」
「修司に負けて、天狗の鼻を折られたってこと?」
「ああ。だから……撃たれる痛みってヤツを、俺様は知らなかった。痛ェんだな……こんなにも」
 自分はどれだけの人間に、この痛みを植え付けてきたのだろう?
 それこそ、今さらとしか言い様がない、良心の呵責だった。
 栄斗は修司に言った。
「さっき会ったばっかで、俺様はテメェのことを、それほどよく知ってるわけじゃねぇ。でも、これだけは分かる。テメェは何も、悪いことをしちゃいねぇし、死んで良い人間でもない。むしろ……絶対に、生きなきゃいけねぇ種類の人間だ。だから、生きろ」
 それから栄斗は、美砂花に首を向ける。
「そっちもそっちで、何かワケありなんだろ? だったら、こんなとこでボサッとしてねぇで、さっさと逃げろ。そして、自分のやりたいこと、やるべきことに集中するこった。俺様みてぇなクズは、キレイサッパリ忘れろ。良いな?」
 言うだけ言って、栄斗は修司と美砂花の腕をふりほどいた。