傘張り生活

八月

 八月になると、梅雨など過去の遺物である、と思わされるほどに晴れ晴れとした日々が続くようになっていた。
 同時に、夏休みも本格化し、受験勉強における天王山も始まっていた。
 熱気に負けてしまいそうになるのがこの時節。受験生達は冷房の効いた自習室で、自分自身の得意教科を伸ばしたり、苦手分野の克服に勤しんだり……あるいは、休憩室で携帯電話のテレビ機能で全国高校野球の中継を見ては騒ぐ日々に明け暮れたりしていた。
 今頃、本来なら自分も、涼しい場所で弱点単元を潰していたはずだった……と風間は思う。
 ヤマシロ中央地区の東側。もう少し道を行けば、ヤマシロの東地区に入ってしまうだろう、というほぼ境界線付近に、ヤマシロ中央体育館はあった。
 その体育館の観客席に、倉持と一緒に席に座っている風間であった。
「……いつから、お前、剣道が好きになったんだ?」
 一応、隣りに座っている男に訊いてみる。
「そんなもん、美咲ちゃんに剣道大会の話をされた瞬間に決まっとろーが」
 案の定だった。
 風間は、体育館に入場する際に、係員から手渡されたパンフレットを読み返してみる。
 全国高等学校学生剣道蒼鷲旗大会。
 長ったらしいネーミングではなく、普段は単に『蒼鷲旗』あるいは『蒼鷲旗大会』と呼称されているのだ、と先程、美咲は語ってくれた。
 パンフレットに載っているトーナメント表は、恐ろしく小さな字で書かれていた。小さな字で書かなければならない、ということはそれだけ表が大きいということであり、さしずめそれは……
 参加校が、とてつもなく多い、ということだった。
 試しに、数えてみる……が、すぐに飽きた。
 ぱらぱらとページを捲っている内に、どうやら今年の参加校の総数は、五百校を超えているとのことだった。
「……そりゃ、トーナメント表もデカくなるわけだ」
 風間はボソリと呟いた。
「大きくなったでしょ、その表も」
 こちらに近寄ってきた美咲が、そう言った。風間は視線をパンフから美咲へと向ける。
「前はもっと小さかったのか?」
「うん。前にヤマシロで蒼鷲旗大会やった時は、百二十校だったか、百三十校くらいだとか」
「……えらく増えたな、また」
「というより、それが普通なのよ」
 地方大会とか予選が無いから、それくらいの数にもなるわよ、と言ってから、美咲はペットボトルに入った麦茶で口を湿らせる。
「ヤマシロの治安がマシになったのって、ここ最近の話。そりゃ、ヤマシロの全部が危ない場所、ってわけじゃなかったから、蒼鷲旗大会のヤマシロでの開催は、中止にはされなかったけれど……」
「たかが剣道の大会一つのために、危ない土地にやって来たがるやつは少ない、ということか?」
「ま、そんなところ」
 ここでも、ヤマシロでのテロが尾を引いているらしかった。
 日本の一地方都市で起こった事件では済まなかったということか、と風間は思った。
「で、美咲ちゃん?」
 倉持が口を開く。「後輩の応援って言ってたよね?」
「ああ、うん。それがどうかした、倉持?」
「後輩に、可愛い子とかいる?」
「なに、紹介してほしいの?」
 美咲が訊き返すと、倉持は「可愛い子がいるなら」と言った。
 美咲は少しの間、思案してから倉持に言う。
「アクの強いというか、クセがあるというか……世間で言うところの可愛い子かどうか、怪しいのしか知らないけど」
「たとえば? この大会、五人で戦っていくんだろ? その五人の特徴を、先鋒から大将まで、どんな子が俺に事細かに話してちょんまげ」
 剣道の試合を観に来たはずなのに、倉持の中ではどうやらすっかり目的が変わっているらしい。だからといって、それを制止させる気にもなれなかった風間は、口を挟むことなく二人の会話を聞くことにした。
「えーと、先鋒の子は……」
「先鋒の子は――あ、ついでに名前も教えて」
「えーとね……あ、そうそう。千堂早苗(せんどう さなえ)って子」
「サナエちゃん? へぇ、可愛い名前してるじゃない」
