化学の講義の時間だった。
風間や倉持に化学を教えている講師は、涼風館ヤマシロ中央校では“一種の変人”として有名だった。とはいえ、熱意溢れる指導をするためか、授業をマトモに聞く気のある生徒達には人気があった。
「そういや、最近『リア充爆発しろ』っていう言葉を聞くが……リア充に爆発して欲しいって思ってるヤツは、この中に何人いる?」
ふと思いついたことを、そのまま口にした化学の講師こと木原哲也(きはら てつや)は、教室をぐるりと見回した。
「ま、訊いて『ハイハイ』と勢いよく手を挙げるやつはおらんわな。せっかくだから、リア充を具体的に爆発させるとすれば、どんな方法があるか、ちょっとばかし考えてみよう」
話が脱線することなど、いつものことである。
「手っ取り早い方法としては、まず釣具屋さんに行くことだ」
教卓に、持っていたテキストを置くと、木原は説明を始めた。
「あのな? 釣具屋に行って手近な店員さんをまずは見つけよう。そして、店員さんにこう言うんだ。『カーバイドはどこですか?』とな」
ワケのわからないことを言い出すことは多々あるが、大抵、木原の話は面白い。そのため、木原の脱線トークが始まると、生徒達は黙って聞き入ってしまう。
「すると、店員さんは『あ、イカ釣りですか?』と訊いてくる。こっちは笑顔で『はい』と元気の良い返事をしよう」
その時点で、笑いを堪えている生徒が何人かいた。しかし、何のことか理解できていない者もおり、そいつらは顔をしかめて「何が面白いの?」という表情をしていた。
より具体的には、ニヤニヤ笑いを堪えているのが風間であり、首を捻っているのが倉持だった。
木原の講釈は続く。
「もし、ノリの良い店員さんだったら『イカ釣りと言っても、イカちゃんは釣れませんよ?』と訊いてくるかもしれないが……あ、イカちゃん、って分かるやついるのか?」
首を捻る人間が大半だったが、中には「ああ、アレな」と得心している者も居た。これに関しては、風間にも分からなかったが。
木原は「ま、それはともかく」と話題を少し前に戻す。
「前の講義で語ったと思うが、カーバイドの主成分は分かってるよな? 釣具屋で売ってるようなヤツは硫黄を混ぜてあるが、ほとんどが炭化カルシウムだ」
炭化カルシウムは水に浸すと反応を示し、そこからアセチレンが発生する。
アセチレンとは、三重結合を持つ、常温で気体の物質である。きわめて、不安定な物質であり、火花一つで爆発的に反応する。
「イカっていう生き物は、光に反応する。船の上でカーバイドからアセチレンを発生させて、それをチビチビと燃やして光にする。だから、カーバイドはイカ釣りに使われるわけだが……さて。試しに、カーバイドをトイレの便器にひとかけらずつ入れていったとしよう」
一度言葉を切り、木原は一同の顔を見回してから、言葉を続ける。
「この涼風館の建物の地下一階から、八階まで、各階のトイレにカーバイドを仕込んでみよう。そしてリア充がトイレに入っていった、という状況を考えよう。最初、トイレは真っ暗だから、そのリア充は蛍光灯のスイッチを押す。ポチッとな。すると、どうなる?」
木原は、倉持を指名し「お前、どうなるか分かるか?」と尋ねた。
倉持は答える。
「え? そりゃ、爆発するでしょう?」
木原はニヤリと笑って、言った。
「アホ。爆発するのは、話の流れから当たり前だろう。どれくらいの爆発が起こると思う?」
「いや、さすがに……それは、分かんないっす」
倉持がそう言うと、木原は言った。
「この涼風館の窓が木っ端微塵に吹き飛んで、窓の破片が、道路を挟んだ向こう側のビルの窓ガラスを突き破るな、多分」
木原がそう言うと、教室がドッと沸いた。
「とまぁ、アセチレンってやつは怖い、ってことだ。リア充が腹立つからって、軽々しく爆発させようとするなよ? あ、ちなみに、この涼風館で、トイレにカーバイドを仕込むのは不可能だからやめておけよ?」
「何故ですか?」
生徒の一人が尋ねてみた。そちらに首を向け、木原は答える。
「硫黄が混ざってるっつったろ? やろうとしても、臭いでバレる。主に俺に」
そう言うと、木原はテキストを持ち上げる。
「話の脱線はここまでだ。じゃ、授業に戻るぞ」
授業に戻る、とは言ったものの、木原の授業は脱線が多い。その後も、爆発に関する講釈を一通り並べ立てているうちに、授業時間が終了していた。
ダチョウの卵を電子レンジでチン。
金属ナトリウムをプールにポイ。
“濃硫酸”に“水”をジャバー。
高温の油に、摂氏四度の水をバシャー。
レモンを高温の油でカラッと。
他にも、トリニトロトルエンや、ピクリン酸なども爆発するとのことである。
リア充という生き物にイラッと来たら、ダチョウの卵か金属ナトリウムをプレゼントしてやれ、と言ってから木原は本日の講義を締めくくった。
模試や入試の化学で、今日聞いた話が、どれほど役に立つのか風間は甚だ疑問ではあったが、終始笑いっぱなしだった倉持は「面白かったから良いや」とのことだった。
「ところで、さっき先生が言ってた『イカちゃん』って何のことだ?」
ふと気になったことを倉持に尋ねてみた。
「ミサれ」
「またか」
教える気のないらしい倉持のにべもない一言に、風間は嘆息した。
「……まぁ良い。どうせ、知らないからって困るもんでもないだろ」
そう呟き、授業後の復習をするために自習室へと向かおうとした時だった。
「そんなつれない態度を取りなさんな。飯でも食いに行こうぜ?」
倉持の誘いを「家で食うからいいよ」と一蹴した。
しかし、倉持は折れない。
「良いじゃねぇの、たまにはよー。勉強ばっかじゃ息も詰まるってもんだ」
倉持の方を振り返り、風間はすっと眼を細くする。
それから低い声で、言ってやる。
「二浪しとれ」
言うだけ言って、風間は倉持を置いて、自習室へと向かった。
視界の端で、表情を凍らせている倉持の姿は、見えないことにしておいた。