West area

一年の終わり ‐ 桜井充

 春休みになると、学生寮が閉鎖される。
 しかし、春期休暇の間も、学園その物は開放されていた。運動部などがグランドや体育館などで練習をしたがるためであった。
 普段は学生寮で生活している桜井は、生活の場が使えないため、実家に戻らざるを得ない。しかし、実家に戻る前に、桜井は学園内の廊下を歩いていた。
 体育館へと続く廊下を歩いていた時、見知った顔が向こうからやって来るのに気がついた。桜井はその男に向かって「よっ」と声を掛ける。
「ん? ああ、桜井。なんだ、実家に帰ったんじゃなかったのか?」
「ちょっと用事があってさ」
 そう言って桜井は、沼倉太郎と立ち話を始めた。
 陰りのある表情に、棘のある目付き。お世辞にも明るいとは言えず、どちらかと言えば陰気くさい部類に入る顔立ちをしている沼倉だったが、桜井とは何故かウマが合った。
 多分、似たような趣味をしていたからだろう、と桜井は思う。
「ふーん? ま、何でも良いけどよ……お前、この前貸したエロゲー返せよ」
「あ、悪ぃ。まだパソコンにインストールしてないんだわ」
 学校の廊下の真ん中で平然とそんな会話ができるくらいには、二人の趣味は共通していた。
「インストールだけなら、そんなに時間も掛からないだろ? さっさと入れるもん入れて、返してくれないかなぁ……」
「もうちょっと待ってくれって。そんな急ぐもんでもないだろ?」
「急ぐさ。アレ、そろそろ売らないと……買い取り価格が下がり始めてる」
「え、そうなのか?」
 目を丸くして訊き返した桜井に、沼倉は「ああ」とこちらを少し批難する声で応じてきた。
「そりゃ、悪いことしたなぁ……。でも、寮が閉まってるから、取りに行けないんだわ」
「はぁ!? おいおい、人から借りたモンを寮に放置しっぱなしかよ……。まぁ、良いや。価格が急に下がるわけでもないだろうし……とりあえず、新学期になってからで良いから、なるべくさっさと返してくれよ?」
「ああ、そうする……。いや、なんか、ホントに悪いことしちまったな……」
「……ホントにそう思ってるか?」
「え?」
 問い返した桜井に、何か良からぬことを思いついてしまったらしい不敵な笑みを向けてくる沼倉だった。
「なんだ、なんかあるのか?」
「ああ。実はこの春休みに、コミッシュがある」
「コミッシュ? ……ああ、コミックマルシュだっけ?」
 コミックマルシュとはヤマシロ西地区臨海地域で開催される、同人誌即売会のことだった。
「そうそう。そこで色々と回収したいモンがあるんだけど……人手が足りなくて。つーわけで、桜井、手伝え」
 長きにわたる長蛇の列。それに並び、即売されるグッズを回収する。
 簡単なように見えて、これが中々に辛い。
「えーと、それ拒否権は?」
 念のため、桜井は確認してみた。
 意地の悪そうな笑みを浮かべ、沼倉は答える。
「あると思ってんのか?」
「……無さそうだな」
「その通り。それじゃ、細かい日時やら集合場所、そして回収して欲しいモンとかはまた連絡すっからな。当日はヨロシク!」
 そう言うと、上機嫌そうな顔になって沼倉は歩き去っていった。
 桜井は溜息を吐き、それから沼倉とは逆方向の道を歩き始める。