「ちなみに顔写真がコチラ」
 そう言って、美咲は携帯電話をパカッと開き、倉持に見せる。
 風間と倉持との間に、美咲は座っている。そのため、倉持に携帯の画面を見せつけているものだから、風間には美咲の言う『千堂早苗』なる子が、どんな顔をしているのか分からなかった。
 しかし……一瞬にして表情を硬くした倉持の顔つきを見る限りでは、余り倉持が好むような顔立ちをしていないらしい。
「……あ、いいや……。次鋒の子を……」
 倉持に拒否されるくらいなのだから、千堂早苗嬢もかわいそうなものだな、と風間は内心で早苗嬢に同情してやった。
 美咲は続ける。
「次鋒の子は、沖浦一子(おきうら かずこ)って名前ね」
「念のため、顔写真を見せてくださいます?」
 どうやら、先程の先鋒の子が――倉持の美的感覚では――よほどブサイクだったのだろう。既に予防線を張っていた。
 美咲は携帯を操作し、その沖浦とかいう子の写真を倉持に見せる。
 すると、倉持は目を丸くした後、少し口元を緩ませる。
「あ、この子は可愛いじゃないの。紹介してくれたら、俺、コクっちゃうかもな〜?」
 調子の良いことを、いけしゃあしゃあと言ってくれる倉持だったが、美咲が先に封殺する。
「残念、彼氏持ち。ついでに言えば、面食いよ、この子」
 ガーン、という効果音が聞こえてきそうなほど、表情を沈ませる倉持だった。
 面食い、という単語に、風間はふと、その沖浦という子は、きっと得意技はメン打ちだろうな、と思ってしまった。
「……ま、いいや、そんな場合もある。次の子いこう、次」
 気を取り直し、次の子を催促する倉持だった。
「えーと、次は中堅、桜ノ宮永久(さくらのみや とわ)ね」
「永久ちゃんか。どんな顔?」
「ほい、こんな顔」
 美咲は携帯を倉持に見せる。
 途端に、倉持は笑顔になった。
「さっきの沖浦とかいう子よりも、もっと可愛いね、この永久ちゃんっていう子」
「ちなみに、彼氏はいないって聞いてる」
「なら、俺が!」
「でも、永久ちゃんは、やめといた方が賢明ね」
「どうして?」
 倉持が訊き返すと、美咲は口の端をニヤリと歪める。
「剣道一筋で純粋だから。多分、恋心というものをよく分かってないと思う」
「あ、なら大丈夫。俺流“男の色香”でイチコロにすれば良いだけだから」
 倉持の体からフェロモンが出せるなら、世の中の“男という種類に属する生き物”なら誰でも、パリコレにエントリーできそうだな、と風間は思う。
 倉持自身は真剣だったらしいが、美咲は倉持の言葉をジョークの一つだと勘違いしたらしく「じゃ、次の子行くわよ」と携帯を操作していた。
 倉持は首を捻る。
「……俺、なんか間違ったこと言ったっけな……」
 ツッコミを入れてやろうか、とも思ったが、それすらも馬鹿馬鹿しくなっていた風間は、しばらく口を開かないことを決意する。
「ま、いーや。次は副将だよね? どんな子?」
 倉持の問いに美咲は「次の子は、千堂沙耶(せんどう さや)っていう子」
「……沙耶っていう名前はすごく可愛いと思うけど……“千堂”って、まさか?」
「うん。先鋒の、千堂早苗の姉よ」
「……もしかして、似てる?」
「うん。そっくり」
「よし、もういいや、次」
 写真を見るまでもなく、拒否権を発動している倉持だった。
 再度、携帯を操作してから美咲は言う。
「もう最後ね……大将の子は土屋歳美(つちや としみ)っていうんだけど」
「……なんかもう、心をわくわくさせるのがアホらしくなってきたんだけど?」
「コレが顔写真ね」
「……お見それしました」
 倉持がそう言うと、美咲は得意そうな顔になった。
「可愛いでしょ、この子」
「絶世の美女ってトコロか? へぇ、さっきの永久ちゃんが霞んで見えるくらいじゃん」
「付け加えると、剣道もチョー強いわよ」
「そりゃ、大将やるくらいだから、そうなんだろ。彼氏いるの?」
「本人が言うには、いないらしいわね」
「うっほい、当たり目! 是非とも、紹介してくださいな、美咲サマ」
