十一月にもなると、夜の七時は外が真っ暗になる。
勉強の区切りがついたので、たまにはさっさと帰ることにした風間は、涼風館の出入り口付近で「ねぇ、風間」と美咲に呼び止められた。
足を止め、振り返る。
こちらに追いついた美咲が尋ねてきた。
「あのさ、倉持に何か言った?」
「何かって、何を?」
「いや、最近、人が変わったみたいに勉強してるから、倉持が。付け加えるなら、うわごとで『風間にだけは負けねぇ……』ってブツクサ言ってるんだけど」
思わず、笑ってしまった。
倉持の場合、それくらいで丁度良いと言うものだ。ましてや浪人生なのだから。
「受験生なんだ。勉強なんて、やってナンボだし、当たり前だろ?」
「そりゃあ、そうだけどさ……。でも『二浪しとれ』はいくらなんでも酷すぎない? ちょっと晩ご飯に誘ったくらいでさ」
確かに、その点に関しては、言い過ぎたかもしれない。しかし、謝るつもりは微塵も無かった。
浪人生活というものを、倉持や美咲がどう捉えているのか、そこのところは風間は知らない。しかし、自分たちは「勝ちたい」からこそ、この涼風館にいるのだ。
勝とう、という気概の感じられない倉持の方にも問題はあるだろう、と風間は思う。
風間の一言が起爆剤になったのだから、結果オーライだったと風間は考えていた。
その旨を風間は美咲に告げてみた。
すると美咲は言った。
「前々から疑問だったんだけど、風間の言う『勝ち』って何なの? 『合格』とどう違うの?」
「単なる合格は、勝利とは呼ばない。だから浪人したんだし」
「ああ……そういえば、私学の合格を蹴って、浪人したんだっけ? ……その理由、私は知らないんだけど、なんでなの?」
「教える必要、あるか?」
疑問系に疑問系で返すのは卑怯、とどこかで聞いたことがある。
しかし、自分が浪人している理由を、事細かに美咲に語って聞かせる必要性を感じない。
「必要なら、あるわよ」
「どうして?」
風間が訊き返すと、美咲はにっこりと笑う。
「だって、友達同士じゃない。私と風間」
風間は眉間に皺を寄せた。
友達、という単語が、これほど鬱陶しい響きを伴っているとは予想していなかったからである。
いつぞやと同じく、涼風館を出て少し歩いたところにあるコーヒーショップに二人はやって来た。
テーブル席に、湯気を立ち上らせているマグカップ二つを置くと美咲は「話してくれるわよね?」と言ってきた。
風間は溜息を一つ吐き、それから言った。
「コーヒー一杯で、俺を釣れるとでも?」
「私の奢りだから、気にしないで良いのよ?」
その実、美咲の目は対価を求めていることを物語っていたが。
もう一つ溜息を吐き、風間は「仕方ない」と呟く。
「わかったよ、話す」
「やっとその気になった?」
「ただな……。他人にとって、どれほどちっぽけに思える理由でも、俺にとっちゃ、何より大事なんだ。くだらねぇ、とか言いやがったら、ぶっ飛ばす。それだけは、覚悟しろ、分かったな?」
ついでに、美咲のことを睨んでおく。すると美咲は、少しは神妙な顔つきになり「分かった」と了承した。
「それで?」
美咲が続きを促した。
「負けたくない男がいる」
風間は語り始める。「昔の話になるんだけどな、あれは高校受験の時だった」
「ふむふむ?」
「今でもハッキリと思い出せる。あの男は志望していた高校に合格した時、こんな体験談を残した」
『僕は中学二年生のころ、テレビゲームに没頭していました。そんな生活を中学三年生になっても続けていました。当時、僕はクラスの中でテレビゲームが一番上手く、みんなから「すごいすごい」と絶賛されていました。そのことが自分には何よりも誇らしかったのです。
そんな折り、僕は母にこんなことを言われました。
「アンタさぁ、テレビゲームをやり込んで、これからの人生、なんか意味あるん? 役に立つん?」
