ゴールデンウィークが明けた。
とはいえ、予備校生に一週間近くの休みなど与えられるはずもなかったが。
ハナから試験科目数の少ない私学を目指している連中なら話も変わってくるだろうが、こちらが目指しているのは、理系の国公立なのだから、五教科七科目で試験体勢を整えていかなければならない。
悠々とゴールデンウィークを満喫しているヒマがあるなら、授業を受けろ……ということなのだろう。
まぁ、こちらも『国公立大学理系学部』に合格するつもりで、予備校の門戸を叩いたのだから、一向に構わなかったが。
「授業スピード、はぇぇぇ……ノート取るだけで精一杯だぜ、ドちくしょー……」
……中には、バテていることを隠しもしないヤツがいるのだったが……
ノートの取り方など、基本中の基本。勉強云々以前の問題だと、風間は思う。
「高校時代、ロクすっぽノート取らず、授業中にPSPを弄り倒してたのはどこの誰だよ?」
予備校地下の休憩室でテーブルを挟み、風間は倉持に尋ねてみた。
テーブルに突っ伏していた倉持はガバッと体を起こしたかと思うと、風間をジロと見る。
「うるへー! だいたい、テメェこそ高校じゃ、授業のほとんどを寝て過ごしてただろうが!」
事実だったので、否定しないことにした。
しかし、なおも倉持は愚痴る。
「……それなのに、どうして俺だけ落ちて、お前は大学に受かってるんだよ……。付け加えるなら、お前と俺が、どうして同じ予備校で浪人生活をしているわけなんだ、あ?」
「言っただろ? 俺は私学にゃ興味無い。国公立にしか行く気がないんだよ」
風間がそう言うと、倉持が「ケッ」と唾を吐くような声を漏らす。
倉持は再び、テーブルに突っ伏した。
風間は倉持の背中から視線を逸らし、紙パックに入ったレモンティーを口に含む。
「……そりゃよぉ……分かるけどさ」
倉持のくぐもった声が聞こえたので、風間はそちらに目を戻す。
「あん?」
倉持は顎をテーブルに載せ、言葉を続ける。
「……悲惨だったもんなぁ、高校生活……」
倉持はどこか遠くを見るような目になった。
「これでも、俺達だって……必死扱いて勉強した時期があったよな。忘れもしねぇよ、中三の時だ……」
風間もまた、倉持の言葉を聞きつつ、中学三年の頃の自分を思い出していた。
「行きたい高校があった。そこに行きたくて必死だった。でも、結果は見事なまでの惨敗……。おかげで、滑り止めで受けた私立高校に行かざるをえなかった……」
行くべき高校が見当たらないやつだって、世の中にはいる。
そいつらに比べれば、自分たちは随分と恵まれている方だろう。
しかし……それを理解するには、当時の自分たちは余りに世間や世界というものが狭すぎた。
「気持ちを切り替えようとしたさ。ここが、俺の、通うべき学校なんだ、って……」
気持ちを切り替えることのできない者もいる。むしろ、倉持のように、気持ちを切り替えられない者の方が多かったかもしれない。
清和学園。
仏教の色合いが、ほんのりと感じられる私立学校だった。
後に、この学園の出身であり、学園一族の一員でもあった織宮友和という男の手によって『清和教団』なる宗教団体が派生している。
この学園では宗教色が強いか、と言えばそこまででもない。しかし、進学率が高いことで有名でもあり、学歴を追い求める者達はこぞって入学したがる学校でもあった。
地元の国公立高校の中でも『トップクラス』と呼ばれる高校に進学する場合、滑り止めとして選ばれることが多いのが、清和学園でもあり、それが倉持や風間が清和学園を受験した理由だった。
それだけなら、清和学園に大きな問題はない。
だが、清和学園には負の爆弾がある。
学園から派生し、後に原発ジャックを巻き起こし、西地区を荒廃させる原因を作った『清和教団』の温床となった、という爆弾が。
学園側は、宗教団体の教祖である織宮友和とは縁を切っている、と主張していたし、事実、学園で採用している宗教は世間一般で知られているところの“仏教”であり、清和教団が採用していたような“独自の解釈を交えた宗教”ではなかった。
だからこそ、十一年前にテロが起こった時、学園が潰れることなく存続することができたわけである。だが、世間の目が冷たくなることまでは、避けようがなかった。
聡明な人間達は、宗教団体としての清和教団と、教育機関としての清和学園がまったくの別物である、ということを知っているし、だからこそ自分の子供を学園に預けることを承諾した。
しかし、世の中、名前が同じならば『全て同じ』と見なす人間も多い。
清和学園の制服を身にまとい、通学路を歩くだけで、清和学園の学生達は軽蔑の視線を向けられた。
“テロリストの予備軍養成所の学生が……”
“父さんを返せよ、クソ野郎共……”
“アレも宗教学校らしいわね……”
“え、じゃあ、やっぱり、あんな宗教団体みたいに危ないのかな?”