「構わないけど、後悔だけはしないでね?」
 意味ありげな美咲の言葉に、倉持は首を傾げた。
「どういう意味?」
「歳美は、彼氏こそいないけど、好きな人はいるらしいわよ。ま、本人は否定してるんだけど」
「……なんじゃそら?」
 思わず、風間は二人に尋ねていた。
 すると、倉持が溜息混じりに苦笑した。
「分かってねぇなぁ、風間よぉ?」
「何がだ? 本人が否定してるんなら、好きな人なんていないってことじゃないのか?」
 風間が尋ねると、倉持はチッチッチと指を振る。
 風間は顔をしかめた。
「……その気持ちの悪い指振りは、何のマネだ?」
「気持ち悪いとか言うなよ、風間。まぁいいや、ともかく! 家帰ったら、『ツンデレ』っていう単語をミサってみろ」
「……その前に、『ミサる』って何語だ?」
「インターネットで検索するって意味でしょ、確か」
 風間の疑問に、美咲がそう答えた。
 それから、倉持は言う。
「ま、ともかくだ! 本当は好きな人がいるにもかかわらず、素直になれないからついつい『好きな人なんていない』って言ってしまうってことじゃねぇの。可愛いじゃないか、そんな一面があるなんて」
 風間には倉持の思考回路がイマイチ理解できなかった。
 素直になれない女の子の、どこが可愛いのだろう? 扱いにくいことこの上ないとしか思えないが。
 倉持は美咲の方に首を向ける。
「で、美咲ちゃん? その、本当は好きな人がいるって言ってたけど、それ誰? 実は俺とか?」
 会ったこともないどころか知り合ったことすらない人間のことを好きになる女がいれば、それこそ電波だろうな、と風間は思う。というかこの場合、おめでたすぎる頭をしている倉持を批難した方が良いのだろうか。
 美咲は溜息を一つ吐くと、
「そんなわけないでしょ〜」
 と、倉持の妄言を一蹴した。
「え? じゃあ、誰?」
「男子剣道部の元主将、上本琴也(うえもと ことや)……って言っても、誰のことか分かんないわよね」
「わかるわかる!」
 勢い込んでそう言ったのは倉持だった。美咲と風間は顔を見合わせる。
 それから美咲は、目を倉持のほうに戻した。
「……何が分かるの?」
「俺の恋敵ってことが」
 その上本某と同じ土俵にすら上がれないと思うのは俺だけだろうか、とこの時の風間は思った。



 体育館は、一階が試合場になっており、二階、三階が一階をぐるりと取り囲んで見下ろすような観客席となっている。
 風間たちが他愛のない会話をしているうちに、試合は進んでいく。
 やがて、白百合学園の女子剣道部が、試合場の一つに姿を現した。
 白い剣道着に、胴と垂を身につけた彼女達の姿は、実に絵になっている。一本芯の入ったような、決してブレることのない立ち姿は、一種独特の美しさすら感じられる。
 スタイルが良い、とはこういうのを言うんだろうな……と風間は思った。惜しむらくは、この観客席からだと、彼女達の立っている場所まで少し距離があるため、彼女達の顔がよくは分からないことだった。
 こんなことなら、美咲の携帯電話で顔写真を確認しておくのだったな……と、風間はチラリと後悔する。
「あれ? そこにいるの、美咲先輩スか?」
 背後から男の声が飛んできた。美咲を含め、風間と倉持も声のした方を振り返る。
 階段状になっている観客席なので、自然と見上げる格好になる。その男はこちらを見下ろすような格好になっていたが、何故かこの時、風間はその男の視線には『睥睨』という単語が似合うと感じた。
「あ、やっぱり。久しぶりスね、先輩」
「ウエキン! 久しぶりじゃない、どうしたの、こんなとこで?」
 ウエキンと呼ばれた男は、苦笑混じりに近づいてきた。
「相変わらず、人に妙なあだ名を付けるのが好きスねぇ、先輩」
「妙な、とは失礼な。これでも先輩なりに、後輩を愛する気持ちをこめてるつもりなんだけどね?」
「それならそうと、『サテン』はともかく『きゃたぴー』はどうかと思いますけどねぇ……」
「でも、ウエキンだって、二人をそう呼んでるんでしょ?」