 少し前までなら、多少なりとも活気を持って機能していた、体育館地下の射撃訓練場。
 だが、射撃科という科目が廃止される目通しがたっており、改装工事が実施されるのも時間の問題となっている地下は、春休みということを抜きにしても閑散としている。
 そんなところに用事があるわけでもなく、また二階に用事があるわけでもなく、桜井は体育館の一階へと足を踏み入れた。
 そこには柔道場と剣道場がある。
 道場の奥には、倉庫のような通路があり、そこにはバケツに突っ込み放題となっている竹刀やら、捨て置かれている木刀やら、防具一式の収まる棚があった。
 この通路に置いてある道具の大半は、学園の所有物だが、乱雑な扱いをされている道具のほとんどは、男子剣道部のものだった。
 現在、諸事情があって男子剣道部は活動を停止しているので、剣道場を使っているのは主に女子剣道部だった。
 チラと道場に目を向けると、春休みと言えども、竹刀で素振りを繰り返す女子達の姿があった。
 桜井がここにやって来たのは、部活に勤しむ女子の姿を目に焼き付けるという覗き行為が半分と、もう半分の目的は、自分自身の鍛錬のためだった。
 桜井が通路奥に捨て置かれていた木刀を手に取った時、背後から「ちょっとアンタ」と声を掛けられた。
 振り返ると、女子剣道部の部長をしている土屋歳美(つちや としみ)がいた。
「……なにしに来たのよ、“ナマクラドイツ”?」
 白百合学園男子剣道部の蔑称だった。
 男子剣道部は、とある事情から女子剣道部から激しく軽蔑されている。過去に男子剣道部の一員だった桜井もまた、彼女達から敵意の籠もる目で見られていた。
 桜井は土屋に答える。
「なにしに、ってそりゃ……自分自身を鍛えにきたんですよ、先輩。他の理由で、こんなトコ来ませんて」
「どうだか……。道場でアホなことやってたのは、どこのどちらさんでしたっけねぇ?」
「当てこすりはやめてくださいよぉ……。あれは俺、関係無いですって」
「同類でしょうに」
 そう言って、フンと鼻を鳴らし、土屋はそっぽを向いた。
 整った目鼻立ちをしている土屋は、ある男に言わせれば「美人」とのことだし、ある男に言わせれば「可愛い」とのことである。
 だが、切れ長の目で睨まれるともの凄く威圧感がある。ツンとしたキツい性格も相まってか、とにかく相手を威嚇しているような印象があった。
 まるで虎だな……あるいは鬼か、と桜井は思う。
 だが、そのキツい性格も、射貫くような双眸も、のらりくらりとかわす男がいる。奇妙なことに、その男の前では“虎”も“猫”なるとかなんとか。
 “猫”としての土屋の一面を、桜井は知らない。知らないが、猫としての片鱗なら、感じたことはある。
 だが、今の土屋からはその片鱗すらも感じ取れない。
 だから桜井は「上手くいってないんですか?」と尋ねていた。
 虚を突かれた質問だったのだろう。土屋はきょとんとした顔になった。
「……何がよ?」
「彼氏さんとです」
「なっ……!」
 言葉を詰まらせ、一気に顔を赤くする土屋を眺めていた桜井は、ふと“瞬間湯沸かし器”という単語を思い浮かべた。
 顔を赤らめたまま、土屋は言い返してきた。
「あ、アンタにそんなもん、関係ないでしょうが!」
 尤もな反論に、桜井は「そりゃまぁ」と言っておくに留めた。
「でも、あんまりピリピリしてると、他の部員から怖がられますよ?」
 一応、忠告なるものをしてみた。
 すると、言下に
「大きなお世話よっ!」
 雷のような声が返ってきた。
 改めて思う。
 やはり彼女は虎であると。
 彼女を猫に変えてしまう“あの男”は、一種のバケモノであると。