その時、僕はすぐさま、母に反論を述べることができませんでした。同時に、はっと気付きました。
反論できないのは、母の言っていることが正論だったからです。
テレビゲームとは時間を浪費するだけの存在ということに、僕は気付きました。いくらクラスメートに絶賛されても、時間の浪費を褒められて嬉しいと思う気持ちは無くなりました。
これからの人生、テレビゲームをやり込んでも、それが何かの役に立つことはないでしょう。また、テレビゲームをやり込んでいないからといって、困るというようなことも無いでしょう。
そして、自分自身、本当にしなければならないことが何であるのか。それを考えた結果、それは勉強しかないということに気がつきました。
それ以来、僕の実家からテレビゲームは無くなりました』
「――とかいうようなことが、体験談に書かれてあった」
語り終えた風間は、マグカップを手に取った。
コーヒーを一口すすり、喉を湿らせる。
美咲が口を開いた。
「でも、いくらなんでも、テレビゲームをないがしろにされたことを、いまだに根に持ってるワケじゃないわよね?」
風間は苦笑する。
「そりゃあな? 俺だってそこまでガキじゃないっていう自覚はあるつもりだ」
一拍置き、風間は言葉を続ける。「でも、それが発端なんだ」
「どうして?」
「当時の俺は相当な青二才だった。自分自身の意志の弱さをテレビゲームのせいにして、テレビゲームとは悪である、みたいなことを合格体験談に書かれたことに、腹も立った。だから、見返してやろう……と思ってさ」
「具体的には、どうやって?」
「そいつと俺は、年が一つ違うだけの先輩、後輩だった。まぁ、同じ中学だっただけで、会ったことはなかったけど」
「へぇ? それで?」
「そいつが受かった高校と、同じ高校を受験し、合格する。そして俺なりの合格体験談をぶちまけてやろう……と思っていた時期が俺にもありました、ってヤツだ」
「あ……その高校には……?」
「その通り。行けなかった」
風間は首肯した。「ま、それだけなら……良かったんだ」
「他にも何かあるの?」
「大ありだよ。で、そいつさ……その後、どうなったと思う?」
「え? どうなったの?」
「死んだ」
風間が事も無げに言ってやると、美咲は絶句していた。
二の句が継げないでいるらしい美咲に「交通事故でさ」と言ってやる。
「その時、そいつは竹刀を持っていた。たぶん、高校に入ってから部活でも始めたんだろう。ま、そこは問題じゃない。問題なのは……」
「問題なのは?」
「そいつのカバンの中に、ゲームソフトが入っていたことだ」
合格体験談で、あれだけ威勢の良いことを書いていた割りには、テレビゲームに未練があったとしか思えない生野透の所持品――いや、遺品と言うべきか――だった。
死んだ人間を悪く言うつもりはないが、それでも風間には生野透という男が「持論一つ全うできない中途半端」な人間であったとしか思えなかった。
同時に、そんな男に自分は勝てなかった、ということでもある。
中途半端。
その程度。
そんな烙印を押されたも同然の風間にとって、生野透という男は死してなお、風間に絡みつく亡霊となった。
そんな亡霊の影を払拭しようと思えば、妥協することなどできない。
もし、今年の春に、合格してしまった私立大学に入学していたならば――
風間の背筋が凍り付く。
亡霊となった生野透が、暗闇で嘲弄しているような気がするのだ。
――お前は、その程度か。
――第一志望一つ合格できないのかお前は。
――そんなんで、俺に勝ったと思うな。
――ハンパなんだよお前は。
――負け犬め。
そう、あの日を堺に、自分は負け犬に成り下がった。
だからこそ……
「もう、負けるわけにはいかないし、妥協などできやしない。それが、浪人の理由だ」
風間の言葉に、美咲は何も応えなかった。