「そりゃ、定着しちゃえば、ね」
 そう言って肩をすくめて見せた“ウエキン”はチラと風間の方に視線を向ける。
 ウエキンと呼ばれた男はこちらを見つつ、美咲に尋ねた。
「で、この二人は誰スか、先輩?」
「ああ、予備校の知り合いよ。私の左にいるのが倉持で、右側が風間」
「へぇ? 予備校の……。あ、俺、美咲さんの後輩で、上本琴也って言います」
「上本……? 上本って、あの上本?」
 眉根に皺を寄せて、倉持が言った。
 上本は答える。
「……どの上本か、は知らないスけど……多分“その”上本で間違いないスよ」
「ほ〜? じゃ、お前があの上本か……」
 倉持は上本にジロリとした目を向ける。頭の上からつま先まで、舐めるような視線を向けてから倉持は上本に言う。
「……お前が、歳美の彼氏候補その1か?」
「はぁ? ……あの、美咲先輩? こちらさんに、何を吹き込みました?」
 胡散臭いと言わんばかりの目と声で、上本は美咲に訊く。
 美咲は苦笑混じりに答えた。
「気にしないで、ウエキン。倉持は、ちょっと自分に都合の良い解釈を勝手にしちゃうクセがあってさ」
「それ、要はハタ迷惑な独り合点って言うんじゃ……?」
 上本がボソリとそう言うと、美咲は否定せずに首を縦に振る。
「ま、あんまりこいつの言うことを真に受けないで、とだけ言っておくわ」
「その方がよさそうだ……。で、美咲先輩は後輩の応援スか?」
「うん。で、どう?」
「どう、って?」
「ウエキンの目から見て、歳美たちの様子というか、調子の程は?」
 美咲の問いに、上本は少しの間、思案する。
 それから上本は言った。
「新しく、剣道の指導員として、白石先生が来てくれましたし……まぁ、底力は身についている、かと」
「勝てそう?」
「……相手によります」
「もっとハッキリ言うと?」
 一瞬の沈黙の後、上本は言った。
「ベスト16に選出されれば、御の字ってトコですね」
 上本の言葉を聞いた美咲は「……そう」と言った。
「蒼鷲旗の奪取は無理かしらね、やっぱり」
「五人のうち、二人が二年生で一人が一年生。経験を積んだ上での挑戦、という意味ではむしろ、来年の方が期待できる感じっスね」
 今年の二年生は来年の三年生であり、今年の一年生は来年の二年生となる。大会での経験値が彼女達を強くするというのなら、確かに今年よりは来年の方が、期待できる。
「やっぱり、歳美には荷が重いかしら……」
 美咲の呟きに、上本が言葉を添える。
「歳美には無理でしょうや。周りを引っ張ることは得意でも、自分自身の剣道となればからっきしですからね、アイツ」
「でも、歳美、あれでも女子剣道部の中じゃ一番強いんでしょ?」
「だからっスよ」
 決然とした声で上本は言う。「部のてっぺんがその程度じゃ、周りの連中も高が知れてくる」
 すると、美咲はすっと眼を細めた。
「……冷たいのね、歳美に対して随分と……」
「冷徹かもしれませんけどね。でも、俺はアイツ等が蒼鷲旗を持って帰れるほどの力量があるとは、どうしても思えません」
「じゃ、ウエキンはどーなのよ?」
 美咲の切り返しに、上本は一瞬、虚を突かれたような顔になる。
 しかし、すぐに表情に微笑を取り戻した上本が美咲に言う。
「なんですか、その言葉は? それじゃまるで……俺が大会に出て、あの旗をもぎ取ってこい、って言ってるように聞こえるンスけど?」
「実際、そう言ってるんだけどね。どうなの? 白百合学園の男子剣道部は」
「活動が停止してることくらい、知ってるでしょうに……」
「あら? これでも私は、今でも白百合学園に太いパイプがあってねぇ? ……謹慎による活動停止命令は既に解除されてるって話なんだけど?」
「らしいですね?」
「ふぅん……? トボけるんだ……」
 一拍置いてから、美咲は言葉を続ける。
「正直に言って欲しいんだけど、男子剣道部は、蒼鷲旗にエントリーしてないの?」
「エントリーはしてますよ」
「メンバーは?」
 美咲が問うと、上本は指を折りながら答える。
