2011年四月。
受験というものを勝ち抜き、晴れて大学の一回生になった者もいれば、受験に失敗し、予備校通いを余儀なくされた者もいる。
特に後者の方は、前者に対する敵意すら覚えている場合があり、涼風館ヤマシロ中央校の校舎には、異様な雰囲気を醸し出す者達もいる。
来年こそは……と思い、闘志を奮い立たせている連中もいるし、受験シーズンは約一年後なのだから、今はまだ本気にならなくても大丈夫、などと余裕を見せている連中もいる。
どちらも一長一短だろうな、と風間清太郎は感じていた。
闘志を前面に出している連中は、確かに勉強をする。しかし、えてして彼らはガス欠になりやすく、ここぞというときに失速する。しかし、余裕をかましているヤツは最後の最後まで余裕をかましているため、加速することがないことも大いにあり得るのであった。
結局のところ、力を入れすぎず、抜きすぎず、のバランスが大事ということである。
これでも現役時代、私立大学に合格した身なのだから、力加減というものを風間は理解していた。
だが、風間は私立大学を合格したにもかかわらず、こうして涼風館予備校の教室にいた。
私学の入学を蹴ったのは、国公立大学に拘りたいからであった。
親からは「私学とはいえ、合格したんだから素直に入学すれば良いものを……」と苦言を呈されたが、こればっかりは譲ることができなかった。
だからこうして、大学に受かった身でありながらも、大学に落ちた連中と一緒になって、涼風館ヤマシロ中央校で校長をしているという男の訓話を聞くとも無しに聞いているのであった。
「えー、実を申しまして、ですよ? これでも私はヤマシロ市立大学の出身なんです。これから、ヤマシロ市大を目指して、一年間頑張ろうと思っている君たちには、一つアドバイス。あの大学でのキャンパスライフは楽しいですよ〜?」
楽しい楽しいキャンパスライフ。それを味わいたければ合格するしかない。
だから、頑張れ……ということか。
あの校長は言葉を間違えたな、と思った風間は少しばかり片頬を歪めた。
校長としては発破を掛けているつもりなのだろうが、大学受験に失敗したばかりの連中にそんなことを言ったところで、火に油を注ぐ行為にしかならない。
現に、この教室にいる“予備校生”たちのほぼ全員が、刺すような目を校長に向けた。
――落っこちた俺達に対するイヤミか、それは……
――タラレバの話してんじゃねぇよ、くそったれ……
――受かった連中が、羨ましいぜ、畜生……
一応、ここは理系クラスということになっている。そのせいか、クラスの顔ぶれには男が多かった。
男達の、怨嗟の籠もった視線に気付いたのだろう。校長は乾いた笑いを漏らしてから「じゃ、じゃあ、皆さん! これから頑張ってください!」と取り繕う声を発して、逃げるようにして教室を出て行った。
予備校の支部トップがあれじゃあ、この校舎もタカが知れてるかもな……と風間は考えたが、要は自分自身の努力と運、そして実力の問題か、と考え直し、風間はこの予備校を必要以上に頼るのをやめておくことにした。
校長の訓話が終われば、本日は解散となる。
授業の開始は明日からなのだが、校長の言葉で心に火が付いてしまった連中は、争うようにして自習室へと向かっていく。
ああいう連中が閉じこもった自習室は、妙な熱気が溢れれるものだ。
自分も勉強しなければいけない、もっと勉強しないといけない、という空気にあてられてしまえば、自分のペースというものが崩れてしまう。
それが嫌だった風間は、この後の行動について考えてみた。
どこか近場に、コーヒーショップがあったはず。あそこは確か、割と物静かな空間だったような記憶がある風間は、そこに向かうことにした。
テーブルの一つを占拠し、そこで数学の復習でもやるか、と考えつつ、筆記用具と参考書しか入ってないカバンを抱えて、椅子から立ち上がる。
「ねえ、ちょっと良い?」
隣りの席にいた女の子から声を掛けられた。
風間は「なに?」とそちらを振り返る。
どことなく品のある所作に、どこかのお嬢様だろうか、と風間は感じた。
「今から、ヒマ?」
彼女のフランクな物言いに、しかし深窓の令嬢とかではなさそうだ、と風間は思った。
結局、風間はその少女を伴って、ヤマシロ中央地区のコーヒーショップへとやって来た。
テーブルに筆記用具と数学の問題集を広げて、勉強するつもりだったのだが、いつの間にか、テーブルにはホカホカとした湯気を立ち上らせるコーヒーのマグカップが二つ、置いてあるだけであり、そのテーブルを間に挟み、風間はその少女と向かい合って座っていた。
「あ、そういえば、自己紹介とか、まだだったね?」
そう言って笑う彼女の顔に、風間はどことなく見覚えがあるような気がした。
そう、確か……テレビか何かで……
だが、どこで見たのか、いまいちよく思い出せない。
首を捻る風間に、彼女は言った。
「私は西園寺美咲。よろしくね」
「あ、ああ……。俺は、風間。風間清太郎」
西園寺、という名字。
それは確か、少し前までヤマシロで市長をしていた男と同じ名字ではなかったか?