“当たり前だろ……うわ、こっち見てる”
“目、合わさないほうが良いよ……殴られるかも”
“それで済むなら、まだマシだ! だって、ホラ、連中……”
“と、とにかく、あっちに行こう”
世間からの蔑視に耐えられない者達は、次々と学園を去っていった。
しかし、他に行くアテの無かった風間や倉持には、学園を去る、という選択肢すら無かった。
いくら『俺達は違う、まともだ!』と声高に主張しようとも、決して聞き入れられることのない自分たちの声。
苦渋を舐めようとも、耐えざるを得なかった。
これが、第一志望を落ちたということ。
これが、あと少しの頑張りでどうにかなったところを、踏ん張りきれなかった“早漏野郎”の末路ということ。
たまたま、拾ってしまった勝ちに甘んじ、自分が本当に勝たなければならないところ、勝ちたいと思っていたところで、実力を発揮できなかった者の終着点。
それが、倉持の感じている無念と屈辱、そして後悔なのだろう。
だから、第一志望を譲れない気持ちは理解できる……と倉持は言いたいのか。
倉持なりに、風間の選択に対して同情しているということだろう。
倉持は言った。
「……第一志望は、譲っちゃいけないんだ、っていう気持ちは分かるさ。でもなぁ……浪人と天秤に掛けるとなると、また悩みどころだぜ」
ま、ハナから行く大学の無かった俺にゃ選択の余地は無かったけどな、と言って倉持は苦笑する。
そんな倉持に、風間はこっそりと冷笑を返しておいた。
天秤に掛けられるくらいなのだから、世間の蔑視など、その程度にしか受け止めていないんだろ、と風間は内心でのみ倉持に言ってやる。
本当に悔しけりゃ、高校時代の、あのふざけた授業態度はいったい何だったんだよ、とツッコミを入れてやろうか、とも思ったがやめておくことにした。
入れてやったところで、どうせ倉持のことだ。今さら、改善するはずがない。
それに、風間は倉持と違って「世間の蔑視」に苛まれて、第一志望に拘っているわけではなかった。
そんなワケの分からない“第三者の視線”に怯えたことなど、風間はなかった。言いたいヤツには言わせるまでだし、必ずどこかに自分のことを分かってくれる人間はいるものだ、と風間は信じていた。
だが……風間にも意地が無いわけではない。
第三者の蔑視など、シカトしていれば気になるものではない。
厄介なのは“シカトできない者”からの軽蔑の目だった。
風間は、それを相手にして戦っている。
だからこそ、風間には“負けられない”という思いがあった。
風間は飲み終えた紅茶の紙パックを持ったまま、立ち上がる。
「んあ? どっか行くのかよ、風間?」
「ああ」
応じつつ、風間は歩く。「勝ちたきゃ、勉強するっきゃねぇだろ」
そう、自分は“勝つ”ために、ここにいる。
誰に?
決まっている。
勝ち逃げをぶちかましてくれた、あのクソ野郎に。