「えーと、テツに、きゃたぴー、サテンと……桜井に、リン。その五人スね」
「四人は知ってるんだけど、最後の“リン”って誰?」
「ああ、今年の一年スよ」
「本名は?」
「え? えーと、確か……上條燐太郎(かみじょう りんたろう)だったかな……」
「へー? 悪いけど、パンフには載ってないわよ、そんな名前」
 美咲は指摘しつつ、パンフレットを上本に手渡した。
「えー? そんな馬鹿な……」
 苦笑いを浮かべつつ、上本はパンフレットを手に取った。
 風間も、自分が持っているパンフレットを見やる。
 蒼鷲旗大会、男子の部。
 そこの、白百合学園のメンバー表に視線を落とす。
 ――先鋒・桜井充
 ――次鋒・磯部光敏
 ――中堅・岡本行通
 ――副将・水戸鉄宏
 ――大将・上本琴也
 確かに、美咲が言うように、上條燐太郎という名前はどこにも見当たらない。
 いや、それより……
 風間たちの傍に立っている上本琴也という男が、白百合学園男子剣道部にて、大将をしている、という事実に、風間は軽い驚きを覚えていた。
 しかし、風間の驚きは、当人が感じているものほどではなかったらしく、
「……え? なんで俺の名前が!?」
 上本は驚愕していた。
「嘘だろ!? メンバー表、俺ナシで作れって言ったのに……」
 飄々とした態度を今まで崩さなかった上本が、あたふたしていた。
 そりゃ、自分の知らないうちに、公式の大会に自分の名前をエントリーさせられていれば、誰だって狼狽するだろうな、と風間は考えた。
「……テツの野郎……!」
 毒を吐く上本に、美咲が言った。
「私もね、正直なところ、白百合の女子に蒼鷲旗の奪取は荷が重いと思う。でも……白百合の男子は違う」
「どう、違うと?」
「駒だけなら、男子と女子にそこまでの差はない。突出している、という点では、男子には桜井がいるけど、女子には永久ちゃんだっているから、互角でしょ」
「……なら、どう違うんです?」
 上本が問い返す。
 美咲は口の端に、柔らかな笑みを浮かべ、答える。
「そりゃ、てっぺんに立つ人間が違うんでしょ? 女子剣道部の部長、土屋歳美と……男子剣道部の部長の、ウエキンとじゃあね?」
「いや、俺はもう、部長じゃ……」
「勝ちなさい」
 これまでとは打って変わった強い口調だった。
「勝ちなさい、ウエキン。勝って、勝ち抜いて、優勝しなさい」
 美咲の声音に、上本は反論を封殺されてしまったらしい。上本は何も言い返せなかった。
「蒼鷲旗を、もぎ取りなさい。それ以外に……贖罪の術はないのよ」
 耳慣れない単語が、美咲の口から飛び出した。何のことだ、と思ったのは風間だけではなく、倉持も怪訝そうな顔をしていた。
 しかし、上本には通じたらしい。
 目を丸くした上本は、震える声を抑制しつつ、美咲に尋ねる。
「……先輩、まさか、知ってるんですか?」
「言ったでしょ? 太いパイプがある、って」
「でも、どこから……」
「その質問には答えられないけど……少なくとも、どこかに広まったりとかはしてないはずよ」
「広まったら困りますよ! ……そうスか、知ってたんスか、先輩……」
 苦痛を堪えるように、上本は手で目を覆った。
「……俺だって、そんなつもりじゃなかった。でも、気がついた時には、ってヤツで……」
「過ぎたことをどうこう考えても、仕方ないわよ。でも、逃げてちゃ、どうしようもないでしょ?」
「……それは、そうなんスけどねぇ」
「だったら、少しは“顔向け”ができることを、してごらんなさい」
 美咲がそう言うと、上本は「顔向け、か」と呟いた。
「……俺に、竹刀を握る資格って、まだあるんですかね?」
「そう思っているのは、ウエキンだけよ」
 諭すように美咲は言った。「周りがどうこう言おうが、関係ないじゃない。自分自身で竹刀を握りたいと思う限り、それが資格になる」
「竹刀を握りたい、っていう気持ち……か」
 そう言うと、上本は自分の目元に被せていた手をどける。
 その時、風間と上本の視線が交わった。
 ――あっ!