あまりメジャーな名字だとも思えず、風間は美咲に尋ねてみた。
「君、西園寺って……それまさか?」
風間の言葉を汲み取ってくれたのだろう。美咲は首を縦に振る。
「ええ、そう。前のヤマシロ市長、西園寺厳蔵(さいおんじ げんぞう)は私の父よ」
美咲の言葉に「へぇ?」と風間は相槌を打つ。
どことなく品がある、と思ったのは間違いではなかった。どうやら本当にお嬢様であったらしい。
美咲は続ける。
「それで、風間」
名前を教えるや否や、いきなり呼び捨てにされた。お嬢様にしてはかなり砕けた言葉遣いだよな、と風間は改めて感じつつ「なに?」と訊き返す。
「現役ではどこ滑ったの?」
ズケズケとしたもんだなぁ、と風間は苦笑した。受験に失敗して日の浅いこの時期に、まっとうな予備校生に、そんな軽々しい口調で尋ねればドツかれるぞ……と風間は思ったが「どこだと思う?」と疑問系で返してみた。
「敢えて……ゼロズマの九帝大学とか?」
また日本最難関と呼び声の高い国立大学を挙げてきたな、と風間は苦笑いを浮かべる。
「まさか。俺が受けたのは私立大学だよ」
受かったが浪人した、とは言わなかった。
初めて会ったばかりの人間に、そこまでを言わなければならない筋合いもない、と風間は判断する。
マグカップを手に取り、風間はコーヒーを口に含む。
そちらが先に訊いてきたのだから、こちらが訊き返しても問題はあるまい、と考えた風間は「で、そっちは?」と尋ねてみた。
「ん?」
「いや、そっちはどこを落ちたのかなって」
「ああ……。実は、私も私立大学に行く予定だったんだけどね」
「予定?」
「推薦で合格通知は貰ってたのよ」
「……おい、推薦入試って確か、入学の辞退ってできないはずじゃなかったか? それなのに、なんでこんなとこにいるワケ?」
口が勝手に動き、風間は美咲に疑問をぶつけていた。
「……推薦、取り消されちゃってね……」
「取り消し……?」
「そう。ま、色々あってね……」
そりゃ、推薦を取り消されるくらいなのだから“色々”あったのだろうな、と風間は思った。
「よぉ、大学生。女連れてるとは良い御身分だな?」
不意に、後ろから声が飛んできた。聞き覚えのある声だったので、風間は振り返る。
顔を見た途端、風間は顔をしかめた。
高校時代のクラスメートの、倉持憲吾だった。
「……倉持。なんでここにいる?」
露骨に顔をしかめて倉持に尋ねると、倉持もまた嫌そうな顔をした。
「うるせぇよ、大学生。俺はテメェと違って、浪人生活を余儀なくされちまったんだ。そこの予備校通いだよ、これから一年」
やってらんねぇぜ、まったく、と言って倉持は盛大な溜息を吐いた。
「ん? そこの予備校って、涼風館のこと?」
美咲が倉持に話しかけた。
倉持はそちらを見やり、風間に対する顔つきとは打って変わって、作ろうとしても作れないであろう爽やかな笑みを浮かべてから言う。
「そうそう、そうなんだよ。え? なに? 君、ちょっと可愛いね? 大学生? あ、大学生なら先輩になりますね、敬語つかわないと!」
表情も違えば、声色も違う。
俺に対する態度と違うじゃねぇか、とは風間は考えなかった。倉持とは、相手が変われば態度が変わりすぎる男なのだから。
美咲は言う。
「あー、違う違う。私も浪人生で、そこの予備校に通うことになったのよ。これから一年」
口調を真似られたことで、一瞬、倉持は鼻白む。
しかし、すぐに倉持はにっこりと笑って「へぇ、じゃ俺と同じか」と砕けた口調になった。
「あれ? おい、風間よぉ」
倉持が風間に話を振ってきた。「お前、こんなカワイコちゃんと、どこで出会ったんだよ?」
「……俺も、浪人だ」
渋々、といった口調を隠すことなく、風間はそう言ってやった。
「は?」
案の定、倉持は口をポカンと開けた。
風間は溜息を吐く。
別に、隠し通すつもりはなかったが、かといって言いふらすつもりもなかった。
しかし、自分から口を割る必要がありそうだった。
「俺は、合格した私立大学を蹴って、浪人することにしたんだ」
風間の言葉に、倉持も、そして美咲も、目を丸くしていた。