 稽古に励む女子剣道部員たちを横目に見つつ、桜井は木刀片手に道場へと足を踏み入れる。
 道場の片隅に正座し、桜井は背筋をピンと伸ばして目を閉じた。
 黙想し、精神を集中させる。
 そのついでに、少々“如何わしい”ことも考えてみた。
“もう! ココがこんなことになってるわよ?”
“いったい、何を考えてるんだか……”
“ちょ、ちょっと!? な、なんか、大きくなってない!?”
“え、君のことを考えてたら大きくなっていた?”
“う、うん……それなら、まぁ……うん。仕方ないね”
“あ、いや、その、そういう意味とか、そういうんじゃなくって……いや、まぁ、その……と、とりあえずさ、私のことを考えてくれたのは、嬉しいなぁ、って……”
“で、でも! そんな、普段からそんなことばっかり考えてるのって、なんか……だらしなくない? いや、むしろ、だらしねぇな!”
“あん? 歪みねぇ? ノォ! だらしねぇな、最近だらしねぇ、あぁん!?”
 桜井は目を開ける。
 そして、首を傾げる。
 どこでどう、何を間違えたんだろうな、と自問したが、自答することはできなかった。
 素直に、マトモな黙想をするか、と思った桜井はもう一度、目を閉じた。
 刹那、桜井は殺気を感じた。
 目を開けるより先に、桜井は木刀を引っ掴み、片膝立ちになる。そして目をカッと見開き、木刀の切っ先を突き付ける。
 こちらの脳天を打ち据えようと、竹刀を大上段に振り上げている土屋の姿が目に映る。また、自分の木刀が土屋の喉元のすぐ傍にあることにも、遅れて気がついた。
「……土屋先輩。何か用ですか?」
「……へぇ? アンタ、そんな目もできるんだ? 満更、腑抜けてるわけでもなさそうね」
 言われてから、自分がささくれ立った視線を土屋に向けていることに気がついた。
 桜井は木刀を左手に持ち替え“納刀”した。
 それから立てていた膝をおろし、正座の姿勢に戻る。
 ふぅ、と一息ついてから、土屋も竹刀を納刀する。
 藍色の胴着に濃紺の袴。そこに胴と直垂を身にまとう土屋の姿には凛々しさがあった。
「それにしてもひどいですよ、先輩? いきなり竹刀で人の頭目がけて殴りかかってくるなんて……」
「道場の隅っこで、気持ちの悪いニヤニヤ笑いしてるからでしょう。覗きならシバき回してから、道場の外にほっぽり出すわよ?」
 存在を無かったことにされつつある男子剣道部と違い、女子剣道部には活気がある。その剣道部を束ねているのだから、部長の威厳たるや凄まじい。
 分かりやすく言い換えれば、もの凄く怖い目をしている、ということだった。
「ああ、心配しないでください。俺、先輩に興味はありませんから」
 桜井の言葉に対し、土屋はいっそう険しさを増した目になった。
「こっちだって願い下げだっ、馬鹿!」
 気付けば、怒られていた。



 剣道場での鍛錬――という名の、実際は土屋によるシゴき――を終えた桜井は、這々の体で校舎の廊下を歩いていた。
 防具一式を身につけた桜井に、土屋の情けも容赦もない打ち込みに、桜井は打ち据えられ続けるハメになった。
 反撃すれば良かったが、実戦形式ではなく、攻める練習のサポート役に徹する必要がああるので、うかつに反撃するわけにはいかなかった。
 日常生活では虎となり、ひとたび防具を身にまとい竹刀を握れば鬼となる。それが、土屋歳美という人間だった。
 なにをどうすれば、土屋が猫になるのか。
 気になった桜井は、全ての元凶――だと桜井は思う――を訪ねてみることにした。
 男子剣道部を活動停止状態に追い込み、論理のすり替えで別のサークルを立ち上げ、虎を猫のようにあしらう男。
 上本琴也(うえもと ことや)の元を。
 本校舎の一階廊下を通り過ぎ、桜井は旧校舎へと向かう。
 旧校舎は、文化系クラブの部室となっている。また、使われていない教室もいくつかあり、使用許可を取り付けさえすれば、自由に使うことのできる部屋がいくつかある。
 そのうちの一つに、桜井はやって来た。
 出入り口の扉を開く前から、ジャラジャラという音が聞こえてくる。
 やはり今日もここか――
 思わず、溜息を吐いてしまった桜井は、気を取り直してから扉を開ける。
「おう、桜井。久しぶりだな、打ってくか?」
 顔を見るなり、麻雀に誘われた。
 鷹のような鋭い目をしているものの、笑えば目元に独特の愛嬌があるのが、上本という男でもあり、憎めない種類の人間だった。
 男子剣道部の元部長にして、現在は確率研究会の会長を名乗る男の笑顔を見ていた桜井は、何を言う気にもなれなくなり、ただ一つ……
 盛大な溜息を吐いた。