 思わず、そんな声が風間の口から漏れ出た。
 風間は、見たことがあった。
 今の上本がしているのと、同じ目を。
 本当は、やりたくてやりたくてしょうがない。
 しかし、それを素直に口にすることができず、何かしらの理由から「やりたくない」と言う人間。
 どんな理由があるのか、そんなものは風間には分からない。
 だが、やりたくない、資格がない、することに意味などない、と言うような連中のことが総じて、風間は気に入らなかった。
 やりたくない、と言いつつもやる人間。
 やる資格などない、と述べつつも、やる人間。
 意味など無い、とヌカしつつも、結局はやる人間――
 風間はとにかく、そういった連中が、嫌いだった。
 素直に、正直に、精一杯生きている人間を、馬鹿にしているのか、と言いたくなる。
 さきほど、倉持が言っていた『ツンデレ』という単語が、ふと脳裏に思い浮かんだ。
 素直になれず、正直に自分の気持ちを伝えることができない者のことを、そう言うのだそうだ。
 心の底から、風間は思った。
 くだらないと。
 クソ食らえと。
 そんなものを可愛いとか言うヤツは、頭が腐っている。
 そんなものがもてはやされる世の中は、イカれている。
 そんな思いが、風間の視線には籠もっていたのだろう。上本もまた、こちらを射貫くような双眸をしていた。
「何スか? 何か、俺に、文句でも?」
 ああ、文句ならたっぷりとな……そう言いかけたが、やめておいた。
 喧嘩を売るべき相手は“アイツ”であって、眼前の上本ではない。
 風間は目を伏せて「いや」と上本に言った。
 それから風間は立ち上がる。
 座席を離れ、風間は観客席から回廊へと戻る出入り口へと歩き始めた。
「あれ? 風間、どこ行くのよ?」
 背中から、美咲の声が飛んできた。
 足を止め、風間は振り返る。
「用事を思い出した」



 ヤマシロ市立大学は、北地区の外れにある。
 ヤマシロと、隣りの都市との、ほぼ境界付近に大学の敷地がある。
 その大学の傍には、墓地もあった。
 風間は墓地に足を踏み入れた時、自分の志望大学と、ヤマシロ市大に拘る理由でもある男が眠る墓地とが、ほぼ隣り同士に位置しているというのも、何かの因果なのだろうか、と苦笑した。
 道なりに進み、目的の墓石を風間は目指す。
 真夏の直射日光を遮るのは、ところどころに埋まっている木の枝だった。青々と生い茂る深緑の葉が、木陰を作り出していた。
 目的の墓石の前で、風間は足を止める。
 そこは、生野透(いくの とおる)という男の墓だった。
 いや、男というより……少年といったほうがいいのかもしれない。
 ふと、風間はあることに気がついた。
 生野透は、十七歳でこの世を去ったはずである。
 そして、自分は十九歳になった。
 いつの間にか、風間は生野よりも年上になっていた。
 直接の面識こそ無かったが、風間と生野は、同じ中学出身の、後輩と先輩だった。
 風間は墓前で、しゃがみ込んだ。
 墓の下にいる男に、風間は言った。
「……気付けば、アンタより年上になったんだな、俺は」
 当然だが、返事はない。
 しかし、風間は言葉を続ける。
「卑怯だぜ、アンタは……。あんな、いやみったらしいモン残しといて、自分はポックリなんだからよ」
 忘れもしない。
 あれは、中学三年になったばかりの頃だった。
 高校受験に備え、塾通いを始めたばかりの頃。
 受験生としての自覚を持つように、とのことで、自分たちは一つ上の学年にあたる者達の「合格体験談」を読まされた。
 そこに、学年が一つ上になる生野透の、合格体験談が、風間の目に留まった。
「今でも、忘れない。アンタの書いた体験談は、今でもハッキリと覚えている。ホント……今でも胸糞が悪くなる」
 あの体験談。
 風間にとって、随分と腹の立つ体験談だった。
 だからこそ、見返してやりたい、と思った。
 生野と同じ高校を受験し、合格する。
 それから、自分なりの合格体験談を、載せてやる……と、風間は誓った。
 その誓いは、破られてしまったが。
 そういう意味では、惨憺たる受験結果だっった。志望校に落っこち、滑り止めとして受験した清和学園への入学を余儀なくされた。
 あの日、風間は負けた。
 単に、志望校に落ちた、というだけではない。
 腹の立つ合格体験談を残した生野透に、届かなかった。
 それが、風間にとっては、志望校に落ちたこと以上に、敗北感を植え付けられた。
 それから、数年の時が流れた。
 またもや巡ってきた、受験の年。
「私立大学には受かったが、それじゃあ、ダメなんだよ。それに妥協しちゃ、俺は絶対にアンタに勝てないし、アンタに届かない。もう、第一志望は、譲れない」
 だからこそ、風間は第一志望に、ヤマシロ市立大学に、拘っているのだった。
 私学に合格したにもかかわらず、それを反故にしてまで、ヤマシロ市立大学を目指すのには、そういった思いがあるからだった。
「……次は、負けない。もう、アンタ等みたいに、テメェの本心に嘘を吐いているような連中に、負けたくはない。見てやがれ、俺は……必ず、勝ってみせる」
 決然と言い放った風間は、すっくと立ち上がり、その場から離れた。
 今は亡き男に、一方的に挑戦状を叩きつけた風間は、来た道を引き返した。
 夏は、受験の天王山。
 風間の夏は、まだ終わらない――